第156話 幸運の女神は準備を愛する(下)

 フヨウの疑問はもっともだ。

 実際、内部の水を一度汲み上げてここまで魔術で作成したパイプで流し込むつもりでいる。


「……もしかして、私たちこれから延々水の汲みだしをさせられるんでしょうか? 魔術師が三人もいるとはいえ、距離がありますし、ちょっとこの量は……」


 近年、風呂魔術の研鑽に余念のないメイリアには巨大プールを満たす仕事量に目算がつくのだろう。

 しかし、それは杞憂だから安心していい。


「揚水風車を作る?」


 一方知性で解決する派のフルーゼ。しかし、今回はそれも必要ない。


「いいや、装置の組み込みと調整で時間がかかるだろうし、今回は魔術でやるよ」


 俺の言葉にメイリアがどんよりした顔をする。


「そうなると私の出番がないことになるが」


 一方、平静を失わないフヨウ。


「いや、俺だけで十分だ」


「どういうことですか?」


「水の排出はそれなりには重労働だけど、みんなが考えているほど延々やることじゃない。俺が一人で魔術を使えば済む。大切なのは準備の方だ。そういう意味ではフルーゼの考え方は正しいよ」


「詳しく説明して!」


 この十年間はフルーゼに問題解決思考を深く根付けた様だ。学ぶ気まんまんである。


「ああ、ここから水路へ向かう間に教えるから、その間の部分の作業を手伝ってくれ」


 一キロメートル弱ほどだろうか。

 神殿から少し離れた石の祠ともいえる場所まで土を固めながら水路を作ってもらう。

 道路わきにある排水溝くらいのサイズ。

 構造もただの溝だ。


「こんな大きさで良いの? 一度に流すと溢れちゃいそうだけど」


「でも、あんまりデカい奴を作ると手間だろう。気が付かずに誰か落ちても危ないし」


「え、そんな理由なんですか? でもこの大きさだとかなり時間かかるでしょう」


「まあな、でも一晩あれば十分なはずだ。じっくりやる」


「えぇー」


 大方、ずっと誰かが取り付きで作業する状況を想定しているのだろう。


「心配するな。ちゃんと説明するが、基本的には寝てればいいはずだ。まあ何かあった時用に立ち入り禁止の周知くらいはするけど、どうせ夜間に神殿に近付く人っていないんだろう」


 そういったことは事前に確認してあった。

 俺だって別に必要ない労働を続けたいとは思っていない。


「水路の底の高さなら、このあたりになると思うが」


 他の二人とは異なり、特に疑問を挟むことなく同行していたフヨウが知らせてくれる。

 目的地の祠まではまだ百メートル以上あると思われ、視界にも入っていない。

 一応三角測量で水底の高さは計算してあるのだが、そういった記録すら確認せずにフヨウは高さがわかるのか。

 念のため、記録から言葉の裏付けをとるとぴったりだった。


「よし、じゃあここからは予定通り俺とフルーゼで配管を作る。メイリアは所々浮いてたりしたら支柱を作ってくれ」


 今回の作戦はこうだ。

 水路から水をくみ上げ、水位より低い位置へと排水する。

 あとは位置エネルギーを利用して延々準備した空池へと流し込む。

 非常にシンプルである。


「こうして水路を閉じてしまえば水面より高い部分を通っても水が流れるのね。不思議」


 この方法の肝は、サイフォンの原理と呼ばれる部分にある。

 最初に魔術で揚水を行うことで、文字通りそれを呼び水にして残りの排水を行おうという手法。

 最大の特徴は水面より高い位置も勝手に水が流れていってくれる点にある。

 日常生活でも度々利用される現象で、人によっては石油ストーブへの給油を考えるとわかりやすいかもしれない。

 灯油タンクをちょっと高い位置に置くとポンプを動かさなくても自動的に給油が続く。


「あんまり高すぎると失敗するんだけどな」


 便利な手法にも制限はある。

 主に水圧という見えない大きな力に関わる部分である。

 水を低い所から高い所へ持ち上げるとき、ただ配管を通そうとすると高低差で非常に大きな力がかかるようになる。

配管の断面積や水量は関係なく、高さのみに依存する現象だ。

 どんなに強いポンプを利用しても、一段階で汲み上げられるのは十メートル程が限界となる。

 これ以上の水圧ではキャビテーションと呼ばれる現象により水が強制的に気化されてしまうのだ。

 サイフォンの原理でもこの数字は同様で、入口にあたる祠と最大高度差となる水底にそこまでの差がなかったことが決め手となった。

 

