第41話
――寸断されていた意識も、あまりの衝撃に一瞬で揺り戻される。
状況が自分でもよく理解できてない。寝ぼけてて壁に頭でもぶつけたのかも。
まだおぼつかない視界、すぐ目と先に、七月絵穹の顔が揺らいでる。あたりは何だか薄暗くて、まばゆい外光が注がれる度に、先輩の心配げな表情がチラチラと浮かんだ。
「エ……イト…………宇佐美……くん…………」
シャツの胸元をキュッと掴まれてしまった。僕は仰向けに寝かされていて、先輩が上。彼女にまたがられてるみたいな、ちょっと気まずい体勢になっていて。
僕たちは停まった車の後部座席にいて、外が真っ暗だった。
僕の覚醒を確認した七月先輩は、どこか逡巡するような、戸惑いの表情を浮かべていて。それ以上何も言ってくれない。僕も何て応じればいいのかわかんなくて、言葉が続かない。
ただひとつ、茶色い先輩の瞳が、あの悪夢から抜け出せたって教えてくれた。
そしたら、急に先輩の目元がくしゃってなって、それから沈んできたおでこが僕の胸元に当たった。コツンと、寄りかかられてしまった。どんな顔してるのかちゃんと感じられる。必死に押し殺した声も。うまく浮かべられない表情の震えまで、何度も何度も。何度も脈打つように、胸越しに伝わってきてるから。
先輩の肩を軽く支えてから上体だけ起こす。彼女の顔は胸に置き去りにしてあげて。
「やっと現実界に戻れたんだよね、僕。とにかく先輩も無事でよかった。ありがとう。先輩自らが変身して助けに来てくれたからマジ驚いちゃった。ほんと、ダアトのやつらが先輩に何かしたのかと焦って、すっごく心配してたん……だか……ら?」
溢れ出てくる想いも、最後まで言い切れなかった。何かに気付いた先輩の視線を追って、そして少し潤んだ彼女の瞳が照り返す光に、ようやく我に返ったからだ。
真っ暗な車外で瞬きを繰り返していた外光の正体が何なのか、僕も知ってしまった。
「何かの間違いじゃ…………ないよね…………」
思わずドアを開け、車外に出ていた。
この車、高台かどこかに向かう途中の峠道で停車してるらしい。
「間違いなもんか。でもよ、こんなふざけたことが現実にあってたまるかよ……」
見ると、すぐ傍の傾いたガードレールのところで九凪君が立ち尽くしていた。
彼が茫然と見据えるその先――斜面を下った先に広がる都市の夜景。その中心部を、真っ白な閃光が柱となって立ちのぼり、夜空を貫いて月まで至っていた。
「――ああなり始めてまだ五分と経っていない。ここまで離脱できた我々は幸運だった」
背後で、耳慣れない女性の声がした。運転席側でハンドルを握って、窓から同じ光景を見届けていたであろう、もう一人。魔術協会の人。九凪君の上司の、左内さんだっけ。
「でも、あんなのって―――――」
イ界で見た、巨大ファンタズマの破裂の続きにしか見えなかった。
「そんな……じゃあ、あの悪夢は……
次第によみがえってくる。串刺しにされた銀髪の魔女と、彼女から魂を吸い上げたファンタズマの騎士、そして白い光でイ界に滅びをもたらした巨大なファンタズマの戦艦を。
「二人とも、ここも危険そうになったら山の反対側まで逃げるぞ。明日まで無事生き延びられたなら、私にも事情を詳しく訊かせておくれ。約束できるか?」
無事に生き延びられたなら。
この焦燥にも似た感覚を、うんと背が伸びた僕の皮膚はまだ覚えている。忘れられるはずがない。十年前。あの日、あの〈怪獣〉のさなかにいた絶望の記憶を。
そして今、僕たちの町を串刺しにして屹立した白光の柱に、新たな変化が訪れていた。
光柱が地面に接してるあたり。そこから四方に向け、さらなる閃光の尾を迸らせて――
うしろにいた先輩が、急に背中に身を預けてきて、そして耳元で短く悲鳴を上げる。
――遂には光の柱を基点に、都市の夜景が十字に割れ始めた。
ごう、と低い唸り声みたいな音が大気を振るわせる。木々をざわつかせて、車がぎしりと軋んだ。眼前で、灯りの落ちたビル群が白い衝撃波に、次々に飲み込まれていく。
僕たちはこの恐るべき終末世界の幕開けを前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
これは兆候。すべてを書き換え始めた〝物語〟の片鱗だって知ったのは、まだ先のこと。
僕たちの世界が変わり始めていた。変わり始めていることに気付いていたはずなのに、僕たち一人一人が知り得る〝本当〟なんて、ほんのわずかだから。
このとき七月絵穹が流した涙の本当の意味すら、僕は何もわかっちゃいなかったから。
だから起こった全貌を知った時には、もう何もかも取り返しが付かなくなっていたんだ。
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