第八話 火遊び
おぞましいものの轟音は消えなかった。ごおごおごうごう、いつまでも。
空気はひび割れ、どこもかしこも砕けていくようだった。
喰ワセロ、喰ワセロ、喰ワセロ……
まるで
クナの頭はずきずき、意識はもうろう。ふらふらと首を垂れると、頬にふっと熱が当たった。
これは晴れ空の、
ああ、違う。このぬくもりはもっと熱っぽい。
(だれかの、て?)
その手は優しくクナの頬を撫でながらあごに下り、指をうごかして、クナの唇をそうっと撫でてきた。と同時に、しっとり濡れたものがこめかみをひたひた押してきた。
(わただ。ぬれてるわた。あたしのきずを、ふいてくれてる?)
「口内に出血はなさそうだ」
りんと、澄んだ声がクナの耳元で響いた。
「頭部の血が口元まで垂れたようだ。かんざしがあたって頭が切れたが、傷は浅い。縫うほどではなかろう」
なんてきれいな声――
クナは口の端をかすかにほころばせた。
「飲みなさい」
クナの唇を撫でる指が、唇をそっと広げてきた。竹の匂いがする容器が口に当てられる。そこからとぷっと甘い液体が出てきて、口の中にじわりじわり。
口の端から液が漏れかけると、やわらかいふるっとしたものが唇をふさいできた。クナはそれにぴたりと押さえられたおかげで、流し込まれたものをこくんと、なんとか出さずに飲み込めた。
(くちにふれてるものは、なに?)
ふしぎに思って唇で押してみると、しっとり濡れたものがそこから出てきた。こめかみを撫でてくれた綿より、なめらかだ。それはしばらくクナの歯をなぞり、それから優しく中に入ってきて、舌にとろりと絡みついた。
「ふぁ……」
クナの体はわなないた。このとろりは、なんと心地よいのだろう。優しく撫でられているようで、うっとりしてしまう。
いつまでも口の中にいてほしい。そう思ったけれど、なぜか舌が、にわかに熱を帯びてきた。まるで火をつけられたようにじりじり、じりじり……
(え? あつ……い?)
炎が出る!
そう思った瞬間、しっとりなめらかなものはするりと、口の中からいなくなった。哀しげな声を残して。
「まさか聖印が付いているのか?」
(せい……いん?)
口の中が突然燃え上がったせいで、クナは仰天した。おかげではっきり意識をとりもどすことができた。
今のはなんだったのだろう? 心地よかったのに突然口が熱くなった。
そのまま火を吹くのではないかと思いきや、ふしぎなことに口の熱はすうと引いた。鼻を突き出してあたりを探れば、湿った苔のような匂いが鼻をつく。
止まらないごうごうの、なんとうるさいこと。耳がしびれそうだ。
「もう
美しい声が頬に降ってくる。声の出どころがとても近い。だから
(むけない?)
クナはとても身軽になっていた。まとっているのは小袖の
巫女たちに着せられた、あの何枚もの衣はどこへ?
呆然とするクナのそばで、ぶばっと重そうな布ものが広がり、はためきながら離れていった。
ひゅおう、びゅおう。流れゆく風にのり、あっという間に遠ざかる。
(ああ、かぜがおどってる)
クナたちはずいぶん高いところにいるらしい。それだけでなく……。
(これ、とんでる?! とりみたいに?)
薄い
「衣は全部落とした。これ以上は軽くならぬ。文句をいうな」
美声の人はだれかと話している。あたりはまるで割れる
「……そうだ
(よろい? ほんものの、ひめ?)
「それにしても、また祭殿を潰すとは。お前は遊んでいるつもりだろうが、むこうはそうはとらぬ。これ以上繰り返せば、再建費用を請求されるだけでは済まぬぞ。ちゃんと着地制動をかけろ」
傷の痛みをこらえつつ。クナは何度もゆっくり、頭の中で美声の人の言葉をくりかえした。
(ほんもののひめ……ほんものの……まさかあたし、だれかのみがわり、だった?)
青ざめるクナの手先に、何かが触れた。だらりと垂れた指を濡らしているのは、濡れた苔か泥土のようなもの。湿り気があり、なんとしびれるぐらいじんじん振動している。
クナはぎょっとして手をひっこめた。
聖結界の音が止む瞬間に一瞬だけ視えた、黒くうごめくおそろしい影。触れた瞬間、あれが視えた気がした。
(あたし、あのばけものにのってる? そいつがこんなにすごいおとを……まって、このごうごうってもしかして、ばけもののこえなんじゃない?)
