第十一話 上臘(じょうろう)さま
ザッ。ザッ。
頭には三角巾。
「ほれ、はようこれを撒きやれ」
「はいっ、
背後から壷がすっと渡される。と同時に、漂いくる
たちまち茶葉が埃を吸う。なんとも香ばしくて清々しい匂いだ。すすんと鼻をすすりあげれば、濃ゆい香りに満たされた鼻が洗われるようである。
「丸く
香り濃ゆい人はそれから怒涛のように、命じてきた。
壁の際はとくに丁寧に。もっと堂々と掃け。次は窓拭きじゃ。たてたて、よこよこ、きっちりと。細かな格子一本一本、丁寧に。調度品は、固く絞った雑巾で拭くがよい――。
「ふむ、終わったか。では――」
「つぎはとなりのへやですね!」
「いや次は――」
「まかせてくださいっ」
「ちょっと待――」
「だいじょうぶです。そうじ、すきですから」
クナはささっと隣の部屋へ入り、床に茶葉を撒いて箒を動かした。やわらかな
(あ。いいおと)
思わず微笑みながら、
香り濃ゆい人がおそるおそる、様子を伺ってきた。
「た、たのしそうじゃな」
「はい! ここがおわったら、むかいのへやもきれいにしますね!」
「そ、そうか。それでは、たのんだえ」
長そうな
クナは
何かに没頭するのは、よいことだ。辛いことを頭の隅に追いやれる。
そうしたらいつかきっと。暗い哀しみは、消えてくれるだろう――。
一週間前。すなわち修行初日の日、クナはついにたまらなくなり、わんわん泣いてしまった。存分に感情を吐いたら、少しだけすっきりした。しかし落ち着いてあたりに耳を澄ませば、まぶたをこするクナの様子を、じいっと眺める気配がひとつ。
『なんじゃおぬしは?
呆れ声を浴びたクナは、
『たわけが。おぬしのたぁ様が、娘の髪を黒にしたがるは当然であろ!』
『た、たぁさま?』
『母親という意味じゃ。栗皮色の肌にみどりの黒髪。この色合いこそ、すめらの良き庶民の理想の色じゃと、ものぐるほしき月神殿が毎日、民を教育しておるものな』
『も、ものぐるし?』
『頭がおかしいという意味じゃ。黒は理想の
香り濃ゆい人の声は、なにやら怒りを押し殺したよう。自分の髪をさらっと手で
『して、おぬしは
『さがな……りゅうちょうの、むすめ?』
『さがなしいは意地悪で最低という意味じゃ。竜蝶は……む? おぬし、もしや』
盛大に首をかしげるクナに、師は驚きの声をあげた。
『もしや、おのれの血筋がなんたるかを知らぬのか?』
クナがこっくりうなずくと、沈黙二拍。そして。
『ほーっほほほほ!』
わざとらしい笑い声が、修行部屋に鳴り響いた。
『なんじゃそれは。なんとまあおぬし、ど辺境どころか超ど辺境のところで育ったのか。いやはや、これは親も知らなんだのか、それともわざと黙っておったのか。どちらかわからぬが、でもひとつだけ、確たることを言うてやろう』
『竜蝶の娘は、月の巫女の身代わりとしては、はるかに過ぎたものじゃわ!』
晴天の
思いもかけぬことを言われたクナは仰天。その場であわわとうろたえた。
クナの方が、本物のマカリ姫より価値がある? 小さな山奥の村の娘が、帝都月神殿の巫女姫より、はるかに?
(そんな……! じ、じょうだんよね?)
固まったクナがその場で必死に考えた末に出した答えは、この御方は月神殿がひどくお嫌いなのだろう、ということだった。
ずいぶん悪口めいたことを仰っていたから、たぶんそうであろうと。月の神殿の人々を、良くは思っておられないのだろうと。それでわざと、
『わらわは 、帝都太陽神殿から参った、百
香り濃ゆい人は名を名乗らず、そう自己紹介してきた。
百
クナはそのとき、月の女性から一夜漬けで教えてもらったことを、頭から掘り起こした。
一年420日を四季で分け、105日を一
すなわち「
『あ、あのう、なんねんしゅぎょうしたら、ひゃくろうになるんですか?』
『ぬう。簡単な
かくして修行初日は、着付け教室となった。鬼火が持ってきた衣装を、
『おぬし、まさかこんなで、月の巫女姫を名乗るつもりだったのかえ?』
『この
『
最後につけられたのは、腰から長くたなびく
月の夫人に着せられた
『あああ、まるでいも虫じゃ』
その日クナはずるずる階段を
それから一週間、修行は着付け指南と歩行訓練に終始した。
五の間の部屋で、
『
『ひいい! す、すみません。たおれました。たてませんっ』
『まったく。ほれつかまれ』
『すみません』
『この調子では、いつまともに歩けるやら。しかしそなた、今日はちゃんと見られる姿で参ったのう。やっと
『いえ、ひとりできてきました』
『ほう? ひとりで?』
ひとりで「見られる姿」に身支度できるようになったその翌日。すなわち本日――
『もうよい、今日は、掃除でもしてみやれ』
クナはようやく、次の段階に進んだのだった。
清掃中は
『
ごめんくださいと断って部屋に入れば、たいていめらめら燃えるものがいた。彼らはびっくりして隅に寄るので、クナはどうか楽にしてくださいとお願いして、掃除をした。
