#4

「おはよう、倉崎さん」

 教室に入った立夢は倉崎の姿を見つけると、そばまで近づいてにこやかに挨拶する。

「……おはようございます」

 それに対して倉崎も挨拶を交わす。が、その表情は硬い。

 警戒されたかなと思いつつ、立夢は手紙の話を切り出す。

「昨日貸してもらったあの手紙なんだけど、そういうのに詳しい人に見せてみたら本当にその手の物だったみたいでさ。すぐにお祓いしないと危ないってことだったから、その人に処分してもらったよ。相談もせずに勝手なことしてごめんね」

「……そうですか」

 倉崎の反応は淡白なものだった。何かしら言ってくるだろうと心の中で身構えていた立夢としては意外な返答である。

「……ああ、それと倉崎さん本人に会わせてほしいとも言われててさ。今日学校が終わったらその人のところに一緒に来てくれないかな?」

 小さな違和感を覚えつつも、立夢は猿渡に頼まれた件を伝える。

 倉崎は数秒の間、無反応だった。返事が返ってきたのは、立夢が聞こえてなかったのかなと思い始めたのと同時であった。

「……分かりました。でもその前に、少し話したいことがあるのですが」

「話したいこと?」

「ええ。できれば、またあの場所で二人きりで」

 あの場所、とは化学準備室のことだろうと立夢はすぐに思い至る。そういう指定をしてきたということは昨日の話に続きでもあるのだろうか。

「いいよ。じゃあ放課後、学校を出る前に話そうか」

「ありがとうございます」

 謝辞を口にすると、ようやく倉崎は小さく笑みを見せる。それを見て、立夢もやっと緊張が解れた。

 そろそろ教室の人気も増えてきたので、立夢はここで話を切り上げる。伝えるべきことは伝えたし、話も想定より丸く治まった。今のところは順調に解決へ向かっていると言っていいだろう。放課後にどんな話が持ち上がるかが若干の不安要素ではあるものの、ここまで来たら毒を食らわば皿まで、すべて飲み込む覚悟だ。

 その後の朝のHRから帰りのHRまで、特に何事もなく時間が過ぎていった。倉崎も、立夢が見ている限りでは普段と同じように周りと接している。少し元気が無さげなのも今は誤差の範疇だろう。傍目には問題なく思われているはず。

 放課後になると、倉崎は誰からも怪しまれることなく教室を出ていく。不審に思う以前に、事情を知っている者が立夢しかいないはずなので当然ではあるが。

 立夢はそれから少し間を空けてから教室を出る。いつも一緒に下校している小春には昨日に続いて先に帰ってもらった。「用事があるなら終わるまで待ってます!」と言われたが、今回のことと無関係な彼女を巻き込むのは申し訳ないので、適当な理由を付けてなんとか帰した。二日連続で一人で帰宅することになって、さぞ不満が溜まっているだろうから今度何か埋め合わせしないとな、と化学準備室に向かいながらそんなことを考える立夢。

 化学準備室の扉の前まで来ると、周囲に誰も居ないことを確かめてから立夢は扉の取っ手に手をかける。軽く手に力を入れると、扉は滑らかに横へ動いた。開く途中、立夢は隙間から倉崎の姿を確認する。

(そういえば……昨日は放課後の一つ前が化学の授業で、自習用のプリントをここから持っていくのに鍵を借りていたままだったから放課後もここへ入れたんだよね。今日はうちのクラスは授業が無かったから、倉崎さんは他のクラスの誰かから鍵を借りたのかな?)

 入室して後ろ手で扉を閉めるとき、立夢の頭に一瞬そんな考えがよぎる。もしここで倉崎が声をかけてこなければ、立夢はその推測の問題点に気づいたかもしれない。

「お待ちしていましたわ、有楽島さん」

 茜色の空を背中に、立夢が昨日立っていた位置から倉崎は話しかける。影になっていて断言はできないが、その表情は微笑んでいるように立夢には見えた。

「もう少しこちらへ。あまり大きな声では話せませんので」

「分かったよ。それで話って?」

 立夢は言われたとおり、倉崎に近づく。

「話というのはですね……」

 手を伸ばせば倉崎に届く距離まで立夢がやってくると、倉崎は自身のブレザーのポケットに手を入れる。

「死んでくださいます?」

 そして物騒な一言と同時に、ポケットからカッターナイフを取り出して立夢に向かって突き出した。

 腹部を狙った殺意ある不意打ち。

 あわや刃傷沙汰、のところを立夢は間一髪で体を半身ずらして避ける。こんな達人じみた芸当が日常的にできるわけでは当然無い。倉崎がポケットに手を入れたときにチキチキと音がした、それに不穏な気配を感じ取って直感的に体を引いたのだ。

 奇跡的なその行動が功を成し、勢い余った倉崎が立夢の横を過ぎていく。ここで立ち止まったら二回目が来る。そう咄嗟に判断した立夢は倉崎の背後から体当たりをかまして押し倒す。その拍子に倉崎の手からカッターナイフが離れた。再び取られる前に立夢は先に腕を伸ばしてカッターナイフを手の届かないところまで滑らせる。