囁きもよく聞こえるクナの耳には、響きすぎてなにがなんだか。しかし美声の人は
「……だめだ。
(まって。くろかみのちゅうこくさまは、このばけものをかってるの? それに、しんれいだまをくわせるつもりだった? あたしごと?)
「……心配するな。たしかに
美声の人の言葉にクナは身震いした。
他の
三苦行をさせられたのは、身代わりであることを隠すため。
月の夫人がクナに感謝してきたのは、本物の姫が救われるため。
リンシンが必死に儀式の中止を訴えたのは、月の姫たちがたくさん、喰われるためだったのだ。
(みがわりはあたしだけ? ほかのひめはみんなほんもの?)
「うるさい、ごちゃごちゃいうな!」
美声の人がうんざりした様子で化け物に怒鳴ったので、クナの心臓はぎゅうと縮み上がった。
「むろん、報復はする。月神殿にも太陽神殿にも、たっぷりとな。役にたたぬものをつかまされて、このまま黙ってはおらぬ」
もし美声の人が、月神殿に仕返しなどしたら。クナが本物の姫ではないことがばれたと知れたら――
『役立たずのクナ!』
姉の
月神殿の神官たちはクナの家族からお金を取り戻すどころか、危害を加えるかもしれない。
そうなってはだめだ。絶対だめだ。
(あたし、マカリひめとしてしなないと! ばけものにたべてもらわないとだめ!)
こわい。死ぬのはいやだ。
でも月の夫人は、クナに
(そうよ。なまえをもらったから、そうできるはず。これってあたし、しんだらかあさんにあえるってことよ)
よもや化け物は、クナの魂までは喰らうまい。魂が抜けたら、家に飛んで帰ればよいのだ。母さんが守っている家に――。
哀しみの中に、かすかな希望と覚悟がわいてきた。そうだ、そうするしかないんだと、クナはおののく手をのばした。美声の人の胸元をさぐり、がっしり襟らしきものをつかむ。頭はひどく痛くてずきずきふらふら。もうろうとしていたけれど、思いのほか言葉はするりと、つかえることなく出てきた。
「た、たべて! たべてください! あたしは、ほんもののマカリひめさまですっ」
こわくて、声はしゃがれて情けない。それでも一所懸命、クナは叫んだ。
「うそじゃありません。ほんとにあたしがマカリひめさまです! めがあかくないのはっ……あれです、ほらあれです、しゅぎょうを、さぼったからです! ごめんなさい! でもどうかあたしを、たべてください! いますぐ、たべてください!」
クナが叫んだ瞬間、うるさい
一拍、二拍、三拍。ただ風の音だけが、しばし流れた。
四拍、五拍、六拍。風の音が途切れたと思ったとたん、クナたちを乗せた化け物はずどん、と勢いよく、どこか硬いところに着地した。衝撃でぼろっと、地に在ったなにかの破片が四方に飛び散り、落下していく。
かん、かん、からら。
耳を澄ましたクナは、息を呑んだ。壁面をつたって落ちていく破片。その音はどこまで続くのか。まだまだえんえん、落ち続けている……
黒髪の
どずんどずんと硬そうな床を鳴らし、化け物が無言のまま、奥へ進む。美声の人もクナを抱えたまま、むっつりだ。クナは怖じ気づいたが、なんとか声を出した。
「あの! ほんとに、たべてください! あたしは、マカリひめさまです。だからぜったい、たべないとだめです! いますぐ、がぶっとおねがいします!」
ばしっと手を合わせ、いま一度願うと。化け物の足音が完全に止まった。
「……
じんとあたりににじむような声。それから、ばふんとすさまじい噴射の息がひとつ。クナを抱える美声の人は、ぼそりと答えた。
「とりあえず、自分のことを姫さまと呼んでいるところか?」
「あ、あたしあたまわるいんです! ほんに、ろくにことばもしゃべれんぐらいで。だからみこさまのべんきょうも、ろくにできんありさまで」
「
「あ、あたし、ほんとうにばかで……だからしんかんさまたちが、これじゃはずかしいからって、みやこにウソのうわさをながしてたんです。でもほんとに、あたしはマカリひめです。トウけのマカリひめ。ちゃんと、そういうなまえです。だからどうかしんじてください。おねがいですから、しんでんにしかえしなんて、しないでください!」
化け物に突っ込まれたクナは、しどろもどろ。しかし無我夢中でまくしたてた。両手を合わせ、内心では見も知らぬ姫様にあやまりながら、早く死ねるようにと祈った。 すると化け物が、声をひそめて聞いてきた。
「オイオマエ、ホントハ何ダ?