 当然、配管に穴や弱い部分があればそれ以前の問題である。

 フルーゼの作成したポリエチレンの筒を入念に確認しながら、内側に防水ライニングを精製する。

 本当なら金属か塩ビでも使用したかったのだが、どちらも原料の一部を大量に手に入れられなかったので断念した。うまくいくといいのだが……。


 俺の魔術で配管内に水を満たし、しばらくは水が流れていくのを確認する。

 最初は少しずつ、しかし次第に勢いを増し続けてかなりの水量が勝手に排出されるようになった。

 配管の断面積を調節したので排出速度は約九リットル毎秒ほど。

 一秒間にバケツ一杯分と考えればなかなか凄い。

 水路内の水量は概算になるのだが、明日の朝には排水が終わっている計算だ。

 当面のあいだ、配管に異常がないことを確認し、作戦の成功を祈って帰途へとついた。





 果たして翌日早朝。

 日の出とともに状況確認のために現地を訪れた俺たちは、昨日まで存在しなかったため池がそこにあることを確認した。

 少し濁りがあるが、想像していたほどではない。

 通路に溜まっていた水は栄養が少なかったのか底まで見えるほどの透明度だ。

 導水溝には既に流れはなく、排水は止まっているということになる。

 水位は十分高く、ほとんど目的は達成されているとは思うものの、途中の配管で漏水やつまりが発生している可能性はある。確認が必要だろう。


 仮に問題が発生しているなら側溝ではなく配管の方だろう。

 足早に水路の横を伝って祠の方へと向かう。

 想像通り、途中で溝から水が溢れて地面を水没させているような場所はなかった。

 坂道に汗ばみながら到着した導管排出部についても一見異常はない。

 とはいえ、ここからは詰まり等が発生していれば、菅内の水が元の場所に戻るだけなので水路の状況を確認しなければ細かいことはわからないが。

 まだ日の低いこの時間帯、祠の中は入口から真っ暗だ。

 内部の様子に気を付けながら一歩一歩水路だった場所へと進む。


 高低差からもわかる通り、距離は短くすぐに到着した。

 はたしてそこにあったのは、光源で照らしても先の見えない果てしない洞(うろ)。

 つないだ配管はすぐ近くの水たまりに頭を突っ込んでおり、最後まで仕事を果たしたことを主張していた。


「ところどころ水たまりはあるみたいだけど……、これなら先へ進めそうだと思う」


「ああ、この先から風の流れがある。どこかで行き止まりというわけではなく、別の出口へつながった通路になっているはずだ」


 五感の鋭いフヨウから頼もしい言葉。

 彼女は商売に関して輝かしい実績を持っているが、こういったフィールドワークでもめちゃくちゃ頼りになるな。

 長い付き合いだが、実の所ここまでとは思っていなかった。

 ルイズあたりと組めば冒険者としても大成していたのかもしれない。


「第一段階突破というわけですね」


 そう、まだ第一段階。

 俺たちの目的はあくまでアニエスさんの救出だが、そこに至るまでの一段一段を注意深く進むしかない。


「ああ、予定通り行くぞ。みんな装備はいいな」


 祠の外に用意してあった次の行程へ進むための装備を確認する。

 サイフォンの原理の構造上、足元にはまだ水たまりが残っている。

 ここから先は未知の環境なので深い穴が隠れていてもおかしくない。安全に配慮した用意がしてあった。


 背嚢を背負い、長靴を履いてカスクと呼ばれる折り畳みの簡易ヘルメットをかぶる。

 これで準備できたかというとそんなことはない。

 まず最初に行うのは気質調査だ。


 暗渠(あんきょ)に人が入る上で最も怖いのは内部の生物でもトゲのような岩でもない。

 そこに広がるガスである。

 有毒のものである必要はない。数パーセント酸素の濃度が異なれば人は簡単に昏倒する。

 そして誰の助けもない場合、驚くほどあっけなく死に至るのだ。

 昨日まで水で満たされていたこの通路にそういった気体が満たされている可能性は高くはない。

 しかし、周囲の生物の環境や地下の構造によって二酸化炭素や硫化ガスが噴き出ている可能性は否定しきれない。

 最も慎重に踏み入れなければいけない第一歩だった。


 対策としてはこうである。

 ろうそくの入ったランタンを足元の高さに吊り下げ、常に低い位置の様子を観察する。

 酸素濃度に異常があればその火の様子が変わるわけだ。

 地球上の歴史では、センサー代わりにカナリアを連れて行く方式が長くとられていた。

 俺たちの命がかかっているともなれば可哀想とも言っていられないのだが、幸か不幸かそんな生き物はこの辺りにはいないからな……。

 より高度な手法をとるなら、赤外線の吸収を測るとか、半導体の電気抵抗の変化を見るという手法もあるのだが、どちらも微細な変化であるため装置の開発には時間がかかり断念している。


 原始的ともいえる不完全な方法で俺が進むことを決めた理由。

 それは当然魔術があるからだ。

 常に俺たちの頭部周辺で還元反応を行い、一定以上の酸素濃度を維持する処置を行い続ける。

 これさえ完璧に行えば問題ないからだ。


 ならなんで、という考えはわかるが、魔術にだって完全はない。

 ちょっとした集中の乱れで意識を失えばその先に待っているのは死の世界。

 注意しすぎてやりすぎということはなかった。


 緊張を強いられながら一歩一歩をゆっくり踏み出す。

 順番は俺を先頭にフルーゼ、メイリア、フヨウの順番だ。

 俺とフヨウが警戒を行いながら、メイリア達にはシュウ酸ジフェニルと過酸化水素の反応で発光するスティックを一定歩数ごとに置いてもらう形で進めている。

 帰り道を見失わないように、ということと行進距離の把握が目的だ。


 置いてもらったスティックの本数を考えればいくらも進んでいないのだが、暗闇を歩くというのは非常に大きな緊張を強いられる。足元が悪いとなれば猶更。

 幸い、所どころに水たまりこそあれ腰までつかるような深さはなく、長靴の他にどこかを濡らすことはなく神殿付近までやってくることができた。

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