第4話 辛憲英、羊徽瑜、窮地を救う

 羊耽は頭をかかえていた。

 甥の羊祜が一向に仕官しないのである。その上姉(羊耽にとっての姪)を司馬師に嫁がせた。司馬師は一人目の夫人夏侯徽(夏侯尚の娘)を毒殺している。


 夏侯徽は大変頭のいい女性だった。夫司馬師も聡明であるため、誰もが羨む夫婦であった。子どもも5人産んだ。ただしすべて娘で男児には恵まれなかった。

 世継ぎを産まなかったことも夫婦の不和の原因になったが、それとは別に聡明すぎる夏侯徽は司馬一族に不信感を抱き始めたのである。すなわち、司馬一族が魏にあだなす可能性があると考えたのだ。司馬師は父司馬懿と相談した上、将来目の上のこぶとなるだろう夏侯徽を毒殺するに至った。


 夏侯徽の死は病死ということにしている。時の権力者、曹爽は夏侯徽の従兄にあたる。すでに魏は曹爽の独裁政治になりつつあるが、その曹爽の従妹を毒殺したなどとは言えない。


「目の上のこぶになるだろう妻を毒殺したのでしょう。彼女が感じたように、いずれ司馬一族の世になりますよ」

 羊耽の妻、辛憲英の言葉は真相をついていたのだが、羊耽は毒殺の部分は信じても、司馬一族の世になる、という部分については信用しなかった。今は曹爽の全盛期である。


「子元様(司馬師の字)は家庭内の目の上のこぶを排除しましたが、最近子元様の目の上に腫瘍ができたとか。媛容様(夏侯徽の字)の祟りかしら」

 縁起でもないことを言う。

 とは言え妻の言うように最近司馬師の目の上に悪性の腫瘍ができたらしい。


 司馬師の二人目の夫人は呉質の娘であったが、彼女ともうまくいかず離婚している。

 司馬師は前の妻は聡明であった、媛容が恋しい、と洩らしているらしい。夏侯徽毒殺のカモフラージュに呉質の娘は利用されたのだ。

 だとすると果たして姪は幸せになれるのだろうか。

 

 いや、姪の心配より、そんなところに姉を嫁がせ、仕官もしない甥の羊祜でが一番の問題なのである。

「祜は一体何を考えているのだろうか」

「子元様と徽瑜(羊祜の姉)は夫婦円満らしいわよ。徽瑜は娘たちとも仲がいいそうだし。あの子は媛容様以上に聡明な子よ。聡明すぎて今まで釣り合う男性に出会わなかったくらい。祜は夏侯家とも司馬家とも姻戚関係を結んだ。その上で時節を見極めようとしているのですわ」

 なんの時節なのか。曹爽一族の世がこれからも続くのは明らかではないか。


 羊耽の予想は見事に外れた。


「あ、姉上!司馬懿がクーデターを起こしました!わ、私はどうしたらいいのでしょう」

 249年、司馬懿は曹爽一族の留守を狙って都洛陽を占拠した。

 辛憲英の弟、辛敞は曹爽の参軍を務めていた。曹爽・曹羲兄弟は皇帝曹芳と共に出かける際、辛敞に留守を預けた。そのため司馬懿が制圧した都に残っており、主である曹爽と離れ離れになっている。同僚の魯芝からは共に曹爽の元に駆け付けるよう言われたが、司馬懿が政権を握るのであれば司馬懿に与した方がいいのではないか。しかし曹爽配下の自分が許されるかどうかはわからない。

 どうにも判断に迷い、姉に相談しに来たわけである。


「司馬懿が政権を握るのであれば、曹爽一派は処刑されるでしょう。ですがあなたは曹爽の配下なのですから曹爽の元に駆け付けなさい。曹爽の配下だからという理由だけで処刑したのでは、今後国に人材がいなくなります。それは司馬懿にとっても困ることです。自分に悪意がなく、忠義のある者を司馬懿は咎めることはないでしょう」

