第八話 火遊び

 おぞましいものの轟音は消えなかった。ごおごおごうごう、いつまでも。

 空気はひび割れ、どこもかしこも砕けていくようだった。


 喰ワセロ、喰ワセロ、喰ワセロ……

 

 まるでいかずち、どしゃぶりの雨だ。

 クナの頭はずきずき、意識はもうろう。ふらふらと首を垂れると、頬にふっと熱が当たった。

 これは晴れ空の、天照あめてらしさまの光? もう朝になったのだおるか?

 ああ、違う。このぬくもりはもっと熱っぽい。


(だれかの、て?)


 その手は優しくクナの頬を撫でながらあごに下り、指をうごかして、クナの唇をそうっと撫でてきた。と同時に、しっとり濡れたものがこめかみをひたひた押してきた。


(わただ。ぬれてるわた。あたしのきずを、ふいてくれてる?)

「口内に出血はなさそうだ」


 りんと、澄んだ声がクナの耳元で響いた。


「頭部の血が口元まで垂れたようだ。かんざしがあたって頭が切れたが、傷は浅い。縫うほどではなかろう」


 なんてきれいな声――

 クナは口の端をかすかにほころばせた。たえなる声はまったく濁りなく、秋風のようにさわやか。不思議なことに、あたりの轟音よりもよく聞こえた。

 

「飲みなさい」


 クナの唇を撫でる指が、唇をそっと広げてきた。竹の匂いがする容器が口に当てられる。そこからとぷっと甘い液体が出てきて、口の中にじわりじわり。

 口の端から液が漏れかけると、やわらかいふるっとしたものが唇をふさいできた。クナはそれにぴたりと押さえられたおかげで、流し込まれたものをこくんと、なんとか出さずに飲み込めた。

 

(くちにふれてるものは、なに?)

 

 ふしぎに思って唇で押してみると、しっとり濡れたものがそこから出てきた。こめかみを撫でてくれた綿より、なめらかだ。それはしばらくクナの歯をなぞり、それから優しく中に入ってきて、舌にとろりと絡みついた。


「ふぁ……」


 クナの体はわなないた。このとろりは、なんと心地よいのだろう。優しく撫でられているようで、うっとりしてしまう。

 いつまでも口の中にいてほしい。そう思ったけれど、なぜか舌が、にわかに熱を帯びてきた。まるで火をつけられたようにじりじり、じりじり……

 

(え? あつ……い?)


 炎が出る! 

 そう思った瞬間、しっとりなめらかなものはするりと、口の中からいなくなった。哀しげな声を残して。


「まさか聖印が付いているのか?」

(せい……いん?)





 口の中が突然燃え上がったせいで、クナは仰天した。おかげではっきり意識をとりもどすことができた。

 今のはなんだったのだろう? 心地よかったのに突然口が熱くなった。

 そのまま火を吹くのではないかと思いきや、ふしぎなことに口の熱はすうと引いた。鼻を突き出してあたりを探れば、湿った苔のような匂いが鼻をつく。

 止まらないごうごうの、なんとうるさいこと。耳がしびれそうだ。

 

「もうけないぞ、屍龍シーロン


 美しい声が頬に降ってくる。声の出どころがとても近い。だから轟音ごうおんに消されないで、よく聴こえるのだろう。


(むけない?)


 クナはとても身軽になっていた。まとっているのは小袖の襦袢じゅばん一枚だけ。腕から先が、膝から先が、空気にじかに触れている。正面から風がどっと吹きつけてきていて、腕にはりついた袖がばたばた。髪にはかんざしがまだ刺さっているが半分解かれて、長くなびいていた。 

 巫女たちに着せられた、あの何枚もの衣はどこへ?

 呆然とするクナのそばで、ぶばっと重そうな布ものが広がり、はためきながら離れていった。 

 ひゅおう、びゅおう。流れゆく風にのり、あっという間に遠ざかる。


(ああ、かぜがおどってる)


 クナたちはずいぶん高いところにいるらしい。それだけでなく……。


(これ、とんでる?! とりみたいに?)


