第四部

Capture10.拡散する視界

第38話 その闇は闇よりも深く。





 紡がれる物語は、少しだけ巻き戻る。

 具体的には、万年氷壁ヴァニラが陥落する三つ前の晩まで──。


 未だ消えぬウィヌシュカへの憧れの残滓ざんしと、残滓さえも刻々こくこくと侵食する彼女への失意。相反する乙女心に揺れ動く転生の女神リュイリィに、宵の暗がりから声をかけた者がいたのだ。


「おー、ちっちゃいの。浮かない顔してどした? いっちょ前に悩みごとか?」


 夜更け前の突然の来訪者に、リュイリィはびくりと身体を震わせる。ここは人間界ミッドガルドの、呼び名すら持たない丘陵。何気なしに風に当たっていただけのリュイリィだったからこそ、この場にクロードが現れた不自然さを警戒する。


「クロードの方こそどうしたのさ。寂しさを慰める夜のお相手でも探しているの?」


 少しの動揺を覆い隠すように、努めて軽口を吐いたリュイリィ。対するクロードの七色の瞳オッドアイは複雑に煌めき、天に流れる広大な星の河を連想させた。


「ったく、お前と一緒にすんなよな。あたしはさ、お前に頼みがあって来ただけだよ」

「……ボクに、頼みごと?」


 誰かに頼られるという状況に、リュイリィはひどく不慣れであった。ウィヌシュカが孤高を絵に描いたような性格であるからして、それも致し方のないことだろう。良くも悪くもウィヌシュカは、いつだって独りきりで立とうとしていた。だからこそくすぶった欲求不満が──、言い換えるならば不調和の軋みが、リュイリィの中で抱えきれないほどになっていたのは事実である。


「ちっちゃいのの特殊能力で、ちょっと探して欲しいものがあるんだわ。ものというか、場所というかさ」

「ふぅん。具体的に聞かせてくれる?」


 自身が得意とする探知能力を、クロードに見せたことはないはずだった。頭にもたげた疑念を、「ライラに聞いたのか」という憶測で片付けてしまったリュイリィは、すこぶる愚かであった。


「あたしさ、実はもうずいぶんと前から、神隠しにあった竜人の行方を追ってるんだわ。まぁどこへ消えたのかってのは、それなりに当たりがついてるんだけどよ。肝心のその場所にさ、どうにも辿り着けねーの」


 軽い調子でそう告白するクロードは、リュイリィの目にとても困っているふうには見えなかった。しかしだからこそ、刺激される好奇心というものもあるのだ。いつだって天衣無縫に振る舞っているクロードだが、実際には水面下の心の動きを深く熟知した人物である。


「んー? 言ってることがよく分かんないんだけどさ。クロードに協力したら、ボクに何か見返りがあるの?」

「いんや、ないね」


 クロードが即答する。予想だにしない返答にリュイリィは閉口した。自信たっぷりの笑みで、「だけどさ──」と二の句を継ぐクロードは、底知れない懐の深さを感じさせる。


「このあたしが、ウィヌシュカのことを忘れさせてやるよ。お前に新しい夢を見させてやる」


 クロードは有無を言わさず、リュイリィの小さな身体を抱きすくめた。当然じたばたと抵抗するリュイリィだったが、次第にその勢いを失って大人しくなる。


 しかし。


「放して。ウィヌを忘れるくらいなら、ボクはただ働きで構わない」


 リュイリィの瞳に灯る強い意志の光は、クロードの七色の瞳オッドアイを鋭く射抜いた。脇に置かれた水瓶トロイアが、ざわりと魔力を放つ。


「わりーわりー。ちょっと意地悪してみたかっただけだよ」


 そう言ってリュイリィを解放したクロードは、群青の強まっていく西の空を仰いだ。そして言葉もなく、彼女は想ったのだ。揺れ動く心グングニルなどなくとも、この世界は充分に美しいのではないか、と──。


「まぁ冗談はさておき、本当に頼むよ。あたしとちっちゃいのの仲だろ?」


 感傷を振り払ったクロードは、何でもないことのように言う。「一体どんな仲だよ」とむくれながらも、リュイリィはクロードの頼みを聞き入れたのだった。





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 覗き込んだそのあなぐらの中は、端的に言って狂っていた。魔力の鎖によって支配され、リュイリィの感覚器官となったネズミやコウモリたちの視覚や聴力──、その一切合切が、気の触れた狂宴を映し出している。


 盲信と妄信の徒が崇め奉っているのは、あろうことか再生の女神ライラだ。一体どういう理屈だか創世神リーヴを名乗っている彼女が、豪奢に飾り付けられた壇上で優美に振る舞っている。


 別の窖には、拷問と呼ぶのも憚られるほど機械的な作業で生き血を採取されている竜人たちの姿。少年少女の形をした可愛らしい拷問器具オートマタが、なおさらに趣味の悪さを露呈していた。


 えた臭いと、間断なく続く呻き声。この狂った隠れ家の頂点に立っているのがライラであるという事実が、リュイリィを心の底から震わせる。


「見えたよ……、見つけた。でも、なんだよコレ」


 選民と呼ばれる人間虫けらたちを支配し、時には彼らと淫靡なまぐわいを持ちながら──、暴君として振る舞うライラは、見たこともないくらいに生き生きとしている。


 リュイリィは探索行為の副作用というわけではなく、窖の底で繰り広げられている行為のあまりの悍ましさに吐き気を覚えた。


「んー、そんなによっぽどなのか。直接見れねーってのはもどかしいもんだな」


 リュイリィは戸惑いながらも、ありのままをクロードに伝えた。当然、窖への入り口となる隠されたその場所も──。


 心も体も消耗し、ふらつくリュイリィの身体を支えるクロード。その胸中には、リュイリィの離れわざに感嘆する想いもあった。


「恩に着るよ。ちっちゃいのにでっかい貸しが出来たな」

「……ふん。ただ働きで良いって言っただろ」

「そういうわけにはいかねーよ」


 クロードはリュイリィを優しく横たわらせると、懐から飾り気のない小瓶を取り出した。瓶の中に溜められた霊水エーテルと呼ばれる液体を、ゆっくりとリュイリィに嚥下させる。魔力の結晶を伝うことで濾過ろかされた霊水エーテルには、微弱ながら失った魔力を充足する効果があるとされていた。


「クロードは、ライラを止めに行くの?」

「さてね。どうしようか」


 意地悪く微笑むクロードに、「ボクなら止めるよ」とリュイリィは断言した。これといった理屈や正義感があるわけではない。ただただ自身が感じた嫌悪感のままに、素直に吐露された言葉である。


 しばし考え込むような仕草を見せるクロードだったが、やがて一つの質問をリュイリィへと投げかけた。


「なぁ、ちっちゃいの。ウィヌシュカならあれを止めると思うか?」


 止めるに決まっている。リュイリィは微塵の疑いもなくそう考えた。クロードの問いかけには、闇よりも深い悪意と熟慮が込められていたが、この時のリュイリィには、当然気付くべくもない。


 たとえカタチが狂ってしまっていても、ライラが体現しているものはウィヌシュカが望む未来の片鱗なのだ。万年氷壁ヴァニラ崩壊ののちに、リュイリィはそれを知って絶望することになる。




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