第86話『真実』
私が日本を出て海外で研究職についているのは、弟と距離を置くためだ。
私は私を保つ為に海を渡った。
でも、日本にいる時くらいは、いいわよね? 私は、自らに問いかける。そして、弟の部屋のドアを一度だけ叩く。
それから、少しの間を空けて部屋のドアを開き、中へと入る。
「哲也、懐かしいものが見つかったわよ」
私の右手には一冊の絵本が握られている。
「確か、人の心が読める泣き虫な少女の話だよね?」
私が手にしている絵本にすぐさま反応する哲也。
「なぜか、私の部屋の本棚にあったのよ」
これは、嘘だ。十年近く前に、私がこの絵本を哲也の目の届かない場所へと隠したのだ。
私がベッドに腰掛け、絵本を眺めはじめると、哲也も隣に並んで腰掛ける。
近くて遠い距離。
哲也は私を見ない。彼は私の持つ絵本にばかり視線を向ける。
私がページをめくる度に、哲也の目にはうっすらと涙が浮かぶ。
隣にいる私には決して注がれることのない感情。早い話が、私は嫉妬しているのだ、この絵本の中の少女に。そして同時に憧れている。哲也の視線を独り占めするこの少女に。
哲也の視線に合わせてページをめくる私。
私がその視線に合わせてページをめくっていることにも、きっとあなたは気づかない。
あなたの心は絵本の中だから。
最後のページがきた。
ルディもメアリも笑っている。でも、あなただけは泣いている。
「ねぇ、どうして、泣いているの?」
私は絵本の冒頭をなぞり、弟へと問いかける。そうしなければ、彼はこちらに帰ってこないから。
「わからない」
弟は、ただ一言だけ、ぽつりと呟く。
「みんなって言葉は嘘、この言葉は印象的ね。それにしても、哲也は本当にこの絵本が好きだったわよね。小さな頃は必ずこの絵本を読んで、泣いてから眠るのが習慣だったものね」
私にはそれが理解出来なかった。いや、理解はしていた。理解したくなかっただけ……。
「なんだかこの泣き虫の少女が不思議で、とても気になっていたのは覚えてる」
大切な思い出をなぞるように、ゆっくりと話す哲也。
「周りの女の子が強い子ばかりだったから、泣き虫の女の子が不思議に感じたのかもね?」
私のような可愛げとは縁の無い女ばかりを見て育てば、そんな風に感じるのは当然の感覚かも知れない。
「一番近くにいた女の子の所為かもね?」
皮肉交じりではあるが、少し楽しそうな哲也。その控え目な笑顔が、私の中身を丸ごと揺さぶる。
「そうね、私は、泣き虫の女の子にはなれない」
「わざわざ、なるものでもないだろ?」
言葉の端に違和感を覚えたのか、不思議そうに問いかけてくる哲也。
「それでも私は憧れたのよ」
あなたの心を揺らす、か弱い少女に。
「姉さんもよく読んでいたよね。なんだかんだ好きなんだろ?」
気軽な調子で問いかけてくる哲也。
「嫌いよ」
私が好きなのは、あなた。
私のあなたが奪われた気分だもの。
あぁ、困った顔をしているわね。
「うそよ、哲也もまだまだ正直者の少年ね」
嘘であなたの顔が晴れるなら、私は嘘つきでいい。
こうして嘘つきの少女は、泣き虫の少女に憧れながら、平気なフリをして、嘘を重ねるのであった。
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