 薄い襦袢じゅばんを通して、人肌のぬくもりが伝わってくる。クナの両肩と膝の裏に巻きついているのは、人の腕。すとんと落ちている尻のまわりを囲んでいるのは、組まれた足。はるかな高みに在る中、美声の人はあぐらをかいた格好で、クナを抱えてくれていた。


「衣は全部落とした。これ以上は軽くならぬ。文句をいうな」


 美声の人はだれかと話している。あたりはまるで割れるいかずち、天の怒り。風の音とごうごうの嵐しかないのに。


「……そうだ屍龍シーロン鉄糸たたらいとを織りこんだ、鎧衣よろいごろもを着重ねていたのだ。美しく頑丈な鉄錦たたらにしきをな。大巫女ウヌジが聖結界の大陣を張るときにまとうものを惜しげもなくだ。それで神官どもは、まちがいなく本物の月の姫と思い込んだんだろう。そして不視ふしの修行をしているとなれば、目の色を見せぬための目隠しも怪しまれぬ」


(よろい? ほんものの、ひめ?)

「それにしても、また祭殿を潰すとは。お前は遊んでいるつもりだろうが、むこうはそうはとらぬ。これ以上繰り返せば、再建費用を請求されるだけでは済まぬぞ。ちゃんと着地制動をかけろ」


 傷の痛みをこらえつつ。クナは何度もゆっくり、頭の中で美声の人の言葉をくりかえした。


(ほんもののひめ……ほんものの……まさかあたし、だれかのみがわり、だった?)


 青ざめるクナの手先に、何かが触れた。だらりと垂れた指を濡らしているのは、濡れた苔か泥土のようなもの。湿り気があり、なんとしびれるぐらいじんじん振動している。

 クナはぎょっとして手をひっこめた。轟音ごうおんの出どころは、まさしくこれだ。この、自分たちが乗っている、大きなもの。

 聖結界の音が止む瞬間に一瞬だけ視えた、黒くうごめくおそろしい影。触れた瞬間、あれが視えた気がした。


(あたし、あのばけものにのってる? そいつがこんなにすごいおとを……まって、このごうごうってもしかして、ばけもののこえなんじゃない?)


 囁きもよく聞こえるクナの耳には、響きすぎてなにがなんだか。しかし美声の人は轟音ごうおんをちゃんと聴き取って答えているようだった。

 

「……だめだ。トウ家のマカリ姫は赤鋼玉あかはがねだまの瞳うるわしきと、帝都中でうたわれている。しかしこの娘は違う。この娘の瞳はまったく赤くない。すなわち体内の神霊玉が、まったく成長しておらぬということだ。この娘を丸呑みしても、まったく無意味。おまえの力にはならぬ」


(まって。くろかみのちゅうこくさまは、このばけものをかってるの? それに、しんれいだまをくわせるつもりだった? あたしごと?)

 

「……心配するな。たしかに不知火しらぬい将軍は予定通り、相棒の火龍フオロンロン家のトワ姫を食わせただろう。だがそれでも、あの若い火龍の霊位はまだまだ低い。おまえを凌駕りょうがすることはない」

 

 美声の人の言葉にクナは身震いした。

 他の柱国将軍ちゅうこくしょうぐんも化け物を飼っている? そして他の七人の月の姫たちは、化け物たちの餌にされてしまった? 

 三苦行をさせられたのは、身代わりであることを隠すため。

 月の夫人がクナに感謝してきたのは、本物の姫が救われるため。

 リンシンが必死に儀式の中止を訴えたのは、月の姫たちがたくさん、喰われるためだったのだ。

 

(みがわりはあたしだけ? ほかのひめはみんなほんもの?)

「うるさい、ごちゃごちゃいうな!」


 美声の人がうんざりした様子で化け物に怒鳴ったので、クナの心臓はぎゅうと縮み上がった。


「むろん、報復はする。月神殿にも太陽神殿にも、たっぷりとな。役にたたぬものをつかまされて、このまま黙ってはおらぬ」


 もし美声の人が、月神殿に仕返しなどしたら。クナが本物の姫ではないことがばれたと知れたら――


『役立たずのクナ!』


 姉のののしりが、クナの頭の中によみがえった。

 月神殿の神官たちはクナの家族からお金を取り戻すどころか、危害を加えるかもしれない。

 そうなってはだめだ。絶対だめだ。


(あたし、マカリひめとしてしなないと! ばけものにたべてもらわないとだめ!)


