Capture14.千年王国スクルド

最終話 偽らざる聖典の終わりに。





「はい、これでおしまい。そろそろ眠りましょうか」

「え? え? もうおしまい? リュイリィちゃんは、この後どうしたの?」

「ふふ、一体どうしたのかしらね。ここに書き記されていないことは、ママにも分かりません」


 いたずらめいた笑みで、母親は娘の髪を梳いた。年端もゆかぬ少女は、名残惜しそうに絵本を閉じる。その表紙には、水瓶と神槍を見比べる黄金色の髪の娘が描かれていた。


 それは"神々の創作神話"と名付けられた聖典を、幼児向けに分かりやすく書き直した絵本である。


 この世界の誰もが知っているであろう、終わりと始まりの物語。


「ぶー。ママのお勉強不足なんじゃないの? なんだか悲しくなっちゃった」

「ママが祈っていてあげる。あなたが、怖い夢にうなされませんように」


 決して裕福ではない暮らしであったが、抱えきれないほどの幸福があった。たとえば、この小さな寝室にも。


「大丈夫よ。だって、リュイリィちゃんが見守ってくれてるもん」

「そうだったわね。偉大なるヴァール様が、いつでもあなたを見守ってくださるわ。おやすみなさい。明日は千年祭ミレニアムよ」


 母親は洋燈の灯を吹き消すと、少女の額に優しい口づけを落とした。枕元に投げ出された絵本の表紙では、創世神ヴァールリュイリィちゃんがいつまでも世界の行く末を案じている。





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「ちょっと待って。ボクは色々と納得がいかないよ」


 ミッドガルドのどこかに在る果樹園で、朝の陽射しに目を細めながらリュイリィが言う。その右手に握られているのは、神槍ではなく草臥くたびれた聖典である。きまぐれな風がページを捲り上げれば、あちらこちらに赤い罫線が引かれていた。


 編まれた聖典の細部に文句を垂れようとするリュイリィ。仕方なしにこれに応じているのはシリカである。いかにも面倒だといった眼差しが、聖典ものがたりの主人公をじっとりと非難していた。


「また始まったの……。でも良いよ、キミの言い分を一回だけ聞いてあげる。だって、すばらしい朝だから」

「いや、何回だって言うよ。シリカの書いたこの物語って、悲劇的すぎるでしょ? ほら、特に最後らへんがさ。あれじゃあ子供たちが泣いちゃう」


 ぷんすかと頬を膨らませながら、シリカに躙り寄るリュイリィ。


「そうかな? リュイリィに聞いたままを書き記したつもりなんだけど。僕は瘴気書記を司る偉大なる神シリカ様だぞ──、なんちゃって」


 さして面白くもない冗談に、今度こそリュイリィが地団駄を踏んで暴れ出す。果樹の葉の上で寝そべっていた朝露の一つが、シリカの頬へと滑り落ちた。


「脚色が過ぎるって言ってるの! それに……、それにさ。せめてボクとウィヌは、ちゃんとくっつけてよ」

「ハッピーエンドじゃ響かないでしょ。それじゃあ戒めにならないもん」

「うーん。人間たちへの戒めってこと?」


 問いかけるリュイリィに、人差し指をぴんと立ててシリカは答えた。このやり取りも、果たして何度目になるだろうと辟易しながら。


「それもあるけどね。どちらかといえば、僕たちへの戒めだよ」


 口元を窄めて後ろ手を組み、シリカは責め立てるような表情を浮かべた。それもそのはずである。納得がいかないと文句を言いたいのは、本当は彼女の方であったのだ。


 シリカが何度質問しても、リュイリィは強引にはぐらかすばかりだった。


 実際のところ、彼女はグングニルをどうしたのか。

 もっと言えば、女神たちの安否がどうであったのか。


 誰よりもそれをりたいシリカであったが、眩しい陽光が恵みの果樹園を照らし、疑心を咎められているような気分になる。


 ──問い詰めるのは、また今度にしよう。


 シリカがそう思い直すのも、果たしてこれで何度目になるだろうか。





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 色とりどりの花と刺繍細工で加飾された千年王国スクルドの街並みに、今宵の千年祭ミレニアムに沸く人々の歓声が満ちていた。騎士団の盾を象ったクリムゾンブルーの国旗が、屋根や街路のあちらこちらでたなびいている。


 まるでいつもと違う路地を歩いているような新鮮な気持ちで、少女は林檎を売って歩いていた。客たちの様子も上機嫌そのもので、少女の足取りもなおさら軽やかになっていく。


 だからこそ、思い立ったのかもしれない。満面の笑みで林檎を買ってくれた貴婦人や、饒舌極まりない陽気な若者に──、少女は昨晩の疑問を尋ねてみたのである。


 リュイリィちゃんは、最後にどうなったのかな、と。


「勤勉な子だねぇ」と感心する貴婦人が教えてくれたのは、この世界にはいわゆる神槍派の教徒と、水瓶派の教徒が存在しているという事実だった。早口が過ぎてよく聞き取れなかったので、その詳細を前述の若者に尋ねてみる。


「そうだなぁ、あまり大きな声で言うわけにはいかないんだけどさ──」


 もったいぶった態度で、若者はこう説明した。神槍グングニルを支持する者たちは、と考えている。水瓶トロイアを支持する者たちは、と考えている。


 創世神ヴァールが果たして、右手と左手のどちらを使って世界を導いたのか──、その真実を究明するために、伝説の大地の探索が今日こんにちも行われているとのことだった。聖域ウィグリドと呼ばれるその地に、果たして世界樹は存在しているのだろうか、と。


 それを聞いて、少女の頭の中はますます混乱した。一体何を言っているのかちんぷんかんぷんである。


「あたしが知りたかったのは、そこじゃないんだけどなぁ……」


 出来るだけ人気ひとけの少ない場所を選んで、少女はしゅんと屈み込んだ。。そればかりが気になって、身体のどこかから元気が抜け落ちていくようであった。


 ──この千年祭ミレニアムが終わったら、お仕事を終えて帰ってくるはずのパパに聞いてみよう。


 少女は、ぼんやりとそう考えた。聖騎士団キルヒェンリッターの駆け出しである少女の父親は、今晩も夜通しで城の警備にあたると言っていたのだ。


「その真っ赤な林檎、お姉さんが頂いても良いかな?」


 透き通る声に振り返れば、紅い瞳が印象的な女性が、竹籠の中の林檎を指差していた。彼女が湛えた微笑みのあまりの美しさに、少女の背筋が思わず伸び上がる。


「ど、どうぞ……。もう、これだけしかありませんけど!」


 少女は、理由もなく震えている自分の声を情けなく思った。眩しい赤みを帯びた三つの完熟林檎と引き換えに、手のひらに数枚の金貨が残される。向かい合う彼女の流れる銀色の髪からは、今までに嗅いだこともない柔らかなかおりがした。


「ありがとう。このお代で旅に出てはどう? と、パパとママに伝えて」

「う、うん……」


 小さな手の中に金貨を握りしめた少女は、あんぐりと口を開けたままで眺めていた。慌ただしい雑踏の中に、絵本で見た女神に似た彼女が消えていく姿を。




 ──あっ!




 売り物の全てを捌くことの出来た少女は、家に帰るなり開口一番に母親に告げたのだ。それは小難しい宗派の話ではなく、もちろん、金貨や旅の話でもない──。





「ママ! ねえ、聞いて! さっきね、ウィヌシュカちゃんが居たの!」








 ──ウィヌシュカは生命を愚弄する。

             Fin.──





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