第十話 梅の間

 青草の香りがする、四角く薄い台座。

 ぽつねんとそこに正座しているクナは、力なくくしで頭をいた。

 のろのろ腕を動かすたび、みやびなきぬずれの音がする。鼻をくすぐってくるのは、ほんのり甘い香り……。

 黒髪の柱国将軍の側室。

 渡された衣が香っているのは、その身分のせいだろうか。


「なんか、おそれおおすぎるっていうか、はげしく、みぶんちがいっていうか」


 この「梅の間」に案内され、はや三回ほど、朝餉あさげ夕餉ゆうげをいただいた。

 炊いた白豆しらまめにおかずが三品。汁物ひと椀。なんとも豪勢な食事が、つるつるした食台に乗せられてくる。肉や魚やえ物が、毎回ついてくるなんて。しかも今まで食べたことのない、上品な味付けだ。

 部屋はとても広くて、どうにも落ち着かない。

 幾枚もつらなる格子窓こうしまど。壁際に連々と置かれた、たんすや長持ながもち。大きく広げられた屏風びょうぶ。連なる几帳きちょう

 クナは手探りで、部屋にあるものを確かめた。

 我が家の糸つむぎ部屋の、いったい何倍の広さだろう? 続きのご不浄ふじょう部屋もつむぎ部屋より広くて、クナは口をあんぐり。しばし言葉がでなかった。

 ひとつ上の階には二ノ奥さまの「竹の間」。さらにその上に正奥さまの「松の間」があるという。

 クナは三ノ奥さまと呼ばれる身分になったらしいが、即刻その身分から辞したかった。なれど黒髪の柱国ちゅうこくさまはまだ、ご帰塔きとうならず。鏡いわく、はるか遠くの属国の地を守っておられるという。

 もやもやして仕方ないが、しばらくは待つしかないようだ。

 

『とりあえず、うえのおくさまがたに、ごあいさつしたほうがいいですよね?』


 気になって鏡にきくと、こちらから勝手にお伺いしてはならないという。向こうから召されなければ、直接会うことはかなわないそうだ。

 ご挨拶としては、何か品を贈るのがよろしい。そう言われたが、クナはなにも持っていない。恥ずかしげに打ち明けると、鏡は心配いらぬと請け負った。


『奥様がご入用とされるものは、シェン家の大蔵おおくらにて支度したくいたします。ですから奥様は何を贈られるか、お申し付けくださるだけでよろしいのです』


 夫の財産は、妻や妾のものでもある。なれどクナは側室になるのを辞退するつもりでいるから、そんなことをしていいのかとためらってしまった。大体にして、何を贈ったらよいかまったくわからない。

 クナは震えながら、鏡に任せた。すると鏡は次の日の朝、正奥さまに華山かざんにしき二反にたん、二ノ奥さまには一反いったん贈ったと報告してきた。


『これで大丈夫です。完璧ですよ』

「あ……は、はい。ありがとうございます」


 実際に手に取ったことのないものが、見も知らぬ相手に届けられる。なんて奇奇怪怪ききかいかいな出来事だろう。 

 鏡はクナが座す台の隣、専用の台座にしっかりはまっている。朝昼夕の三回、それはすうっと床の中へ沈み、食事やら菓子やらを載せて戻ってくる。


「ただいま戻りましてございます、奥様」 


 今日も昼のやりとりを終えた鏡が、すうっと床から登って帰ってきた。


「大変おきれいですよ。おぐしは一糸乱れず、キラキラとつややか。もう十分では?」


 帰ってくるなり、やわらかな口調の指摘。

 しかしクナは、髪をく手をとめなかった。まるで塗りたくるように、えんえんとくしをすうっ、すうっ。何度も何度も頭の中で唱えながら梳いた。


(あたしのかみは、くろ。くろ。くろいいろよ……)


「三ノ奥さま。もうかずとも大丈夫ですよ」


(くろ。くろなの……)


 困ったように一瞬黙った鏡は、話題を切り替えた。


「おそれながら、本日より、巫女修行の教師からご教示を受けることができます」


 ぴたり。クナはくしけずる手を止めた。ほんのり頬を火照らせ、両手をついて鏡にい寄る。


「ほ、ほんとうですかっ?」

「はい。下層三階『五の間』にて、お師さまとご対面ください」


(やった。やったわ!)


