寿司職人




 頭がおかしいと思われるかもしれないが私には悩みがある。


 もしも世界中の人間が寿司職人だったら、という妄想に取り憑かれてしまったのだ。


 おかげで日常生活もままならなくなってしまった。ふとした瞬間に突然その妄想が膨らみ始めると私の身体は恐怖に震えてパニックのような状態になってしまうのだ。


 そう、例えば新聞配達人が寿司職人だったとしたらどうだろう?


 朝、新聞受けがカタンと音を鳴らし、寝起きのぼうっとした頭のまま玄関に向かってみるとそこには散乱したコハダやイクラ軍艦の姿がある。


 考えただけで恐ろしいとは思わないか?


 怯えた私はそれらを片付けること無く逃げるように妻が朝ごはんの支度をしているキッチンに向かう。


 ところが迎えてくれたのはエプロン姿の優しい妻ではなく、角刈り板前姿の真顔の彼女であり、目の前に出されたのはトーストや目玉焼きではなく、〆鯖の握りやマグロの漬け握りであった。


 ほら、想像するだけで背筋が寒くなる。


 その場を逃げ出した私はパジャマ姿のまま家の外に飛び出す。


 通勤通学途中と見られる通行人たちが一斉にこちらを振り返る。


 恐怖に歪んだ顔をしたパジャマ姿の男。しかし奇妙なのは私の方ではない。


 老若男女、あらゆる通行人が板前姿なのだ。


 彼らは一斉に私の方ににじり寄って来る。


 手にはもちろん寿司。握りながら彼らは私を取り囲む。


 逃げ場など無い。辺りに充満した酢飯の匂い。私は動けない。


 腰を抜かした私に彼らは次々と寿司を差し出す。


 マグロ、イカ、サーモン、かっぱ巻き、タコ、穴子、えんがわ、えび、ほっき貝……。


 次々と置かれる寿司に私は絶叫するだろう。


 次第に私の思考は回転を始める。まるで回転寿司のように。


 ぐるぐる回る私の意識と寿司が世界を握っていく……。





 ハッと私は我に返った。


 寿司職人の姿はどこにもなかった。


 ただ僅かに残るわさびの残り香が私の身体を再び震わせた。






               (了)






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