徳川綱吉との出会いと生類憐れみの令

 さて、今日は藤乃の所に水戸の若様が来ている。

そして俺はまた藤乃付きの禿の桃香に呼ばれて揚屋に向かっている。

もはや様式美だな。


「水戸の若様が、戒斗様とお話しがしたいそうでありんすよ」


「おう、わかった今行くぜ」


 とりあえず、俺達は揚屋の藤乃が持ってる部屋へ向かい、座敷に上がることにする。


「三河屋楼主戒斗、失礼致します」


 すっと障子を開けて中を見る。


「おお、楼主よ来たか。

 このジャガイモと小松菜のくりーむしちゅーとやらは美味いのう。

 お前さんは毎回色々驚かせてくれるわい」


 そして徳川光圀はニンマリと笑う。


「紹介しよう、先代将軍家光様のご子息で上様の弟君の松平右馬頭綱吉様だ。

 いずれは上野の館林藩の藩主になる予定だ」


 俺は松平綱吉に頭を下げた。

後の徳川五代目将軍、犬公方として有名な徳川綱吉だな。

綱吉といえば、犬公方と呼ばれる原因となった生類哀れみの令や側用人柳沢吉保の重用などで色々評判の悪い将軍ではあるんだが、誤解も多い。

むしろそれまでは何でもかんでも暴力で解決していた空気を変え、日本が平和な国になったのはこの人が将軍になったからだ。


「は、先程は失礼いたしました。

 まさか上様の弟君とは思いもせず」


 綱吉は鷹揚に答えた。


「うむ、よいよい、ここは吉原ゆえ上下は関係ないしな。

 そなた私もそなたの言ったことについて思うことがあるぞ。

 それにこの海老(えび)と鱚(きす)の低温油煮込(アビージョ)はうまいのう」


 その言葉に徳川光圀が興味を持ったようだ。

彼は蒸した琉球芋を食っている。


「ふむ、この見世は変わったうまいものを食えるので私もよく来ているのですよ。

 この琉球芋を蒸かしたものも甘くてうまいですぞ」


 綱吉もほくほく顔で琉球芋を食べている。

この時代甘味の強い食べ物は少ないからうまく感じるだろうな。

綱吉は相槌を打った。


「うむ、この芋は甘くて良いな」


 今日は一緒に陸奥会津藩初代藩主の保科正之も来ていた。


「確かに、これは甘くて良いな。

 これは会津でも栽培できるのかね?」


 うむむ、食いついたのは食い物のほうかよ。


「水戸や館林、おそらく会津でも育つと思いますので、

 今試験的に栽培しているものの芽の蔓をお分けいたしましょうか?

 ただし水が多すぎるとすぐ腐ってしまうので水はけの良い暖かい場所で育ててください。

 肥料もやりすぎると腐るので基本はやらないでください。

 それとジャガイモは凍らせれば長期保存できますが琉球芋は蜜が多く長期保存はできません。

 飢饉対策としては琉球芋だけでは不十分だと思いますので粟や稗、黍、蕎麦などは引き続き作っていただいて

 飢饉用の蔵を作って貯蔵しておいたほうがいいと思います。

 なにもない時は牛馬の飼料にしておけば無駄もないかと。

 それとこちらの琉球芋は水戸の若さまが取ってきてくださったものですし水戸芋として

 広めようと思うのですが」


 俺のその言葉に対して徳川光圀はかかと笑った。


「うむ、構わぬぞ。

 水戸芋の名で存分に広めるが良い」


 俺は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 綱吉と保科正之も琉球芋改め水戸芋を気にいったようだ。


