第九話 仙人鏡
クナはおろおろたじろいだ。
なぜに黒髪の柱国将軍は、こんなにきつくクナを抱きしめてくるのだろう。
しかも泣いている? とても悲しそうに、声を湿らせている?
どうして?
熱いしずくが唇にほとりと落ちてきた。とたんにクナは飛び上がらんばかりに仰天した。
「うそ……しょっぱい?! な、なにこれ!!」
心底恐ろしくなって。クナは石のように硬直した。
涙が甘くないなんて。この世にこんな人がいるなんて。
人はみんな甘い涙を流す。山奥の村の村人はみんなそうだ。それが普通だと、クナは信じ込んでいた。
抱擁される体がカッカと熱くなってきた。夢うつつで薬を吞まされたときと同じ。口の中が燃えたように体が燃えた。
もう耐え切れない、焦げてしまうと思った瞬間、
寝台に這いつくばって逃げ腰になりつつも、クナは問うた。
「ど、どうしてなみだが、しおからいんですか? まさかちゅうこくさまは、にんげんじゃ、ないとか」
しかしその問いへの答えはなく。美声の人は、ぼつりとひとこと言ってきた。
「この髪の色は嫌だ」
「はい?!」
予期せぬ言葉に混乱したクナは、抱き上げられ。部屋から出され。
「え……すうすう、いいにおい」
「
湯は何ともすがすがしい香り。黒髪の
このお方が、何万もの敵兵を屠る、武勇に長けた将軍?
いや、残酷で猛々しそうで戦いが得意そうなのは、あのシーロンとかいうでかい化け物の方だ。もしかすると
めらめら燃えているものたちが寄ってくるも、美声の人は「近づくな」の一喝で退けた。そうしてなぜか自らの手で、クナの頭を洗ってくれた。重いかんざしを抜き取り、頭の傷が痛まないよう、そうっと撫でるように。
月神殿の巫女たちにべたべた何かを塗られ、つんと匂っていたクナの髪は、こうしてお湯と同じ、すがすがしい匂いに変わった。
『藍の染料が落ちたな。ああ、よい色だ』
クナの頭に薬湯を注ぎながら、
『思った通りだ。血が濃い』
柱国さまは黒い髪が好きなのだと、クナは思った。
クナの髪は黒い。母さんはそう言っていた。みんなと同じだと。
べっとりした墨。それか、ひんやりする夜。黒は、そんな色だと。
黒髪の柱国と呼ばれているのだから、柱国さまの髪も黒いのだろう。抱きしめられた時にさらと腕に触れた髪は、とても長かった。きっと自分と同じ色だから、「よい色」と言ってくれたのに違いない。クナは、そう思った。
(めはなにいろかしら。あたしがのんだしんれいだまって、しんかんやみこたちがみんなのむものだって、つきのおんなのひとがいってたわ。だとしたら、このおかたはずいぶんしゅぎょうしてるだろうから……)
神霊玉は目の色を赤くするらしいから、
(かまどのひ。あついほのお)
炎。めらめら燃える炎。
(ああ。ほのお……)
どうして自分の体は、炎のように熱くなるのだろう?
