第52話

 果たして、〝奇跡〟は起こった。

 魔導器エンジン管理者たる魔女・スルールカディアフィフス世の承認approvalなしに、この宇佐美瑛斗は空想魔術の発動し得たのである。

 この奇跡の根源こそは、彼によって新たに書き換えられた『叛旗のシュヴァルツソーマ新篇』にあった。

 新篇によれば、主人公となる名もなき少年の胸には、旧き英雄の魂が宿っているという。

 闇の歴史に消えた叛旗の英雄――名は神叢木刹刃。

 そして名もなき少年は、彼の未来を切り開いてきた少女・媛宮ソラノの窮地を察すると、彼女が宿す強い魔力を解放させ、内なる英雄をその身に纏うことができる。

 そう――少年は少女の想いと願いを引き金に、神叢木刹刃へと変身するのだ。

 澄み渡るように拡がるこの蒼穹を仰ぎ見る。そこに想像してみよう。確かあの虚空には、天の梯子に連なる天地真逆の宮殿が浮かび上がっていた筈。それは幻視やまやかしなどではなく、敵性存在ダアトが施した何らかの魔術式による環境欺瞞か、あるいはイ界のような事象地平面の彼方を観測したのだと、彼は既に知っていた。


「……俺は必ず絵穹を取り戻す。世界の摂理を書き換えてでも、きっとお前のことを見つけ出してみせる」


 宇佐美瑛斗の生まれ持つ碧の虹彩に、紅の多層魔術式が起動する。しなやかな所作で右手を掲げ、空をなぞる。世界の有り様を確かめるようにして、次に己が瞳に宿りし多層魔術式を敢えて指先で覆い隠す。


「――展開せよ、我が〈贖罪の冠ペルソナ〉」


 さながら永久とわの眠りから覚めたかのように、堅く閉じた指先。第二の瞼を模して添えられたそれが、カッと見開かれた。


「我が記憶と空想の書架ビブリオより索引。ダアト本拠地に与えられるべき名称を我がここに規定する。その名は〈逆律の万魔殿ディス=パンデモニウム〉――さあ、顕現せよ。その存在を現実界に晒せ!」


 展開した贖罪の冠によって、少年はを視認した。


「…………宇佐美、あれは――――」


 贖罪の冠の固有スキルによって現実界に射止められた空想上の天空都市、逆律の万魔殿。この瞬間まで観測し得なかった未知の巨大構造物が、忽然とその姿を顕現させたのである。

 理想郷現出イデアール・バーストによって瓦礫の廃都市と化した一帯の上空、およそ一〇〇〇メートル。今や都市を覆う天蓋と化した逆律の万魔殿が陽光を遮断し、下界へと黒い陰影を落としていた。


「おいおい、ちょっと待てよ……宇佐美のやつ、一体何をやらかしたんだよ…………」


 九凪静夢は本能的に感づいていた。直前まで宇佐美瑛斗だったはずのこの少年が今、内なる本質を――その魂の深淵に眠る、真なる自我を表出させつつあるという事実を。


「……これが、七月絵穹の空想魔術なのか? 我々は蜃気楼でも見ているというのか……」


 突如として顕在化した光景に、彼ら協会構成員も驚愕のあまり動揺を隠せなかった。

 左内希梨佳は刮目の後に静夢の支えを振り払い、よろめきながら松葉杖にもたれ掛かる。


「――グッ、こうしてる場合じゃない…………静夢、至急支部に連絡を!」


「でもセンセ、まだ魔術が……」


「魔術が使えるかどうかなんてこの際関係ない! 可能な限り最大限に宇佐美をバックアップする態勢を整えろと支部全員に伝えるんだ! これは左内希梨佳独断の指示とする」


 宇佐美瑛斗が胸に抱く未来への希望――神叢木刹刃は、神に叛旗を翻すことすら畏れぬ、逆襲の意志の権化だ。

 すぐにそれを証明するかの変化が瑛斗に訪れた。

 淡い萌葱の髪が伸び遊び、瞬く間に漆黒へと染まる。着せられていたあり合わせの着衣すら素材単位で解け、再構成ののちに本来の姿へと置き換えられてゆく。魔術加護により、もはや鎧すら必要としなくなった彼の身体を飾るだけの黒き着衣。表情を包み隠すのは、同じく黒の仮面――〈贖罪の冠ペルソナ〉だ。


「――我は黒き逆徒――神叢木刹刃」


 己が常識を越えた現象の発露に、魔術師たちは言葉を失い、本来の役割すら忘却して立ち尽くしていた。

 それも無理からぬことだ。何故なら、彼ら魔術師にとって只の一般人だったはずのこの少年――宇佐美瑛斗が別人のような姿に変貌し、ダアトの結界によって禁じられていた筈の魔法を、にもかかわらずのだから。


「…………宇佐美瑛斗。それがお前の……いや、お前たち二人の力なのだな……」


「ああ。世話になった貴方がたには感謝している――だが、ここからは俺がやらせて貰う」


 現実界に顕現した神叢木刹刃は、大切な人たちが連れ去られたあの場所に辿り着くために、さらに願う。強く願望する。


「――我に巣くいし半身、叛神半魔ヘーミテオスの義腕よ、そして数多の因果律を超えこの場に結実せよ我が刃、真説魔狼斬トゥルー・トゥース・オブ・ウルヴスよ」


 世界線すら越え顕在化した刃を義腕に携え、天空高く掲げる。

 途端、彼らを取り巻く舞台そのものが、ある変容を兆し始めた。

 建物屋上から覗える都市建築群。その数多の表層が音を立て、徐々に分解し始めたのである。

 掲げた真説魔狼斬を中心に、この一帯から集積されてゆく物質の粒子。やがてそれらはある一つの姿を象り始めていた。

 そうして姿を現したのは、現実にはあり得ない、真紅の鱗を帯びた巨龍だった。


「――大翼持つ我が幻想龍アズライグよ、俺をあの場所へと導いておくれ」


 身の丈十メートル近き巨躯に鋼が如き鱗を軋ませ、巨龍が屋上へと降り立った。

 落下防止フェンスを難なく踏み潰し、自らが幻想でないと誇示する。そうして左右に拡げられる、六枚の大翼。その羽ばたきが生む風圧だけで、魔術師たちは立ち上がることすらままならなくなった。

 刹刃は彼らに一瞥を送り、そして巨龍アズライグの背に。アズライグは頭部に四つ穿たれた緑玉の瞳を見開くと、異界のものとしか思えぬ咆哮を上げ、空間を震撼させた。

 その体躯から想像し得ない速度で舞い上がったアズライグが空を目指す。


「わかった、行ってこい宇佐美瑛斗。そして必ず戻ってくるんだ。お前の大切な人たちとともに」


 左内希梨佳はそう願う。九凪静夢も同じだ。自分の元から旅立つかの少年に、同じくらい熱き意志を託して。


「――あらゆる敗北の物語は、この俺が覆す。さあ、逆襲の幕開けだ!!」


 目的地はダアトの根城――――逆律の万魔殿。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る