「ど、うして、こんなことをっ!?」

「ああアアッ、アアアアアアアアッ!」

 倉崎を抑え込んだまま立夢はなぜ凶行に走ったのか尋ねるが、倉崎は奇声を上げるばかりでまともな会話にならない。さらに、もがき暴れる倉崎の膂力はその細腕のどこにそれだけの力がと立夢が疑問に思うほどで、体格差があるにもかかわらず、立夢は振りほどかれないように倉崎の体にしがみつくので精いっぱいだった。

「アアアアコロスコロスコロスウウゥゥ!」

 明らかに尋常な様子ではない。あまりの錯乱ぶりに、ぞわりと背中が寒くなる立夢。

 意識が拘束から恐怖に向いたその一瞬、立夢は大きく体をよじった倉崎を抑えきることができなかった。転がるように傾いた立夢の体が棚に叩きつけられる。

「ぐ、う……」

 背中から伝わる硬い衝撃。立夢は痛みから倉崎を掴む力を緩めてしまう。その隙を突いて倉崎は拘束を脱出。そして、今度は倉崎が立夢に馬乗りになり、立夢の首に手をかける。

「かはっ……」

 首を絞める倉崎の手を剥がそうと立夢は必死に抵抗する。だが、常人離れした倉崎の握力の前にはなんとか一息に首をへし折られないようにする程度でしかない。

「な……んで、こん……な……」

 ぎりぎりと気道が閉まり、呼吸するのもやっとの状況で、立夢はもう一度倉崎に呼びかける。焦点の合わない倉崎の目を見ていると彼女自身がその理由を模索しているようで、立夢にはどうしてもそれは明確にしておかなければならないことな気がしていた。

 しかし、倉崎はやはり答えない。反応も無いところからして、立夢の声がそもそも届いていないのか。

(駄目だ……もう意識が……)

 頭に血が巡らず、目の前がだんだんと暗くなっていく。立夢は朦朧としていく中、この状況に既視感を感じていた。あれは猿渡から御札を貰った日に起きた金縛りのときだったか。

(もしかして、倉崎さんも取り憑かれて?)

 そう考えたとき、不意に体の中に異物が入り込むような感覚があった。

 自身を思わず抱きしめたくなるほどに寒々しくなる、凍えに近い何か。

(これは……恐怖だ。わたしのじゃない誰かの……)

 流れ込む感情を理解した瞬間、眼前に映る人物がとても哀れに見え始める立夢。同時に倉崎がはっとしたような表情を浮かべて、首を絞める手に込められた力を弱める。

 立夢は上半身を起こして倉崎の腕の間に入り込むと、己の腕を倉崎の背中に回して強く抱きしめる。

「教えて……キミは何を怖がっているの?」

「ウゥ、アアッ」

 倉崎は呻き声をあげて立夢の背中に爪を突き立てる。爪が肌にきつく食い込んで痛みから涙が出そうだったが、それでも立夢はその腕を解こうとはしない。

「忘レナイッテ……言ッタノニ……」

 どれくらいの間そうしていたか。そろそろ返答を諦めかけていた立夢の耳に、掠れそうな小さい声だったが倉崎がそう言ったのが確かに聞こえた。

「立夢!」

 そして聞き覚えのある声がもう一つ聞こえてきたかと思うと、外から化学準備室の窓を破ってスーツ姿の男が飛び込んでくる。

「おじさん!?」

「嫌な予感がして来てみれば案の定か……!」

 猿渡は懐から素早く御札を取り出すと倉崎の背中に貼って呪文めいた言葉を呟く。すると倉崎は一瞬体を仰け反らせ、そのまま気を失った。

「大丈夫か、立夢?」

 倉崎を立夢から引きはがして床に寝かせると、猿渡は立夢に安否を尋ねる。

「うん、わたしは大丈夫。それより倉崎さんは?」

「一時的に気絶させただけだ。霊を祓ったわけじゃねェから、このまま除霊に移るぞ」

 倉崎を中心にして、床に塩で円を描く猿渡。

「……取り憑いてる人ってどんな人か、おじさん分かる?」

 除霊の準備をしている猿渡に声をかけていいものか少し迷ったが、立夢は意を決して気になっていたことを尋ねる。

「若い女ってことぐらいだな。それがどうかしたか?」

「さっきその人の感情がわたしの中に流れ込んできた気がして……忘れ去られるのを怖がってるみたいだった」

「未練か。この嬢ちゃんに手紙を送ってきたのは自分の存在を主張するためでもあったのかもしれねェな。とすると、暴走したのは除霊の動きを察したせいか。もっと慎重にやるべきだったな」

「除霊されたら取り憑いていた霊はどうなるの?」

「俺の除霊はあくまで霊を剥がして大人しくさせるだけだ。成仏までの面倒は見てやれん」

 除霊の準備ができた猿渡は新しい御札を倉崎に貼り付けると、先ほどより長い呪文を述べ始める。これからしばらくは話しかけない方が良いだろうと、立夢は静かにその様子を見守ることにした。

 ――首や背中が痛む。跡が残っているかもしれない。

 きっとこれは忘却されることを恐れての、亡者による存在証明。もしもわたしが今日のこの一部始終を記憶に刻んだら、この人は恐怖から解放されるだろうか。

 倉崎の除霊が終わるまでの間、立夢は自分を襲った顔も知れない相手のことを脳裏に焼き付けるように考えていた。

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