「ぜひともこちらにも分けてくれ」


「うむ、ジャガイモも良いが琉球芋も良いな」


 俺は頭を下げ言った。


「わかりました、帰り際にでもお渡しいたします」


 そして、綱吉が芋を食い終わるとコホンと咳払いを一つして、改めて言う。


「そなたは先程言ったな。

 本来犬は人間が大好きだと。

 でも、人間側が危害を加えてくるから仕方なく身を守ってるんですと」


 俺は頷いた。


「ええ、そうです。

 なんで、今は番犬として役に立ってもらってます。

 子犬はじっくり育てて目の見えないやつや耳が聴こえないやつの脚代わりになれるようにしたいと思ってます。

 俺の楼で働いている遊女たちだって好んで売られてくる訳じゃありません。

 口減らしで殺されるよりはましだと売られるのです。

 だから俺はせめて俺のもとで働いている遊女たちがなるべく不幸でなくしたいんです」


 綱吉は大きく頷いた。


「うむ、誠に良い考えであると思うぞ。

 私もそうすべきだと思う。

 人であれ犬であれ牛馬であれむやみに命を奪うべきではない」


 俺は頷いた。


「ええ、そう思います。

 しかし、野生の獣、鳥や魚や貝、虫などは人間が生きていくために食ってもいいと思いますがね」


 綱吉は頷いた。


「ふむ、まあそうであるな。

 しかし、野犬もそうだが、江戸での捨て子の多さも困ったものだと私は考えるが

 こちらはどうすれば良いかな?」


 保科正之も続ける。


「うむ、私もお前の考えを聞きたいな」


 この時代あちこちに子供がすてられ泣いている光景は日常茶飯事であった。

松尾芭蕉も富士川の辺りで三歳の子供がすてられて泣いている様子を野ざらし紀行富士川のほとりの捨て子として句を詠んでいるが”これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ”と捨て子を見捨ててその場を立ち去っている。

生まれてすぐの場合は濡れた紙やこんにゃくを口と鼻に当てて殺してしまうことも多い。

無論育てられそうな時は育てようとする。

だが3歳くらいの時だと女衒などの人買いに売ることもできず、間引きも難しくなってくる。

そうなると最後は捨てられてしまうわけだ。


 綱吉は人より犬などの動物を大切にした暴君もしくは暗君と思われているが、そんなに単純ではない。


 綱吉は将軍になると将軍よりも権力を持つ下馬将軍と呼ばれた大老の酒井忠清を廃して新しく昇格させた大老の堀田正俊とともに幕府内の徹底的な綱紀粛正を行った。

勝手掛老中制度の創設を行い財政の責任者を明確にし不正を働いていた官僚を処罰した。

側用人制度を創設し家柄に関係なく有能な人物をそばにおいて家柄は良いが無能なものを遠ざけた。


 それまでは、老中や若年寄、奉行など重要な役職になれるかはすべてそのものが生まれた家格で決まっていた。

その為無能なものがそういった権力の座につくこともあったわけだ。

要するに平安時代の貴族と同じだな、徳川松平家にあらずんば人にあらずなわけだ。

しかし、幕府創世期に有能な人物であったとしても、その子孫まで有能であるとは限らない。

そういった旧来の譜代勢力の不平不満を可能な限り抑えつつ、家柄等に関わりなく有能な人間をそばに登用する手段が、側用人制度だ。

とは言えこれ鎌倉幕府の北条得宗家の御内人に似ているから、結局は時代が下るとまた問題になるんだがな。


 また治政不良の大名は次々と処罰を受けた。

綱吉の代で改易・減封の処分を受けた大名は、実に46家、旗本が100家と関が原の直後を除けば最も多い。

これには忠臣蔵で有名な赤穂藩も含まれてる。

さらに代官の年貢未進の検査や勘定吟味役の新設を通して世襲代官の悪徳と呼ばれたものの8割を処罰し、江戸より有能な者を送り込んだ。

家康、秀忠、家光時代の改易などの大名への処分が、主に外様大名を中心に行われたものであったのに対して、綱吉時代の処分は、譜代大名へのもののほうが多い。

まあ結局これが彼が批判される原因の一つなんだがな。


 綱吉の治世は吉宗の改革を上回る業績を上げた。

しかし、生類憐れみの令の悪い部分だけが誇張された。さらにデマもでっち上げられ暗君とされている。

さらに問題なのは綱吉の治世の晩年に頻発した天災だ。

元禄年間の1691年から1695年にかけて東北で大きな被害をだした元禄の飢饉。

元禄11年9月6日(1698年10月9日)元禄江戸大火。

元禄16年(1703年)の元禄地震とそれによる江戸の火事

宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火

宝永4年(1707年)の宝永地震と富士山噴火などだ

当時は儒教の影響が大きく天変地異は主君の徳が無いために起こるとされていた。


 生類憐れみの令で民衆は苦しんでいたと云われているが、それまでに行われていた積極的な田畑の開墾と無能で悪辣な大名、旗本、悪代官の徹底的な処罰などで年貢率も綱吉時代には、実質三割弱にまで下がっていた。