 自分は忠義の士である、そう司馬懿に印象付ける。辛敞は姉の助言を実行し、司馬懿に許されることとなった。


 曹爽配下に王沈という者がいた。中書門下侍郎であった。

 彼は羊祜に仕官を勧めたことがあった。

「人に仕えるのは難しいものです。男として生まれたからには生死を尽くしたいと思いますが、今は誰に尽くすべきか、時節をみており仕官は考えておりません」

 そう言って断られた。


 あの時はおかしなことを言うやつだと思った。

「君の言うことが正しかったよ」

 曹爽配下ということで免職となったが命は助かった。

「考えてどうこうなることでもないですよ。あなたに仕官を勧められた時もこうなるとわかっていたわけではありません。ただ、時節をみていただけです。

 今も考えてどうなるものでもないでしょう。待っていればあなたの才を惜しんでまた登用されることだってありますよ」

 羊祜の言う通り、王沈は後に治書侍御史・秘書監として再登用されることとなる。


 もう一人、司馬懿のクーデターで窮地に陥った者が羊祜の周りにいた。

 妻の夏侯夫人である。

 父の夏侯覇は曹一族が排除されていくのを見、身の危険を感じた。呉か蜀か、はたまた異郷か。どこかに亡命せざるを得ない。蜀の皇帝劉禅の妃は、夏侯覇の従妹の子であった。蜀ならば捲土重来の機会があるかも知れない。


 かくして夏侯覇の一族は裏切り者となった。本来であれば一族皆死罪となるところであるが、夏侯淵という魏の功臣の子孫ということで死罪は免れた。夏侯覇の子どもたちは楽浪郡に流されることになった。

 羊祜の妻も例外ではない。

「姉上にお願いしよう。子元様はきっと聞き届けてくださる。安心しなさい」

 羊祜は痩せ衰えた妻に言うと、姉の元に走った。


「あなたはこういう時のために私を司馬家に嫁がせたのですか」

 言葉はきついが、顔は笑っている。さすがわが弟だ、と言わんばかりだ。

「私は姉上の嫁ぎ先を指定してはいません。季権様(夏侯威の字)の決めたことです」

「反対しなかったのには理由があるのではなくて?」

 返答に窮する。

 姉の言うことは当たっているのだが、それ以上に夏侯威の功績なのである。

 そもそも夏侯威は夏侯覇の弟であり、妻は曹爽の妹である。それが罰せられもせずいられるのは彼が姉を司馬師に紹介した功績による。司馬師はよほど姉を気に入っているらしい。

「まあいいわ。子元様にはお願いしておく。あなたも妻を大事にしなさいよ」

 あなたも。やはり司馬師は姉をとても大事にしているらしい。

 

 周りからの風当たりは冷たかった。夏侯覇は裏切り者、というのが親族の間でも言われる。直接言われることはなくても、妻は感じている。

 羊祜は妻を支えていく決意を固めた。

 仕官などできるか。妻を一人にはさせない。


 一方裏切り者夏侯覇の弟であり、謀反人曹爽の義弟にあたる夏侯威も妻の死罪免除を司馬懿に申し出た。しかし曹爽の血縁は三族皆死刑となっている。妹だけを許すわけにはいかなかった。

 夏侯威は自分の無力を妻に告げた。そして昔嫌がる妻に襲い掛かったことについても謝罪した。

「駿と荘(子の夏侯駿と夏侯荘)をお願いします。それと・・・」

 それだけ言って妻は処刑場へと向かった。

 それと・・・何を言おうとしたのかは永遠にわからなかった。


 妻を殺され、裏切り者夏侯覇の弟というレッテルを貼られても、夏侯威は司馬一族への親交をやめなかった。むしろより深めていった。

「駿と荘をお願いします」

 妻との約束を果たす一番の近道がそれだと判断した。


 司馬家長子、司馬師には羊祜の姉を紹介したことで感謝されている。しかし司馬師には男児がいない。司馬一族の跡を継ぐのは弟の司馬昭の長子となる。そこで司馬昭にも贈り物をし、信頼を得るに至った。


 夏侯威の司馬一族への努力は、子の夏侯荘へと受け継がれた。

 夏侯荘は羊祜の従姉を妻にもらった。二人の間には何人かの子どもが産まれた。

 この子どもの世代で、夏侯威からの一族の努力が実ることとなった。夏侯荘の娘、夏侯光姫が司馬一族の司馬覲(後の琅邪王)に嫁いだのである。そして夏侯光姫は男児を出産した。この男児、司馬睿が後の東晋の初代皇帝、元帝となるのである。


 夏侯威は死後、皇帝の曽祖父となった。

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