第十話 梅の間
青草の香りがする、四角く薄い台座。
ぽつねんとそこに正座しているクナは、力なく
のろのろ腕を動かすたび、みやびな
黒髪の柱国将軍の側室。
渡された衣が香っているのは、その身分のせいだろうか。
「なんか、おそれおおすぎるっていうか、はげしく、みぶんちがいっていうか」
この「梅の間」に案内され、はや三回ほど、
炊いた
部屋はとても広くて、どうにも落ち着かない。
幾枚もつらなる
クナは手探りで、部屋にあるものを確かめた。
我が家の糸つむぎ部屋の、いったい何倍の広さだろう? 続きのご
ひとつ上の階には二ノ奥さまの「竹の間」。さらにその上に正奥さまの「松の間」があるという。
クナは三ノ奥さまと呼ばれる身分になったらしいが、即刻その身分から辞したかった。なれど黒髪の
もやもやして仕方ないが、しばらくは待つしかないようだ。
『とりあえず、うえのおくさまがたに、ごあいさつしたほうがいいですよね?』
気になって鏡にきくと、こちらから勝手にお伺いしてはならないという。向こうから召されなければ、直接会うことはかなわないそうだ。
ご挨拶としては、何か品を贈るのがよろしい。そう言われたが、クナはなにも持っていない。恥ずかしげに打ち明けると、鏡は心配いらぬと請け負った。
『奥様がご入用とされるものは、
夫の財産は、妻や妾のものでもある。なれどクナは側室になるのを辞退するつもりでいるから、そんなことをしていいのかとためらってしまった。大体にして、何を贈ったらよいかまったくわからない。
クナは震えながら、鏡に任せた。すると鏡は次の日の朝、正奥さまに
『これで大丈夫です。完璧ですよ』
「あ……は、はい。ありがとうございます」
実際に手に取ったことのないものが、見も知らぬ相手に届けられる。なんて
鏡はクナが座す台の隣、専用の台座にしっかりはまっている。朝昼夕の三回、それはすうっと床の中へ沈み、食事やら菓子やらを載せて戻ってくる。
「ただいま戻りましてございます、奥様」
今日も昼のやりとりを終えた鏡が、すうっと床から登って帰ってきた。
「大変おきれいですよ。おぐしは一糸乱れず、キラキラと
帰ってくるなり、やわらかな口調の指摘。
しかしクナは、髪を
(あたしのかみは、くろ。くろ。くろいいろよ……)
「三ノ奥さま。もう
(くろ。くろなの……)
困ったように一瞬黙った鏡は、話題を切り替えた。
「おそれながら、本日より、巫女修行の教師からご教示を受けることができます」
ぴたり。クナはくしけずる手を止めた。ほんのり頬を火照らせ、両手をついて鏡に
「ほ、ほんとうですかっ?」
「はい。下層三階『五の間』にて、お師さまとご対面ください」
(やった。やったわ!)
うれしかった。この数日、鏡という話相手はいたけれど、糸車はないし、ふわふわの綿も細いちょ
「ありがとうございます!」
それからほどなく、「梅の間」のぶ厚い扉が開かれた。
めらめら燃えるものが、四方にぴたとつく。
クナは鬼火たちにいざなわれた。手探りで階段をおりて。おりて。おりて――狭い部屋がたくさんある階へと降りていった。
「ごめんください。おじゃまします」
そうして期待に胸を奮い立たせ、案内された部屋にそろっと入ると――。
「ひっ?!」
部屋の奥にいる気配がたじろいだ。修行の師であろうその人は、声の様子からすると少々年配。女性のようだ。
「な、な、な……」
しかしその人は息を呑み。そそっと衣を引き。そして。
「なんという格好をしておるのじゃ!」
甲高い声で叫んできた。
「は、袴はどうしたえ?!」
「あ、えっとその」
召使いをつけてもらうのは恐れおおい。クナは固辞したけれど、渡された衣をひとりで着るのは実に、むずかしかった。
月の夫人のところで行われた着付けを思い出しつつ、
「というわけで、はくのはあきらめました」
「はぁああ?!
「そでがながくて、てがでなくて、かみをとかせないから……」
「な……こ、これは
「ふえっ?!」
クナは師に腕をつかまれ、ひっぱり寄せられた。とにかく足は隠せと帯をほどかれ、
クナは衣と一緒に運ばれてきた四角い平箱から、適当に帯になりそうなものをとって腰に巻いていた。そして鏡には顔ばかりみせて、全身は映していなかった。
鏡に見せて教えてもらえばよかったかも。そう反省するクナの前で。
「ひっ! 素足に草履? うううアオビ! アオビぃいいっ!」
うろたえる師は誰かを呼ばわった。
『なんでございましょうか』
「下層三階、五の間に、おなごの着替えを一式届けよ!」
『は、はい、かしこまりました』
相手の声は、クナの鏡の声とそっくりだ。いったいどこから発しているのだろう。
クナが鼻をくんくんさせて探ると、師はさらにおののいた。
「な、なんじゃそなたは! 犬ころか?!」
「あ、あたしはトウのマカリです、先生。どうぞよろしくおねがいしま――」
「
師はぐっと、クナのこめかみにたれる髪をつかんできた。
「こんなまっ白しろすけの、
瞬間。
クナは石のように固まった。
たっぷり十拍経てのち、やっとぎくしゃく手を動かし、おのが頭をぺたりとさわる。ちがいます、としぼりだした言葉は、がちがちに固かった。
「ち、ちがい、ます。くろい、です。あたしの、かみは、く、くろ……」
「はぁ? 何を言っておる、真っ白ではないか」
ああ。やはり。そうなのか。
声に刺されたクナの顔がぐしゃりとゆがむ。
実は、鏡に聞いたときも同じように言われたのだ。
『雪のように真っ白です』と。
「で、でも、くろ……いんです……くろ、なんです……かあさんが、かあさんが……そういって……」
「う?! ちょ、ちょっと待ちや。ちょっと――」
がしりと、師のむなぐらを両手でつかんだクナの目から。
「そ、そういって……」
大粒の涙がぼろぼろ、ぼろぼろ。零れ落ちた。
「く、く、くろ……くろいってええええ……」
「ひいい!? なにをする! は、放しや、この! この!」
師がばしばし肩を叩いてくる。しかしクナはしっかりぎっちり。相手の幾重もある衣の襟をひっつかんで、泣きだした。相手の胸に顔をおしつけ、幼い子どものようにわんわん、声をあげて泣いた。
「くろいってぇ……うああああああん!」
久しぶりに人に会い、ホッとしたせいだろうか。
クナは
鏡に聞いて以来じっとこらえていたものが、否、売られて以来、心の底におさえつけてきたものが、どっと一気にあふれていた。
熱いものが喉からこみあげ、とまらない。
どんどん外へ流れ出て行く。とまらない。とまらない……。
「かあさああん! かあさあああああん!」
本当にこわくて。おそろしくて。哀しかった。
売られたことが。ここに連れてこられたことが。
そして。
『肌は栗皮。髪は墨汁。みんなと同じよ。おまえは、どこもおかしくないわ』
かあさんに、嘘をつかれていたことが。
「は、離せ! 離せというにー!!」
「うああああああん! かあさああああん!!」
とても、哀しかった。
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