 こわい。死ぬのはいやだ。

 でも月の夫人は、クナに真名しんめいをくれた。これは本当に、せめてものたむけだ。大人の名をもつ者は、死んだら天へ昇らずに氏神さまになれる。望めば地上にとどまって、家族を守るものになれる。


(そうよ。なまえをもらったから、そうできるはず。これってあたし、しんだらかあさんにあえるってことよ)


 よもや化け物は、クナの魂までは喰らうまい。魂が抜けたら、家に飛んで帰ればよいのだ。母さんが守っている家に――。

 哀しみの中に、かすかな希望と覚悟がわいてきた。そうだ、そうするしかないんだと、クナはおののく手をのばした。美声の人の胸元をさぐり、がっしり襟らしきものをつかむ。頭はひどく痛くてずきずきふらふら。もうろうとしていたけれど、思いのほか言葉はするりと、つかえることなく出てきた。


「た、たべて! たべてください! あたしは、ほんもののマカリひめさまですっ」

 

 こわくて、声はしゃがれて情けない。それでも一所懸命、クナは叫んだ。


「うそじゃありません。ほんとにあたしがマカリひめさまです! めがあかくないのはっ……あれです、ほらあれです、しゅぎょうを、さぼったからです! ごめんなさい! でもどうかあたしを、たべてください! いますぐ、たべてください!」





 クナが叫んだ瞬間、うるさい轟音ごうおんがぴたりと止んだ。

 一拍、二拍、三拍。ただ風の音だけが、しばし流れた。

 四拍、五拍、六拍。風の音が途切れたと思ったとたん、クナたちを乗せた化け物はずどん、と勢いよく、どこか硬いところに着地した。衝撃でぼろっと、地に在ったなにかの破片が四方に飛び散り、落下していく。

 かん、かん、からら。

 耳を澄ましたクナは、息を呑んだ。壁面をつたって落ちていく破片。その音はどこまで続くのか。まだまだえんえん、落ち続けている…… 

 黒髪の柱国ちゅうこく将軍は、国境近くの守護の塔に住んでいると聞いた。ここがその塔なのだろうか。化け物はその、かなり高いところに降り立ったらしい。

 どずんどずんと硬そうな床を鳴らし、化け物が無言のまま、奥へ進む。美声の人もクナを抱えたまま、むっつりだ。クナは怖じ気づいたが、なんとか声を出した。

 

「あの! ほんとに、たべてください! あたしは、マカリひめさまです。だからぜったい、たべないとだめです! いますぐ、がぶっとおねがいします!」


 ばしっと手を合わせ、いま一度願うと。化け物の足音が完全に止まった。

 

「……アルジヨ。コレ、ドコカラ突ッ込メバイイ?」


 じんとあたりににじむような声。それから、ばふんとすさまじい噴射の息がひとつ。クナを抱える美声の人は、ぼそりと答えた。


「とりあえず、自分のことを姫さまと呼んでいるところか?」

「あ、あたしあたまわるいんです! ほんに、ろくにことばもしゃべれんぐらいで。だからみこさまのべんきょうも、ろくにできんありさまで」

ナマッッテルゾ田舎娘。オマエノドコガ、赤鋼玉アカハガネダマウルワシキ、ナンダ?」

「あ、あたし、ほんとうにばかで……だからしんかんさまたちが、これじゃはずかしいからって、みやこにウソのうわさをながしてたんです。でもほんとに、あたしはマカリひめです。トウけのマカリひめ。ちゃんと、そういうなまえです。だからどうかしんじてください。おねがいですから、しんでんにしかえしなんて、しないでください!」


 化け物に突っ込まれたクナは、しどろもどろ。しかし無我夢中でまくしたてた。両手を合わせ、内心では見も知らぬ姫様にあやまりながら、早く死ねるようにと祈った。 すると化け物が、声をひそめて聞いてきた。


「オイオマエ、ホントハ何ダ? 奴婢ぬひカ? 孤児院ノ孤児カ? アアソウカ、闇市場デ売買サレタンダナ?」

「いえ、おやにうられたんじゃありませんっ。あたしは――」

「ウハ、チョロイワ。アルジ、コイツ親ニ売ラレタッテヨ」

「いえ! だからそれはちが……」

「ヒャヒャ。声ガ裏返ッテルゾ。カワイソウニ、ヒドイ親ダナァ。ア、オイ待テアルジ!」


 停まった化け物からすとん。美声の人はクナを抱いたまま、地に降りた。そのままカツカツ固い沓音くつおとを立て、無言で奥へ進んでいく。化け物は、後ろでごうごう吼え猛った。


「オイ! ナンデ連レテクンダ! 喰ッテクレッテンダカラ、願イヲカナエテヤロウジャナイカヨ! ナァソレ俺ノダゾ! 俺ノメシダゾ! 俺ノ飯子メシコダ! 飯子メシコォオオオッ!」 


