第九話 仙人鏡

 クナはおろおろたじろいだ。

 なぜに黒髪の柱国将軍は、こんなにきつくクナを抱きしめてくるのだろう。

 しかも泣いている? とても悲しそうに、声を湿らせている?

 どうして?

 熱いしずくが唇にほとりと落ちてきた。とたんにクナは飛び上がらんばかりに仰天した。


「うそ……しょっぱい?! な、なにこれ!!」


 心底恐ろしくなって。クナは石のように硬直した。

 涙が甘くないなんて。この世にこんな人がいるなんて。

 人はみんな甘い涙を流す。山奥の村の村人はみんなそうだ。それが普通だと、クナは信じ込んでいた。

 抱擁される体がカッカと熱くなってきた。夢うつつで薬を吞まされたときと同じ。口の中が燃えたように体が燃えた。

 もう耐え切れない、焦げてしまうと思った瞬間、柱国ちゅうこく将軍の腕がしぶしぶ離された。

 寝台に這いつくばって逃げ腰になりつつも、クナは問うた。


「ど、どうしてなみだが、しおからいんですか? まさかちゅうこくさまは、にんげんじゃ、ないとか」

 

 しかしその問いへの答えはなく。美声の人は、ぼつりとひとこと言ってきた。 


「この髪の色は嫌だ」

「はい?!」


 予期せぬ言葉に混乱したクナは、抱き上げられ。部屋から出され。襦袢じゅばんをはがされ。あっという間に熱い湯にどぽん。薬湯をはった湯舟に入れられた。


「え……すうすう、いいにおい」

浦黄 ホオウを溶け込ませている。傷によく効く。消炎効果のある檜扇 ヒオウギの根、それと波末波比はまはひの実の粉末も混ぜた。あいつが壁に叩きつけてしまったから打撲が心配だが、どこか打っていても、これであまり腫れぬだろう」


 湯は何ともすがすがしい香り。黒髪の柱国ちゅうこくさまは、薬術にかなり詳しいのだろうか。

 このお方が、何万もの敵兵を屠る、武勇に長けた将軍? 

 いや、残酷で猛々しそうで戦いが得意そうなのは、あのシーロンとかいうでかい化け物の方だ。もしかすると柱国ちゅうこくさまは、戦場にあの化け物を放つだけで、自身ではあまり戦わないのかもしれない。

 めらめら燃えているものたちが寄ってくるも、美声の人は「近づくな」の一喝で退けた。そうしてなぜか自らの手で、クナの頭を洗ってくれた。重いかんざしを抜き取り、頭の傷が痛まないよう、そうっと撫でるように。

 月神殿の巫女たちにべたべた何かを塗られ、つんと匂っていたクナの髪は、こうしてお湯と同じ、すがすがしい匂いに変わった。


『藍の染料が落ちたな。ああ、よい色だ』


 クナの頭に薬湯を注ぎながら、柱国ちゅうこくさまはうっとりそう囁いた。

 

『思った通りだ。血が濃い』


 柱国さまは黒い髪が好きなのだと、クナは思った。

 クナの髪は黒い。母さんはそう言っていた。みんなと同じだと。

 べっとりした墨。それか、ひんやりする夜。黒は、そんな色だと。

 黒髪の柱国と呼ばれているのだから、柱国さまの髪も黒いのだろう。抱きしめられた時にさらと腕に触れた髪は、とても長かった。きっと自分と同じ色だから、「よい色」と言ってくれたのに違いない。クナは、そう思った。


(めはなにいろかしら。あたしがのんだしんれいだまって、しんかんやみこたちがみんなのむものだって、つきのおんなのひとがいってたわ。だとしたら、このおかたはずいぶんしゅぎょうしてるだろうから……)


 神霊玉は目の色を赤くするらしいから、柱国ちゅうこくさまの瞳は真っ赤にちがいない。クナはそう思い込んだ。そして、びりっとする「赤」を思い浮かべた。

 

(かまどのひ。あついほのお)


 炎。めらめら燃える炎。


(ああ。ほのお……)


 どうして自分の体は、炎のように熱くなるのだろう?