逆に年貢率を6割近くに上げた吉宗は農民から最も嫌われた将軍でも有った。


 また彼は湯島聖堂や寺社仏閣の建立や勉強会の開催などの儒学・仏教の振興、服忌令や生類の憐れみの令などの発布等による日本社会のモラルの向上につとめた。

犬を食べる風習が完全に無くなったのも彼のおかげだ。


 柳沢吉保や荻原重秀などは悪徳政治家扱いをされている、田沼意次などと同じく、不当に誹謗中傷されていた有能な人材であった、賄賂を問題にする人間もいるが周りの連中も同じようなもんだしな。

ただ身分が低かったからことさら貶められたのさ。


 とは言え理想をおいすぎて地に足ついてないところもあった。

中野の犬屋敷は建設の際にその土地の住民を強制的に追い出しているうえに犬を雄雌に分けたり去勢したりしなかったので際限なく野良犬が増えてしまった。

さらには元禄の飢饉で人々が飢えで苦しんでいるのに、犬に白米や鰯をやっていたりもしたな。

更には犬の虐待などを見つけるために密告が奨励され民衆が疑心暗鬼に落ちいった部分もあった。


 しかし、綱吉という人物は徳川幕府の実質的な中興の祖であった。

まあ、大名や旗本はここから困窮が加速するんだが。


 彼の代名詞でもある生類憐れみの令についてだ。

まず野犬を保護したり、病気の牛馬を捨てること、犬を斬り殺して食べるのを禁じた理由だが、野犬はこの時代結構な問題になってたからだ。

飢鍵が起きるたびに流行った疫病の原因の一つには栄養不足もあるが、病死した人間や牛馬が捨てられて野ざらしになり、それを野犬が食べて、そのまま糞尿とともに病原菌をまき散らした。

そしてその犬を食えば人間にも疫病が広がるわけだ。


 またこの時代、産んでも育てられぬと捨て子はとても多かったし、宿では旅人が重病にかかると金にならぬと、外に捨ててしまう事がおおかった、人々の大半はこうした捨て子や行き倒れに対して素知らぬ振りをしていた。


 そしてそういった行き倒れや捨て子、姥捨てされた老人などを食った野犬が味をしめ、しまいには町中の子供や老人、牛馬などの家畜を襲う例も出てきた。


 こうした問題を解決するために綱吉が始めたのが捨て子の禁止を命じ更に7歳以下の子供を帳簿に記録させ妊婦も登録することで捨て子をなくそうとした、問題は家族に子供を養える能力がないのに捨て子や子殺し禁止を強制しても意味が無いことなんだがな。


 さらには動物を登録することもおこなった。

犬や猫を始め牛や馬まで飼い主を記録して病気になったからなどと捨てることのないようにしたのさ。

これにより疫病の流行はぐんと減った。

日本は猫がたくさん飼われていたのでネズミを媒介にして広がる病気はほとんど流行しなかった。


 またこの時代には旗本奴とか町奴と呼ばれる傾奇者が居た。

彼らは、世間の常識に反する行動と伊達者であることを誇りとし、

色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎ当てたりなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。

そして反社会的な行動も、あえて行った。

多くは徒党を組んで行動し、飲食代をわざと踏み倒したり、些細な事で因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。

