第34話

 そろそろネットカフェを出ようと思い、トイレで席を外していた時のことだ。

 洗面台の鏡に映った自分を前にしたら、不思議とテンションが冷めていった。そうして考えないことにしていたはずのいくつかが、また胸の奥底で鎌首をもたげる。

 僕が足を踏み入れた魔術師の世界は、ある意味では殺し屋がうろつく荒野だ。いくら協会の下で秩序が保たれていても、イ界には魔術師共通の敵・ファンタズマが遍在している。

 それにイ界で負った傷は最悪、現実界側の精神にまで深刻なダメージを与える。

 そんな危険な世界に関わる理由が僕にもできてしまった。

 まだ姿の見えない、女魔術師を襲うという何者かの存在。僕にとっての不条理な命の脅威なんて、それこそ量子崩壊やあの怪獣の日みたいな災害くらいしか実感が湧かないのに。

 でも七月先輩や先輩のナイショの友達は、まさに切迫した命の脅威にさらされてるんだ。

 だったら守らなきゃ。空想や妄想じゃなく、誰かのヒーローになれるんだ。僕は偶然にも、そうなる未来の可能性を手にしてしまったのだから。

 鏡面をまたいで身を乗り出している自分の姿は、黒き逆徒と呼ばれた黒髪ストレートのヒーローとは似ても似つかない。生まれつき明るい色の、癖っ毛な僕。異国生まれの母の血も半分だけ受け継いでいるから、漆黒の瞳だって僕にとっては空想の中の姿だ。

 どうして僕は今さらになってこんなことを考えているんだろう。


「ははっ…………空想と現実がごっちゃになり始めてるのかな……」


 あえて声に出して、リアルの自分をたしなめる。ヒーロー役には似つかわしくないその声色が、己を現実感へと揺り戻してくれるはずだ。

 でも、そうはならなかった。

 いきなり心臓がドクンと跳ねて、急に自分の五感がざわついたのを感じた。

 気のせいじゃない。様子がおかしいってすぐにわかったから、咄嗟にトイレを出た。

 通路に出た瞬間、自分を取り巻く空気が見えない液体みたいになって、直後に水面から顔を出したかのようなあの感覚。

 そうして目に見える世界の密度が、より濃く深くなった気がした。


「そんな……あり得ない………………イ界に……飛ばされた!?」


 イ界への転移には魔導器が必要だから。本人の意思に反して勝手に迷い込むなんて――


「――いや。イ界に迷い込んだこと、前にもあったじゃないか」


 ここは現実界とおんなじトイレ前の光景。なのにあらゆるものがどこか忽然としていた。

 店内のBGMが途絶えていた。この世界では必要ない動作だからだ。異様に静まりかえった店内に、自分のかすかな呼吸だけがやけに耳に入ってくる。


「くそっ、七月先輩は――――」


 僕には魔法を自在に操る力なんてないから、まず先輩を探すべきだ。周囲にファンタズマの気配はないけど、このままだと自分の身すら守れない。とにかく個室席に戻ろう。

 でもおかしかったのは、ここがイ界だからというだけではなかった。

 店内の廊下って、こんなに長かったっけ? いくら床を蹴れども、廊下先のまばゆい光までたどり着けないんだ。


【――――オ前は――――マ女――カ――?】


 平常心を保とうと必死な僕の頭の中に、そんな奇妙な声が響いてきた。

 ぞくりと震えがきて振り返る。周りには誰もいないはずだ。なのにその声は、鼓膜の内側から囁くように残響する。


「な、なにこれ…………一体なんなの…………」


 この前の先輩の言葉を思い出してしまった。罠だ、と。

 あの時と違って、僕を強くする魔法イマージュはない。苦難に立ち向かえるって応援してくれる妖精さんもいない。

 やめてよ。怖気に震え上がった僕は後ずさって、そうして背中が何かに触れた。

 誰かにぶつかったのかと焦った。さっきの永久回廊は消え、背後が壁で塞がっていた。


【――お前――――ハ――――魔女ノ――か――?】


 声が復唱する。いや待て、いま何て言ったんだ。


「どうして知ってるの。【魔女】なんて――――」


 ――――迂闊に反応すべきじゃなかったのに。

 僕が発した〝言葉〟が、声に出した〝文字〟が、そこに込められた意味が、瞬く間に〝呪い〟へと組み替えられて、そして己に返ってきた。

 体温が沸き立った。焼けるように熱い息が、抑えきれず喉から漏れ出てくる。魔女フォースが触れた唇が彼女の熱を思い出したかのように、歓喜の炎に燃えだした。


「ぐあっ―――――」


 耐えきれずに膝を折った。喉を押さえてもこの熱や痛みは収まりそうになかった。視界にうっすらとチラつく炎。生身の皮膚に、油を引いたかのように火の尾が揺らめいている。


「――驚いたな、これは口封じの呪詛だ。その小僧、既に魔女の手籠めにされているぞ」


 唐突に知らない声が聞こえてきた。奇妙に大仰な抑揚のついた、若い感じの男の声。

 もう一人、誰かがいる。でも僕は床にうずくまったまま、顔を上げることもできない。


「小僧をしばらく黙らせろ」


 それを合図に、いきなり背後から口を押さえ付けられた。壁を背にしていたはずなのに。

 羽交い絞めにされ、ものすごい力で引っ張り起こされる。丸太としか形容しようがない屈強な腕が僕を持ち上げて、吐き出しかけた悲鳴を呪詛の炎ごと押し潰す。

 敵は複数なのか? 焦点の定まらなくなってきた視界に浮かぶ、群青のスーツ姿。そいつともう一人、背後から締め上げてくる巨漢。

 くそっ……罠もこいつらの仕業か。先輩は無事なのか。駄目だ、苦しくてもう瞼を開けていられない。先輩がいれば、変身してこいつらに対抗できたのに。


「その小僧は魔女の眷属だ。使い道はある。うっかり力加減を誤るなよ、同志?」


 そんな男の台詞を耳に残したまま、僕の意識は暗闇の奥底へと沈んでいった。


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