いぶかしみながらも、クナは湯船の中で懇願したのだった。
「あの、めがあかくなれば、いいんですよね? そうしたら、シーロンさんにたべてもらえるんですよね?」
お願いします、少しだけ時間をくださいと、手をばちりと合わせて願った。
「これからいっしょけんめいしゅぎょうします。しんれいだまをせいちょうさせます。だからどうか、げっしんでんにしかえししないでください。おねがいします。どうかあたしを、つっかえさないでください」
すると
「……返すものか」
「はい?!」
「そんなに巫女の修行をしたければ、ここでじっくりやるといい」
「あ、ありがとうございます!」
ああ、これでなんとかなる。
ようやくのこと切望した
「ありがとうございます! ありがとうございます! しゅぎょうがんばります! ああ、よかった。よかったわ。よかっ……」
安堵したら体の力が抜けた。我ながらずいぶん気を張っていたのだろう。へなへな湯船のふちにすがるなり、クナの頭はぼんやりと霧がかかった。
また抱き上げられ、寝所の寝台に置かれたのは感じとれたが、それから起こったことは……わけがわからなかった。
柱国さまは寝台に落としたクナの胸にそっと手を当ててきた。
すると。
ぴたり触れられているところが、みるまに熱くなった。かあっと焼けるような熱さで、その熱はじわりと体全体に広がった。ごうと燃える炎がわが身を包み、本当にじりじり焼いてくるようだった。
「う……あ……!」
ばちばち何かが燃える音がした。胸元から立ちのぼる、異様な匂い。
まさか、美声の人が当てている手が燃えているのか。まさか。まさか……
「やめ……て……やかないで!」
クナはうめいた。胸が焼けつくようにじりじり痛んだ。
「おねがいやかないで! おねがい!」
なぜかとても悲しくて、見えない目に涙がにじんだ。
クナの涙を見たせいなのか。それともただの気まぐれか。突然、胸からぱっと手が離された。その瞬間、クナは体の炎が消えるのを感じた。
みるみるあっというまに。熱はなくなっていった……
「やはり、聖印を付けられている。これは、だれが?」
押し殺した声で、手を焼かれた人が聞いてきた。ぶすぶすと、肉が焼ける音がまだしている中で。
「これは純潔を守らせる戒めの印。田舎娘、だれが君にこの印をつけた?」
声の調子がこわかった。とても低く、殺気立っていた。
教えてはいけない! クナはそう直感したけれど。
「おりろ
そのときなんと、あたりにあの気配が降りてきて。びりりとしびれるような空気が、クナの身を包んだ。
まごうことなくそれは、クナの母さんが糸をふるわせて、月を視せたくれたときに感じたもの。
肌に触れる振動。細やかに鋭く肌刺す感覚。あたりは振動し続けていた。どこからも音が出ていないのに、震え続けて異様な気配を保っていた。
その不可思議な空気の中で。
「言いなさい」
澄んだ声が命じてきた――。
「いったいだれに、炎の聖印をつけられた?」
まどろみの中にいたクナは、ハッと目覚めて身を起こした。
やわらかな布の感触。ほんのりただよう
クナは鼻をくんくんさせて、部屋の中を探った。
美声の人はいない。窓は閉じているのかもともと無いのか、外から入ってくるものはない。部屋の扉や壁は相当にぶ厚いようで、風音も物音も皆無だ。
体を起こすとくしゅんとくしゃみが出た。打った頭はまだずきり。背中はひりひり。首筋がほのかに痛む。
わが身は一糸まとわず?
あわてて胸元を探ってホッとする。母さんの衣の切れ端が入った形見袋は無事。ちゃんと首に下がっていた。
(じゅばん、どこにいったんだっけ)
日に当てた匂いのする毛布をかき寄せながら、クナはまだ寝ぼけている頭でぼんやり思い返した。
それだけでたちまち不思議な力が働いた。
『いったいだれに、炎の聖印をつけられた?』
ふしぎなことに、クナの口は勝手に言葉を紡いだ。
『月神殿で……あたしに名前をくれた女の人が……胸に手を当てて……もしかして聖印ってそれのこと?』
そのとたん。
『おのれ月の女! 殺してやろうぞ……!』
押し殺された恐ろしい唸り声が聞こえたような気がした。それはやめてと言おうとしたけれど、クナの意識は深く深く、まどろみの中に沈んでしまったのだった。