燃える音のしないものがいる部屋もあった。それらは時折とぅるるるると、歌うような音を立てて喋りあう。
(ひとじゃない。なにかしら)
それらは墨汁の匂いをぷんぷんさせ、床にずらっと並んで書き物をしていた。クナは邪魔にならぬよう、音をひそめて
家では糸つむぎばかりさせられていた。ほかのこともしたいのに、つむぎ部屋に閉じ込められていた。だから体を動かすことが、心地よくてならなかったのだ。
「ま、まだやっておるのかえ?!」
様子を見にきた
「そんなに掃除が好きとは……」
「あの、あしたもしたいです! させてくださいっ」
「そ、そうか。ならば、そうしたらよいわ」
そのようなわけで、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も。クナは昼からひたすら掃除をした。
下層四階や下層五階。各階二箇所にある階段。
体はくたくた。だがよく眠れるし、心は日増しに活き活き、明るくなっていくように感じた。
楽しみができたことが大きいかもしれない。
最近、午後が更けると、鬼火がそうっとお菓子を届けに来る。
「
「では……下層六階を」
修行を始めて二週間。
いまだ黒髪の柱国さまは、戦地にいて帰ってこない。
その日もクナは、にこにこ顔で掃除し始めた。
(きょうのおかしはなにかしら)
楽しい想像をしつつ、
奥部屋に進むと、びぃんびぃんと、何かの楽器の音色が流れてきた。
(わあ、きれいなおと!)
奥の方で、誰かが奏でているらしい。短く強く、一音一音が尖っている。
クナは鍵のかかっていない部屋を次々と掃除して、音がするところへ近づいた。
「ごめんくださいませ」
扉をこつこつ叩けばひとこと、「お
しかし弾ける音色は止まらない。
「おそうじを、させてください」
足を踏み入れるなり、ほのかに
びぃんびぃん。楽器を鳴らす人は、熱心に何かの楽器を
(このひとは、たぶんにんげんだわ。それも、おんなのひと)
この美音に触れたら、糸はふるえるだろうか。おそろしくてふしぎな、あの気配は降りてくるだろうか。
クナは音色に合わせて、きゅっきゅと窓を磨き上げた。
きれい。
きれい。
なんと美しい音だろう……。
「おや、本日も二ノ奥様は、正奥さまに召されましたか」
頭上の大鏡から妙なる音が響いてきたので、書きものをしていたアオビは、蒼い炎まとう顔を上げた。
すべらかな銀面に映るは、
音色の創り主は、長い黄金の髪を
あでやかな色の頭髪とはうらはらに、二ノ奥さまの
「竹の間の姫よ。もう一曲続けりゃれ」
「御意」
弦をはじく手は
「竹の間の姫よ。しろがねいろのイナカ・ムスメ……正しく、田舎娘であったわ」
「さようであらしゃいますなぁ」
「むっ?」
「竹の間の
「いえ。正奥さまほど、うちはひまやあらしません。
「うちの
「はぁ?! なんじゃそれは。巫女舞か?」
「いえ。まるで
「
「なれども。まごうことなく、竜蝶であらしゃる」
「そうじゃ。しかもまったく自覚がない」
「あら」
琵琶を持つ夫人は狐目をひそめた。それはますますけったいなと、口に
「あの娘、自分の髪が何色なのかも知らなかったわ。親が隠しておったようじゃ。目が見えぬのをこれ幸いに、世間一般、普通の庶民と変わらぬものじゃと、教えておったようじゃ」
「変わらぬもなにも。涙は甘いし、塩基の数からして……」
「教えてやった方がよいのであろうが、わらわの口からはよう言えぬ。あの生き物の末路はひどいものぞ。
「意外にお優しいんどすなぁ」
「なんじゃと?」
「いえ。我が君は、もしやあの娘を、天子さまに差し上げるかもしれまへんな」
「その可能性は大いにあろう。我が君があの子を捧げれば、さらなる勲位をいただけよう。この家は安泰じゃ。しかし……しかしな、この家から後宮に入れるのがアレでは、こっぱずかしいどころではなかろ? ぶっちゃけ、お
「たしかに。竜蝶は
くつくつ。狐目の夫人は袖の中に笑いを仕込み、切れ長の眼を弓なりの糸にした。
「嫌やわぁ、うちときたら。正奥さまがひまつぶしに側室いじめしはるなんて。なんて幼稚な想像しますのやろ」
「ほ、ほほ。そんなひまくさいことなぞ、考えぬわ。ほほ。ほほ」
黒の
「にしても、臭い。
すると狐目の夫人は楚々と袖で鼻を隠し、部屋のすみにある香炉を睨んだ。
「
扇がとまる。
「……」
「……」
「……」
「……」
しかしてその恐怖の緊張の間は、数拍も続かなかった。
――『お、おそれながら奥さま方! 急報にて、ご無礼つかまつります!』
正室、レイ姫の背後に立てられている大鏡から、うわんうわん。鬼火の声がけたたましく鳴り響いた。
正室と第二室のやりとりをはらはら見守っていたアオビのもとに、
『司令室より伝信! 第十
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