「いえ、おやにうられたんじゃありませんっ。あたしは――」
「ウハ、チョロイワ。
「いえ! だからそれはちが……」
「ヒャヒャ。声ガ裏返ッテルゾ。カワイソウニ、ヒドイ親ダナァ。ア、オイ待テ
停まった化け物からすとん。美声の人はクナを抱いたまま、地に降りた。そのままカツカツ固い
「オイ! ナンデ連レテクンダ! 喰ッテクレッテンダカラ、願イヲカナエテヤロウジャナイカヨ! ナァソレ俺ノダゾ! 俺ノ
ドドッと追いかけてくる気配がしたが。
「畜生! 俺ノ――」
その雄たけびは突然、どずんという重い音にかき消された。分厚い扉で勢いよくさえぎられたらしい。
向こうからずんずん突いてくる気配がするが、扉は頑丈なようで、まったく微動だにしなかった。美声の人は化け物を無視して奥へ進んだ。
塔の内部はかなり広いようだ。美声の人はクナを抱えたまま何十歩も進み、それから階段をのぼりはじめた。降りたところはかなりの高みのはずだが、まだてっぺんではなかったらしい。
「あの」
「黙れ」
「でもあたしは」
「黙っていろ」
寡黙になった美声の人は、なぜか怒っているようだ。体から放たれる雰囲気が、異様に硬く鋭い。階段を上がりきったところで、うろたえるクナはごくりと、また息を呑んだ。
あたりにたくさん、異様な気配が在る。めららめらら。燃えているようだが、せわしない。あちこち行き交っている。
「おかえりなさいませ」
「主さま、ご無事のご
「おかえりなさいませ」
燃えているようなものは、ぱちぱちはじけるような声を出して、一斉に寄ってきた。しかし美声の人は無言でさらに奥に進んだ。背後でまた、分厚い扉が閉まる音が響き渡ると。
「ひゃ!」
つきあたりの、布が張られた台――寝台に、クナは転がされた。美声の人は怒っているようで、固く息を詰めている。しかしクナは、自分がするべきことをするしかなかった。
化け物は食う気満々。ならば好都合だろう。
「しんれいだまはちゃんと、からだのなかにあります。のりともおぼえました。おとなのなまえも、もらいました。トウけのマカリひめ。うそじゃありません。それがあたしの、まことのなまえです。みこのちからはほとんどないけど、たぶんほんのちょっとは、ばけものさまのたしになると……や、やくにたてると……」
寝台がきしむ。鼻先に深いため息がひとつ。とたん、隣に座した美声の人の手が、クナの下あごをがしりとつかんだ。
「あ、あ、あ、あの」
「自ら死にたいと思うことほど、愚かなことはない」
美声の人の囁きはとても鋭くて。何かをぐっと押し殺したような怒りが、底に渦巻いていた。
「傷の手当てに高価な霊水を使った。どう見ても巫女ではないから助けられる。そう思ったからだ。なのに、食べてくださいだと?」
ああ、きっと睨まれている。クナは口をぱくぱくさせてなんとか訴えようとしたが、相手の剣幕に押されて声がのどにひっかかってしまった。
「田舎娘。君の
「すみれのひとみ?」
クナは首を傾げた。
畑の脇にたくさん生える、あのかわいい花? 甘くて
宝石のような目と母さんにいわれたことはある。でもすみれ色だと言われたことは一度もなかった。
「そして涙が甘いのは、絶対にだめだ」
低く声をひそめた囁きが鼻先をかすめたとたん。やわらかでふるっとしたものが、目じりに触れてきた。
その感触にクナは身をすくめ、大きくわなないた。
ふるっとしたものは目の端からゆっくり頬を伝っていく。これは……これは怒っている人の……
「く、くちびる?! やだやめてっ!」
クナは相手の顔を押しのけようと、反射的に両手をつき出した。涙など、いつのまに出たのだろう? くすぐったさと恥ずかしさで、クナの顔は湯気が出そうなほど燃えあがった。
「な、なみだがあまいのはだめって、どういうこと? そうじゃないひとっているの? ていうか、なんで、あたしのなみだをすうの?!」
ずいぶん勢いよく押したはずなのに、相手を引き離すことはかなわなかった。
美声の人はクナの腕をかわすと、ひしと抱きしめてきた。きつく、きつく。潰してしまうかというぐらいに。
その刹那、あたりを硬くしていた怒りが霧散して。
「甘いのは反則だよ……田舎娘」
とても優しく切ない囁きが、クナの耳元を撫でた。
それは
寂しく濡れる、秋の雨のように。
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