浮浪者、旅人、罪人、僧侶などに対する辻斬りや試し斬り、犬を斬り殺して鍋にして食ったりもした。


 生類憐れみの令の目的の一つは、こうした反社会的な集団を諫め、そういった勢力を壊滅させるためのものでもあった。

生類とは本来は人を示したのだ。


 また綱吉は、罪人の環境も良くした。

牢屋に風通しを良くする格子を作り、月5回の入浴をさせ衛生状態を改善して罪人の獄中死を減らそうとした。


 また綱吉は『武家諸法度』を改正した。

”文武弓の道、専らあい嗜むべき事”を”文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事”とした。

戦で人を切り殺せば出世できる時代ではないと示したわけだな。

こういった綱吉の政策の結果、日本人は人命尊重の意識改革が進み、皆が安心して暮らせる社会が出来上がり元禄文化が花開いたんだ。


「俺は可能なら捨て子を預かって育てる悲田院や病人や怪我人を預かれる施薬院・療病院を作りたいですし、遊女の教養を活かした手習い所も作ろうと思ってます。

 引退した遊女が再び体を売らないでも良いようにしたいですし、賤民と差別されないようになればもっと良いと思っています。

 犬も躾を行ってむやみに吠えたり噛み付いたりせず人間とともに生きられるようにしてやりたいですな。

 まあ、いまはそこまで金に余裕はありませんがね。

 牛馬もできれば年老いて動けなくなった場合以外は捨てずに済めばいいとは思いますし動けなくなったのなら逆に脂や肉は薬としてちゃんと使ったり食ってやったりすべきだと思います。

 飢饉のときには山の中に食うもんもなくなりますから畑や田圃を鹿や猪、猿などが襲いますがそういう時は人間のいのちを守るため鹿や猪は鉄砲で撃って食うべきでしょう。

 獣の命を優先して田畑を耕す人間が餓死して耕すものが居なくなれば結局納められる年貢も減るわけで本末転倒です」


 ちなみに悲田院というのは貧窮者、病者、孤児などを救済するための孤児院のようなもの、施薬院というのは薬局、療病院は入院施設のある病院のようなものだな。


 二人は俺の言葉に頷いてくれた。


「うむ、それはそうだな」


「間違いない」


 俺は言葉を続ける。


「もしも幕府で法令として発布していただけるんなら俺としてはこのような感じがいいと思うんです」


 そう言って俺は紙に筆で書いていく。


1.捨てられた人間の子供の保護。

  捨て子を見つけたものは奉行所に届け出ること。

  すてられた子供はみずから養うか、

  またはのぞむ者がいればその養子とする。


2.行き倒れの死体はきちんと埋葬すること。

  病死であれば広まらぬように火葬とすること。


3.牛馬、犬猫の持ち主の登録。

  捨てられた牛馬がいればそれらを養育し、持ち主があればかえす。

  登録された動物を捨てたものは処罰の対象とする。

  街中にいる犬は飼主を探すこと。

  飼い主が見当たらない場合は、自ら飼うか望むものに譲渡すること。


4.辻斬り、試し切り、町中の動物を殺すことの禁止。

  無宿の浮浪者、旅人、罪人、僧侶などに対する

  辻斬りや試し斬りを行うことを禁ずる、

  また江戸町内の犬猫兎鶏を斬り殺して食べることを禁止する。

  無宿のものがあれば奉行所に報告すること。

  野犬については人の肉の味を覚えて優先的に人を

  襲うようになった場合は殺して良い。


5.すべてのものは忠孝に励み、家族である親子・夫婦・兄弟・親戚は仲よくし

  また下男下女が恨むような悪い待遇で働かせてはいけない。


「こんなもんでどうでしょう?」


 徳川光圀は首を傾げた。


「ふむ、良いのではないかね」


 綱吉も頷いた。


「うむ、良いと思う。

 楼主が先程言った悲田院や施薬院・療病院・手習い所についても上様に奏上して資金援助や許可が得られるように取り計らおうではないか」


 保科正之も言った。


「うむ、私も協力しよう。

 ところで紀伊の徳川光貞殿の労咳を治したと聞いたのだが」


 そういやこの人晩年は結核で苦しんだんだっけ。


「あ、ええ、納豆と焼き梅昆布茶、鰻の黒焼きにレンコンと生姜とゴボウとわかめの入った味噌汁

 を飲んでいただいたら治ったようですな」


「そうか、では私にも同じものを作ってくれるかね」


 俺は頷いた。

そして保科正之にそれを食べてもらった。


「ふむ、なんとなくスッキリした気がする」


「へえ、納豆は毎日食べるようにしてください。

 ほかの食べ物も効果はあるはずですが納豆が一番労咳の気を消せるはずですので」


「うむ、そうするとしようぞ」


 これで保科正之が失明を避けられるようになればもっといいな。

この人には可能な限り長く生きてほしいものだ。

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