 いぶかしみながらも、クナは湯船の中で懇願したのだった。


「あの、めがあかくなれば、いいんですよね? そうしたら、シーロンさんにたべてもらえるんですよね?」


 お願いします、少しだけ時間をくださいと、手をばちりと合わせて願った。


「これからいっしょけんめいしゅぎょうします。しんれいだまをせいちょうさせます。だからどうか、げっしんでんにしかえししないでください。おねがいします。どうかあたしを、つっかえさないでください」


 すると柱国ちゅうこくさまはぼそりとひとことつぶやいた。


「……返すものか」

「はい?!」

「そんなに巫女の修行をしたければ、ここでじっくりやるといい」

「あ、ありがとうございます!」


 ああ、これでなんとかなる。

 ようやくのこと切望した言質げんしつを下されて、クナはホッとした。湯船の縁に額を打ちつけんばかりに、何度も何度も頭を下げた。


「ありがとうございます! ありがとうございます! しゅぎょうがんばります! ああ、よかった。よかったわ。よかっ……」


 安堵したら体の力が抜けた。我ながらずいぶん気を張っていたのだろう。へなへな湯船のふちにすがるなり、クナの頭はぼんやりと霧がかかった。

 また抱き上げられ、寝所の寝台に置かれたのは感じとれたが、それから起こったことは……わけがわからなかった。

 柱国さまは寝台に落としたクナの胸にそっと手を当ててきた。

 すると。

 ぴたり触れられているところが、みるまに熱くなった。かあっと焼けるような熱さで、その熱はじわりと体全体に広がった。ごうと燃える炎がわが身を包み、本当にじりじり焼いてくるようだった。


「う……あ……!」

 

 ばちばち何かが燃える音がした。胸元から立ちのぼる、異様な匂い。

 まさか、美声の人が当てている手が燃えているのか。まさか。まさか……


「やめ……て……やかないで!」


 クナはうめいた。胸が焼けつくようにじりじり痛んだ。


「おねがいやかないで! おねがい!」


 なぜかとても悲しくて、見えない目に涙がにじんだ。

 クナの涙を見たせいなのか。それともただの気まぐれか。突然、胸からぱっと手が離された。その瞬間、クナは体の炎が消えるのを感じた。

 みるみるあっというまに。熱はなくなっていった……


「やはり、聖印を付けられている。これは、だれが?」


 押し殺した声で、手を焼かれた人が聞いてきた。ぶすぶすと、肉が焼ける音がまだしている中で。


「これは純潔を守らせる戒めの印。田舎娘、だれが君にこの印をつけた?」

 

 声の調子がこわかった。とても低く、殺気立っていた。

 教えてはいけない! クナはそう直感したけれど。

 

「おりろ韻律おとの神」


 そのときなんと、あたりにあの気配が降りてきて。びりりとしびれるような空気が、クナの身を包んだ。

 まごうことなくそれは、クナの母さんが糸をふるわせて、月を視せたくれたときに感じたもの。

 肌に触れる振動。細やかに鋭く肌刺す感覚。あたりは振動し続けていた。どこからも音が出ていないのに、震え続けて異様な気配を保っていた。

 その不可思議な空気の中で。

 

「言いなさい」


 澄んだ声が命じてきた――。 


「いったいだれに、炎の聖印をつけられた?」





 

 まどろみの中にいたクナは、ハッと目覚めて身を起こした。

 やわらかな布の感触。ほんのりただよう樟脳しょうのうの匂い。ここはおそらくはじめに転がされたところと同じところ。黒髪の柱国ちゅうこくさまのご寝所だろう。

 クナは鼻をくんくんさせて、部屋の中を探った。

 美声の人はいない。窓は閉じているのかもともと無いのか、外から入ってくるものはない。部屋の扉や壁は相当にぶ厚いようで、風音も物音も皆無だ。

 体を起こすとくしゅんとくしゃみが出た。打った頭はまだずきり。背中はひりひり。首筋がほのかに痛む。

 わが身は一糸まとわず? 