 ドドッと追いかけてくる気配がしたが。


「畜生! 俺ノ――」

 

 その雄たけびは突然、どずんという重い音にかき消された。分厚い扉で勢いよくさえぎられたらしい。

 向こうからずんずん突いてくる気配がするが、扉は頑丈なようで、まったく微動だにしなかった。美声の人は化け物を無視して奥へ進んだ。

 塔の内部はかなり広いようだ。美声の人はクナを抱えたまま何十歩も進み、それから階段をのぼりはじめた。降りたところはかなりの高みのはずだが、まだてっぺんではなかったらしい。


「あの」

「黙れ」

「でもあたしは」

「黙っていろ」


 寡黙になった美声の人は、なぜか怒っているようだ。体から放たれる雰囲気が、異様に硬く鋭い。階段を上がりきったところで、うろたえるクナはごくりと、また息を呑んだ。

 あたりにたくさん、異様な気配が在る。めららめらら。燃えているようだが、せわしない。あちこち行き交っている。

 

「おかえりなさいませ」

「主さま、ご無事のご帰塔きとう、お喜び申し上げます」

「おかえりなさいませ」


 燃えているようなものは、ぱちぱちはじけるような声を出して、一斉に寄ってきた。しかし美声の人は無言でさらに奥に進んだ。背後でまた、分厚い扉が閉まる音が響き渡ると。

 

「ひゃ!」


 つきあたりの、布が張られた台――寝台に、クナは転がされた。美声の人は怒っているようで、固く息を詰めている。しかしクナは、自分がするべきことをするしかなかった。

 化け物は食う気満々。ならば好都合だろう。


「しんれいだまはちゃんと、からだのなかにあります。のりともおぼえました。おとなのなまえも、もらいました。トウけのマカリひめ。うそじゃありません。それがあたしの、まことのなまえです。みこのちからはほとんどないけど、たぶんほんのちょっとは、ばけものさまのたしになると……や、やくにたてると……」


 寝台がきしむ。鼻先に深いため息がひとつ。とたん、隣に座した美声の人の手が、クナの下あごをがしりとつかんだ。


「あ、あ、あ、あの」

「自ら死にたいと思うことほど、愚かなことはない」


 美声の人の囁きはとても鋭くて。何かをぐっと押し殺したような怒りが、底に渦巻いていた。


「傷の手当てに高価な霊水を使った。どう見ても巫女ではないから助けられる。そう思ったからだ。なのに、食べてくださいだと?」


 ああ、きっと睨まれている。クナは口をぱくぱくさせてなんとか訴えようとしたが、相手の剣幕に押されて声がのどにひっかかってしまった。


「田舎娘。君の真名しんめいが本当にトウ家のマカリだとしても、私は君をシーロンのエサにはできぬ。全然だめだ。菫の瞳など、まったく話にならぬ」 

「すみれのひとみ?」


 クナは首を傾げた。

 畑の脇にたくさん生える、あのかわいい花? 甘くてはかない匂いの? 

 宝石のような目と母さんにいわれたことはある。でもすみれ色だと言われたことは一度もなかった。

 

「そして涙が甘いのは、絶対にだめだ」


 低く声をひそめた囁きが鼻先をかすめたとたん。やわらかでふるっとしたものが、目じりに触れてきた。

 その感触にクナは身をすくめ、大きくわなないた。

 ふるっとしたものは目の端からゆっくり頬を伝っていく。これは……これは怒っている人の……


「く、くちびる?! やだやめてっ!」


 クナは相手の顔を押しのけようと、反射的に両手をつき出した。涙など、いつのまに出たのだろう? くすぐったさと恥ずかしさで、クナの顔は湯気が出そうなほど燃えあがった。


「な、なみだがあまいのはだめって、どういうこと? そうじゃないひとっているの? ていうか、なんで、あたしのなみだをすうの?!」


 ずいぶん勢いよく押したはずなのに、相手を引き離すことはかなわなかった。 

 美声の人はクナの腕をかわすと、ひしと抱きしめてきた。きつく、きつく。潰してしまうかというぐらいに。

 その刹那、あたりを硬くしていた怒りが霧散して。

 

「甘いのは反則だよ……田舎娘」


 とても優しく切ない囁きが、クナの耳元を撫でた。

 それははかなくなった人を想うかのようにひどく湿っていた。

 寂しく濡れる、秋の雨のように。



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