 うれしかった。この数日、鏡という話相手はいたけれど、糸車はないし、ふわふわの綿も細いちょもない。やることといえば髪をくことだけ。完全に手持ち無沙汰ぶさたで、ご飯からご飯の間が本当に長くて、死にそうだった。

 

「ありがとうございます!」

 

 それからほどなく、「梅の間」のぶ厚い扉が開かれた。

 めらめら燃えるものが、四方にぴたとつく。

 クナは鬼火たちにいざなわれた。手探りで階段をおりて。おりて。おりて――狭い部屋がたくさんある階へと降りていった。


「ごめんください。おじゃまします」


 そうして期待に胸を奮い立たせ、案内された部屋にそろっと入ると――。


「ひっ?!」


 部屋の奥にいる気配がたじろいだ。修行の師であろうその人は、声の様子からすると少々年配。女性のようだ。


「な、な、な……」 


 しかしその人は息を呑み。そそっと衣を引き。そして。


「なんという格好をしておるのじゃ!」


 甲高い声で叫んできた。

 

「は、袴はどうしたえ?!」

「あ、えっとその」

 

 召使いをつけてもらうのは恐れおおい。クナは固辞したけれど、渡された衣をひとりで着るのは実に、むずかしかった。

 月の夫人のところで行われた着付けを思い出しつつ、襦袢じゅばんひとえは手触りと鏡の指示で判別。なんとか身につけた。しかしはかまは、足が出ぬほどくそ長い。芋虫のようにごそごそもぐってもうまくいかなかった。


「というわけで、はくのはあきらめました」

「はぁああ?! はともかく、上衣うわごろもはどうしたえ? ひとえ も一枚だけで、あとは何も羽織っておらぬなど!」 

「そでがながくて、てがでなくて、かみをとかせないから……」

「な……こ、これは袴帯はかまおびじゃぞ。ひとえ帯ではないわ。あああ、足が見えておるっ」

「ふえっ?!」


 クナは師に腕をつかまれ、ひっぱり寄せられた。とにかく足は隠せと帯をほどかれ、ひとえの形をぱぱっと、手際よく直された。

 クナは衣と一緒に運ばれてきた四角い平箱から、適当に帯になりそうなものをとって腰に巻いていた。そして鏡には顔ばかりみせて、全身は映していなかった。

 鏡に見せて教えてもらえばよかったかも。そう反省するクナの前で。


「ひっ! 素足に草履? うううアオビ! アオビぃいいっ!」

 

 うろたえる師は誰かを呼ばわった。


『なんでございましょうか』

「下層三階、五の間に、おなごの着替えを一式届けよ!」

『は、はい、かしこまりました』


 相手の声は、クナの鏡の声とそっくりだ。いったいどこから発しているのだろう。 

 クナが鼻をくんくんさせて探ると、師はさらにおののいた。

 

「な、なんじゃそなたは! 犬ころか?!」

「あ、あたしはトウのマカリです、先生。どうぞよろしくおねがいしま――」

トウ家!? なにをばかなことを! そなたのようなものが、月の第一等の家格の姫であるはずがないわ! 月の神官族はみな、藍色の髪じゃぞ。こんな……」


 師はぐっと、クナのこめかみにたれる髪をつかんできた。

 

「こんなまっ白しろすけの、ばあのような髪ではないわ!」

 

 瞬間。


 クナは石のように固まった。

 たっぷり十拍経てのち、やっとぎくしゃく手を動かし、おのが頭をぺたりとさわる。ちがいます、としぼりだした言葉は、がちがちに固かった。


「ち、ちがい、ます。くろい、です。あたしの、かみは、く、くろ……」

「はぁ? 何を言っておる、真っ白ではないか」


 ああ。やはり。そうなのか。

 声に刺されたクナの顔がぐしゃりとゆがむ。

 実は、鏡に聞いたときも同じように言われたのだ。

 『雪のように真っ白です』と。

 

「で、でも、くろ……いんです……くろ、なんです……かあさんが、かあさんが……そういって……」

「う?! ちょ、ちょっと待ちや。ちょっと――」


 がしりと、師のむなぐらを両手でつかんだクナの目から。


「そ、そういって……」


 大粒の涙がぼろぼろ、ぼろぼろ。零れ落ちた。


「く、く、くろ……くろいってええええ……」

「ひいい!? なにをする! は、放しや、この! この!」

 

 師がばしばし肩を叩いてくる。しかしクナはしっかりぎっちり。相手の幾重もある衣の襟をひっつかんで、泣きだした。相手の胸に顔をおしつけ、幼い子どものようにわんわん、声をあげて泣いた。


「くろいってぇ……うああああああん!」


 久しぶりに人に会い、ホッとしたせいだろうか。

 クナは決壊けっかいしてしまった。どうにも泣き声がとめられなかった。

 鏡に聞いて以来じっとこらえていたものが、否、売られて以来、心の底におさえつけてきたものが、どっと一気にあふれていた。

 熱いものが喉からこみあげ、とまらない。

 どんどん外へ流れ出て行く。とまらない。とまらない……。


「かあさああん! かあさあああああん!」


 本当にこわくて。おそろしくて。哀しかった。

 売られたことが。ここに連れてこられたことが。

 そして。


『肌は栗皮。髪は墨汁。みんなと同じよ。おまえは、どこもおかしくないわ』 


 かあさんに、嘘をつかれていたことが。


「は、離せ! 離せというにー!!」

「うああああああん! かあさああああん!!」


 とても、哀しかった。





 





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