 あわてて胸元を探ってホッとする。母さんの衣の切れ端が入った形見袋は無事。ちゃんと首に下がっていた。


(じゅばん、どこにいったんだっけ)


 日に当てた匂いのする毛布をかき寄せながら、クナはまだ寝ぼけている頭でぼんやり思い返した。

 柱国ちゅうこくさまはいずこかの神に呼びかけていた。天照あめてらし様ではなく、別の神に。なんとも美しい声で、たったひとこと唱えただけだ。

 それだけでたちまち不思議な力が働いた。


『いったいだれに、炎の聖印をつけられた?』


 ふしぎなことに、クナの口は勝手に言葉を紡いだ。


『月神殿で……あたしに名前をくれた女の人が……胸に手を当てて……もしかして聖印ってそれのこと?』


 そのとたん。


『おのれ月の女! 殺してやろうぞ……!』


 押し殺された恐ろしい唸り声が聞こえたような気がした。それはやめてと言おうとしたけれど、クナの意識は深く深く、まどろみの中に沈んでしまったのだった。


「どうしよう……つきのおんなのひとをころすって、そんな……」

――「お目覚めであられますか?」

「ひえっ?!」


 寝台のすぐそばで声がしたので、クナはびっくりして飛びあがった。反射的に毛布をひっかぶる。涼やかで高い声だったが、あたりに気配がない。おそるおそる顔を出し、声の出たあたりをくんくん嗅ぐと。


「わたくしの匂いは嗅げないかとぞんじます」


 その声は淡々と告げた。


「わたくしは、あるじ様より、あなた様のお世話をするよう仰せつかりましたものです」

「ち、ちゅうこくさまは、どこ?」

あるじさまは、西の都護府とごふを守るためにご出塔なさいました。ご帰塔きとうの日にちは、知らされておりません」

「とごふ?」

都護府とごふとは、すめらの属州に配置されております衛府のこと。すなわち駐屯基地でございます」


 声を出しているのは、なんと寝台のそばの卓に置いてある円盤だった。クナの両手を合わせたぐらいの小さく薄い盤で、表はつるつる。手に取ってたしかめると、裏面には細やかな浮き彫りが施されている。その彫り模様のなんと細やかなこと。幾重もの縄目の文様がつらなり、精緻なことこの上ない。

 

「これ、もしかして……かがみ?」 

「さようでございます」

「かがみなのに、しゃべれる?」

「いえ、鏡自身が喋るのではなく。鏡の向こうにいる私の言葉を、鏡が伝えているのでございます」

「すごい……!」


 この塔にいるのは不思議なものばかりだ。柱国ちゅうこくさまの涙はしょっぱいし、寄ってきためらめら燃えているものも異様だ。鏡の向こうで喋っているのは人なのか、人ではないものなのか。分からないけれど声は穏やかで、優しさがにじんでいた。


「このかがみ、うらのもようのかたちが、かあさんがもってたのとそっくり」

 

 クナは恍惚と、鏡の裏文様を何度も指でなぞった。

 クナの母さんはこんな手触りの鏡や、つややかな黄楊つげくしを持っていた。

 亡くなってしまったあと、それらは母親がわりとなった姉のシズリによって形見分けされた。

 鏡はシズリのものに。くしは妹のシガのものに。そしてクナは、母さんのだという、古い衣の切れ端を押しつけられた。


『だってあんたは目が見えないもの。鏡は必要ないでしょ』


 たしかにシズリの言う通りだけれど。


(くしは、ほしかった……)


