第60話『親子』
なんだろう、この右手を包み込んでいる冷んやりとしたモノの正体は。冷たいはずなのに、どこか心を温めてくれるような、不思議な気持ちだ。
僕はその不思議な何かの正体を確かめるべく、ゆっくりと目蓋を開ける。
「おはようございます、マスター」
そこには、僕の右手を自分の両手で包み込んでいるアイの姿があった。彼女の心配そうに覗き込んでくる視線から、おそらくアイは、ずっとこうして、手を握ってくれていたことがわかる。
「あぁ、おはよう、アイ」
僕の短い返事に、アイが安堵の笑顔を浮かべる。
「このまま、マスターを独り占めしたい所ではありますが、皆さんも心配していましたので、呼んできます」
そう言ってアイは、見知らぬ部屋のドアから出て行った。部屋から漂う木の香りが気持ちを落ち着かせる。
僕は現在、見知らぬ部屋の見知らぬベッドに寝かされていたようだ。確か、ククル族の村に来て、カレーのような料理を食べたのだったな……。そこから急に、意識が地球へと飛び、また戻ってきたようだ。
そんな現状を整理していると、勢いよく、部屋のドアが開かれた。
「フィロス、大丈夫なの!?」
部屋に入るなり、駆け寄ってきたアンス王女が深刻そうに問いかけてくる。
「大丈夫ですよ」
僕が返事をしていると、開けられたままのドアから、ラルムを連れてきたアイと族長の孫であるセレネが入ってきた。
「フィロス君……」
ラルムもこちらに近寄り、尋常じゃない速度で瞳の色を変えながら僕を見つめている。おそらくは、僕の精神状態に異常が無いか確認してくれているのだろう。
「フィロス、本当にごめんよ。リザードマンの腸には、大量に摂取すると眠気を引き起こす作用があるんだよ。あたしたちは慣れてるけど、先に説明するべきだったよね。楽しくてつい、忘れてて……」
セレネが尻尾を垂らしながら、粛々と謝ってくる。確か、理沙から聞いた知識によれば、尻尾が垂れて小さく揺れるのは、不安な時だったはず。
「あぁ、なるほどね。僕も迂闊だったよ、この通り元気だから、安心して」
まぁ、この世界での僕の身体は小さいし、食べる勢いも凄かったのが原因だろうな。
それにしても、思わぬ所で、材料をバラされたな……。
「マスターが倒れた時のアンス王女の慌てぶりは凄かったです。『フィロスが起きなかったら全員殺すわよ』って取り乱していましたから」
凄まじい情報を淡々と語るアイ。
「ち、違うわよ、あ、あれは、急にフィロスが倒れたから、びっくりしちゃって、その、でも、事情を聞いてからはちゃんとしていたじゃない!」
顔を真っ赤に染めながら、猛抗議を始めるアンス王女。
「私も驚きましたけど、アンスちゃんのおかげで冷静になれました……」
そっと、添えるようにラルムが言った。
「え、しれっと流れたけど、アンスって王女なの!?」
アイがアンス王女と呼んだことに対して、時間差で大きなリアクションを取るセレネ。
「何よ、あなただって、族長の孫じゃない?」
なんて事はないように返すアンス王女。
「いやいや、お姫様と田舎娘じゃ全然違うよ!?」
セレネが羨望の入り混じった表情で語る。
「まぁ、関係ないわよ。ここでは私はただのアンスよ」
キッパリと言い切るアンス王女。
「えぇー、いいなー。あたし、お姫様とかに憧れてたんだよね。確かに、アンスは可愛いし、品があるよね。あっ! アンスって呼んだら失礼かな?」
セレネがアンス王女に問いかける。
「べ、別にアンスで構わないわよ」
可愛いと言う単語に頬を染めながらも、短く返事をするアンス王女。
「でも、王女様がなんでこんな所に?」
セレネが当然の疑問を口にする。
「えっと、その、社会見学かしらね?」
最もらしい理由が見つからなかったのだろう。いずれはちゃんと、アンス王女がノイラートに帰れるようにしなければ。
その後もセレネによる、アンス王女への質問攻めは続いたので、僕はゆっくりと腰を上げ、散歩がてらに村を散策することにした。
すると、アイもラルムもついてこようとしたのだが、アンス王女の『私だけ置いていくの?』と言わんばかりの視線に二人は腰を下ろした。
どうやら、この部屋は二階の左端にあたる部屋らしく、二階には他にも二つの部屋があった。おそらくは、アンス王女とラルムが借りている部屋だろう。そんなことを考えながら、階段を降りる。そうして、昨日食事をしたリビングを抜け、外へと繋がる扉を開く。
外の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。なんだか、空気が美味しい気がする。
そうして、木々に囲まれた村を散策すること数分。正面から人影が歩いてくるのが見える。
「やぁ、フィロス君。娘がどうしても、君と遊びたいと言ってきかないものだから、少し構ってあげてくれないか」
人影の正体はヴォルフさんとシフォンだった。シフォンの尻尾が大きく揺れている。
「えぇ、もちろん大丈夫ですよ」
護衛の会議については、夜から行なわれるし、時間はたっぷりあった。
「では、散歩をするのにいいコースがありますので」
ヴォルフさんが優しい笑顔で提案してくる。
その笑顔に僕が頷きで返すと、シフォンが僕の左腕にしがみついてきた。
ふと、理沙から教えて貰った知識を試したくなり、僕はシフォンの顎の下あたりを優しくくすぐる。すると、シフォンは気持ち良さそうに目を細めて、尻尾をゆっくりと振っている。その表情があまりにも愛らしく、しばらく続けていると、シフォンは体を丸めて、僕の腕の中で寝てしまった。
「娘が私と妻以外にこんなに懐くのは、初めてです……」
ヴォルフさんが空を見上げながら遠い目をして言った。
「奥さんはいま?」
僕はおそるおそる問いかける。
「妻は身体が弱くてね。シフォンが物心つかない内に亡くなったよ」
複雑な表情でそう語るヴォルフさん。
「すみません……」
「君が謝ることじゃないさ。私の妻はヘクセレイ族と呼ばれる精神魔法を得意とした一族でしてね。本来、他種族との結婚はあまり褒められたものではなく、今の族長は寛大なお方だから許してくれていますが、中にはそれを快く思わない者もいます……」
だからヴォルフさんは村から遠い家でシフォンと二人で暮らしていたわけか……。
「娘さんはそれでも、大好きなお父さんと暮らせて幸せそうです。一度だけ、あのファイトギャンブルの試合中に、シフォンの思考が僕に流れ込んできたことがあったのですが、その時の彼女の記憶は、ヴォルフさんとの幸せな記憶でいっぱいでした」
僕はあの不思議な体験を振り返りながら言った。
「よかった……」
ヴォルフさんが短い言葉を漏らす。そのまま、瞳に溜まった輝きだけは漏らさぬよう、雲ひとつない青空を見上げていた。そして、更にもう一度、「よかった」と今度は噛みしめるように呟いた。堪え切れなくなった輝きが一筋、地面へと落ちる。
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