「どうしよう……つきのおんなのひとをころすって、そんな……」
――「お目覚めであられますか?」
「ひえっ?!」
寝台のすぐそばで声がしたので、クナはびっくりして飛びあがった。反射的に毛布をひっかぶる。涼やかで高い声だったが、あたりに気配がない。おそるおそる顔を出し、声の出たあたりをくんくん嗅ぐと。
「わたくしの匂いは嗅げないかとぞんじます」
その声は淡々と告げた。
「わたくしは、
「ち、ちゅうこくさまは、どこ?」
「
「とごふ?」
「
声を出しているのは、なんと寝台のそばの卓に置いてある円盤だった。クナの両手を合わせたぐらいの小さく薄い盤で、表はつるつる。手に取ってたしかめると、裏面には細やかな浮き彫りが施されている。その彫り模様のなんと細やかなこと。幾重もの縄目の文様がつらなり、精緻なことこの上ない。
「これ、もしかして……かがみ?」
「さようでございます」
「かがみなのに、しゃべれる?」
「いえ、鏡自身が喋るのではなく。鏡の向こうにいる私の言葉を、鏡が伝えているのでございます」
「すごい……!」
この塔にいるのは不思議なものばかりだ。
「このかがみ、うらのもようのかたちが、かあさんがもってたのとそっくり」
クナは恍惚と、鏡の裏文様を何度も指でなぞった。
クナの母さんはこんな手触りの鏡や、つややかな
亡くなってしまったあと、それらは母親がわりとなった姉のシズリによって形見分けされた。
鏡はシズリのものに。
『だってあんたは目が見えないもの。鏡は必要ないでしょ』
たしかにシズリの言う通りだけれど。
(くしは、ほしかった……)
なぜなら母さんはよく、
きれいな髪よ、黒くて、みんなとどこも変わらないわ――いつもそう言って、髪をさららになるまで、
「おぐしがお気になられますか?」
鏡に聞かれたクナは、無意識に髪をさわっていた手をびくりと止めた。
「あたしのこと、みえるんですか?」
「はい。この鏡に映るものならなんでも見えますよ」
「なんてふしぎ。あ、みえるってことは、あたしのかみがいまどうなってるかとか、わかるんですか?」
「はい、見えます。おぐしは鳥の巣のようです。頭頂部がもつれておられます」
なんとすばらしい宝物だろう。
髪を
「では
クナは迷わず、巫女の修行をするための部屋を借りたいと願った。一刻も早く目を赤くして、化け物におのが身を食べてもらいたかった。
死んだら、母さんがいる家に帰れる。魂がそこへ飛んでいく。
早く母さんに会いたい――クナの願いは切に、それ一色だった。
「でもあたし、しゅぎょうのやりかたをよくしらないんです」
「では、巫女の修行をご教示なさる方も、手配いたします」
なんとありがたい! クナは鏡に手を合わせて頭を下げた。
優しい声は
手で探ればそこはつるつる、床があるだけ。あっけにとられたクナがぽかんと口を開けていると、ずずっと床の一部が左右に開き、卓がまたゆっくり昇って鏡が戻ってきた。
「お待たせいたしました。
「あ、ありがとうございます」
「おそれながら奥様、
鏡の上に乗っている
「おくさま? いえあたしは、ちゅうこくさまのおくさまじゃありません」
きょとんとするクナに、しかし鏡は淡々と、信じられないことを告げた。
「おそれながら、あなたさまは本日未明より、
えっと驚いたとたんに、思わず腕に力が入った。もつれ髪に
「『十の月十六日、
第八
「そんな。どうして?!」
クナは頭から引き抜いた
イナカ・ムスメ?
(しろがねいろ?)
おのれのどこがそうなのか。肌は栗皮色。髪は黒のはずなのに。
『ああ、よい色だ』
クナの脳裏に、
(よいいろって……くろのことよね? そうよね? あたしのかみは、くろよ)
確かめるように念じたとたん。クナの耳を、あの音が撫でた気がした。
ちりちり。ちりちり。
その音が、自分の髪から出ているような気がして。
「か、かがみさま。あたしのかみ……」
たちまちこわくなったクナは、すがるように鏡にたずねた。指から血の気が失せるぐらい、強く強く、
「あたしのかみって、なにいろ、ですか?」
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