 なぜなら母さんはよく、黄楊つげくしでクナの髪をいてくれたからだ。

 きれいな髪よ、黒くて、みんなとどこも変わらないわ――いつもそう言って、髪をさららになるまで、いてくれた。


「おぐしがお気になられますか?」


 鏡に聞かれたクナは、無意識に髪をさわっていた手をびくりと止めた。


「あたしのこと、みえるんですか?」

「はい。この鏡に映るものならなんでも見えますよ」

「なんてふしぎ。あ、みえるってことは、あたしのかみがいまどうなってるかとか、わかるんですか?」

「はい、見えます。おぐしは鳥の巣のようです。頭頂部がもつれておられます」


 なんとすばらしい宝物だろう。

 髪をく召使いを呼ぶというので、クナはあわてて断った。召使いなんて、どう扱っていいかわからない。髪をくぐらい、自分でできる。

「ではくしだけお持ちします」と鏡は答えて、他にもなにか要るものはあるか、要望はあるかと聞いてきた。

 クナは迷わず、巫女の修行をするための部屋を借りたいと願った。一刻も早く目を赤くして、化け物におのが身を食べてもらいたかった。

 死んだら、母さんがいる家に帰れる。魂がそこへ飛んでいく。

 早く母さんに会いたい――クナの願いは切に、それ一色だった。


「でもあたし、しゅぎょうのやりかたをよくしらないんです」

「では、巫女の修行をご教示なさる方も、手配いたします」

 

 なんとありがたい! クナは鏡に手を合わせて頭を下げた。

 優しい声はくしを届けるから鏡を卓に乗せろと言った。手で探るとなるほど、寝台の脇の卓に、鏡がはめられそうな台座がある。そこへぴったりはめると、なんと卓は静かに縮まっていき、床の中へと沈んで消えてしまった。

 手で探ればそこはつるつる、床があるだけ。あっけにとられたクナがぽかんと口を開けていると、ずずっと床の一部が左右に開き、卓がまたゆっくり昇って鏡が戻ってきた。


「お待たせいたしました。くしを鏡の上にせております。巫女の修行の方は、準備が整いますまで、いましばらくお待ちくださいませ」

「あ、ありがとうございます」

「おそれながら奥様、僭越せんえつながらお召し物をこちらでご用意させていただきました。ほどなく召使いがお届けにあがります」


 鏡の上に乗っているくしを手探りで取ったクナは、手をぴたり。頭に当てた体勢で固まった。

 

「おくさま? いえあたしは、ちゅうこくさまのおくさまじゃありません」

 

 きょとんとするクナに、しかし鏡は淡々と、信じられないことを告げた。


「おそれながら、あなたさまは本日未明より、あるじさまの奥様として、この塔にお入りになっておられます。主さまが本日出がけに、自らご記入なさいました入塔記録にゅうとうきろくに、そう記載されてございます」


 えっと驚いたとたんに、思わず腕に力が入った。もつれ髪にくしがひっかかる。慌てふためくクナに「まちがいございません」と、鏡は入塔記録にゅうとうきろくの文面と称するものを告げてきた。


「『十の月十六日、うしの刻、しろがね色のイナカ・ムスメ、

 第八柱国将軍ちゅうこくしょうぐんたる、辰三寶シェンサンバオの名を陛下より賜られし、トリ・ヴェティモント・ノアールのさいとして入塔せり』――かように、記録帳に記載されております」

「そんな。どうして?!」


 クナは頭から引き抜いたくしを、ぎゅっと胸元でにぎりしめた。手がぶるぶる震える。

 イナカ・ムスメ?

 柱国ちゅうこくさまはクナを、マカリと呼ぶつもりはないらしい。しかしなぜ勝手にさいと記したのか? しかも――


(しろがねいろ?)


 おのれのどこがそうなのか。肌は栗皮色。髪は黒のはずなのに。

 

『ああ、よい色だ』


 クナの脳裏に、柱国ちゅうこくさまの言葉が蘇った。


(よいいろって……くろのことよね? そうよね? あたしのかみは、くろよ)


 確かめるように念じたとたん。クナの耳を、あの音が撫でた気がした。

 静謐せいひつの中に静かに焼ける月の光。あの、しろがね色の囁きが。

 

 ちりちり。ちりちり。

 

 その音が、自分の髪から出ているような気がして。

 

「か、かがみさま。あたしのかみ……」


 たちまちこわくなったクナは、すがるように鏡にたずねた。指から血の気が失せるぐらい、強く強く、くしを握りしめながら。


「あたしのかみって、なにいろ、ですか?」

 



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