心
「落としましたよ、こころ」
突然後ろからそんな声を掛けられたのは友達との待ち合わせ場所に向かって歩いている時だった。驚いた私が振り返るとそこには見覚えのない若い女の子が立っていた。
長い黒髪が印象的なアジアンビューティーといった感じの人だった。彼女が差し出している右手は手のひらが上の方を向いていて、まるで何かを乗せている風だったが、実際はそこに何も見えはしなかった。
「あ、あの、なんでしょう?」
戸惑った私が何とかそれだけ答えると彼女はちょっと不思議そうな顔でこう答えた。
「えっ、だからこれ落としましたよ。あなたのでしょ? こころ」
こころ、確かに彼女はそう言った。「こころ」ってあれか、「心」のことか? 目に見えない何かを差し出して「こころ」という彼女。関わると厄介なことになりそうだと思った。
「えっと、私のではないですよ。あの、急いでいるのでこれで」
出来るだけ相手を刺激しないようにそう答えて私は踵を返した。背中に向かって彼女は二言三言何かを言っていたような気がするが、私は振り返らず逃げるようにその場を後にした。
それから私の苦悩は始まった。
まず最初の異変に気づいたのはその日友達と映画を見た時だった。評判がよく実績のある監督の最新作ということですごく期待して行った作品だったのになぜかひどくつまらなかったのだ。
映画館を出て歩いている時、一緒にそれを見た友達は大興奮で映像美の素晴らしさやストーリーの意外性について熱く語っていたが、私は同じ作品を見たとは思えないほど冷めた気分だった。
そんな私の様子に気付いて彼は私が映画の間ずっと寝ていたのではないかと勘違いし折角誘ったのにと怒り始めた。それでも私は特に何も思わずじっと彼の怒鳴り声を聞くだけだった。
それからは酷かった。私は笑うことも泣くことも怒ることも出来なくなった。何を見ても「ふーん」としか思えず些細な感動すら覚えなくなってしまったのだ。
つまらない一日、つまらない一週間、つまらない人生。
そんな私と一緒にいると他の人間もつまらなくなってしまうようで映画を一緒に見た彼を含めて友達だと思っていた人間はみんな次第に私から離れていった。
孤独。本来なら悲しんだり焦ったりすべきなのだろう。それでも私は何も感じずただ黙々と毎日を送るだけだった。
そんなある日のことだ。私は街で偶然あの女の子を見かけた。当然の如く、何も感じなかったが不思議なことに私の心臓はトクンと少しだけ反応を見せた。その鼓動に操られ私は彼女の後を追いかけ声を掛けた。
「すいません」
「えっ?」
「以前お会いしたのですが覚えていますか? 心を落とさなかったかとあなたに声を掛けられました」
私がそう言うとようやく彼女は思い出したようだった。
「ああ! あの時の」
「やはりあれは私の心だったようなのです。あの後、あの心はどこに?」
「そうだったんですか。もう警察に届けてしまったんです。すいません」
「警察に? そうですか。ありがとう。行ってみます」
「すいません。お力になれなくて」
「いえ、こちらこそあの時は失礼しました。では」
私はお決まりの挨拶もそこそこに、あの時と同じように踵を返し警察署に向かった。
そしてわかったことはすでに遺失物の保管期間を過ぎていたために私の心が処分されたという事実だった。個人情報保護の観点から持ち主のわからない心は中身を確認せず処分するのだという。それを聞いても私は特に残念がることもなく淡々とそれを受け入れた。
こうして私は自分の心を取り戻す機会を永遠に失った。
そして数十年という年月が過ぎた。
老人といえる歳になった私はひとりで散歩中にあるフリーマーケットに出くわした。何か買いたいものがあったわけでもないし興味があったわけでもない。
それでも私は何かに導かれるようにそこに入っていった。
たくさん並んでいる品物も自分にとっては全てがガラクタでしか無かったが、ある出品者の前で私の足は自然と止まった。言葉では上手く表現できないそれは、それでも確かに私の足元に存在していた。
「……これは幾らかね?」
「ああ、それですか? そうだな、二千円でどうです?」
「頂くよ」
私は財布から千円札を二枚取り出して彼に渡した。もし私が結婚して子供が出来ていればこのくらいの孫が居てもおかしくはなかっただろう。ビニール袋にそれを入れようとした彼を制し、私は両手でそっとそれを持ち上げた。
誰かの心。
私の中に何かが流れ込んできた。懐かしい、それでいて私の知らないものが。
喜び、恋、悲しみ、結婚、寂しさ、子供、怒り、別れ……。
誰かの思い出。誰かの心。
でもそれは私にとっても大事なものを呼び起こしてくれた。
知らない誰かの心を抱きしめて嗚咽する年寄りをフリマの人たちはさぞ不思議そうに見たことだろう。
それでも私はあの日落とした自分と再会出来た気がして込み上げる感情を抑えることができなかった。
(了)
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