楽園の覇者【前】
アインがイシュタルに劣らず磨き上げられた双眸でセラを見つめる。彼女は楽しげで、嬉しそうに微笑んで自分の頬にできた切り傷を撫でた。
満足した様子で、傷口から垂れた血を舌で舐めて。
「ああ」
と、悪戯っ子のように笑って「お主の言う通りじゃ」と頷いて見せたのだ。
「儂を恨むか? どうせならもっと強く、もっと希少な力を与えて欲しかったと」
応えは決まっている。いいえだ。
言葉より早く首を横に振ったアイン。
彼は慌ててセラと距離を取るが、もう遅い。
頭上から降り注ぐ眩い光芒――――地面から、そして何もない宙もまた殺される。
光芒の中は色を失い、存在全ての生きる権利を奪い去った。
「受け止めて見て尚、お主は立っていられるであろうか」
セラの言葉に応じて光芒が天を穿つ。
プリンセス・オリビアが誇る主砲『聖女の慈悲』より遥かに暴力的に、包み込まれたアインにだけ襲い掛かった。
それこそ、アインが放つ力より遥かに強大だが。
「――――…………ッ!」
「やはり、それはもう効かぬか」
アインの身体は、無傷。
衝撃破は怖れを抱かせるだけの威力があったものの、それだけだ。
自身の肌が焼け爛れることもない。
光芒に包み込まれているだけのアインに対し、セラは仕方なそうに笑って見せた。
やがて、それが収まったところで。
「戦える」
アインはよどみなく言い放った。
しかし一つだけ懸念がある。
(あの日、見せつけられた糸をまだ使われていない)
竜人セラにとって、アインの毒素分解EXのように生まれながらに持っていた力である。これは彼女自身が言っていたことだが、あの時に感じた不穏な気配は忘れたことがない。
だが今は素直に喜びたかった。
「マルクよ」
「俺はアインです」
「いいや、儂にとってお主はマルクじゃ。そして、お主のために契約を交わした二人もまた同じ考えしか抱けぬであろうよ」
「マルクという男を軽んじるつもりはありません。けど、今の俺はアインなんです」
するとセラは強情なアインの態度にため息を漏らしてから鎌を持ち直した。
「儂はあの二人から、魂の一部を受け取った」
「…………一部を?」
「勇者の力を使いすぎて死したお主を呼び戻すためにな。普通であればそんなことは出来ん。たとえ神族であろうとだ。じゃが、儂の力があればそれができる」
「セラさ――――ッ!?」
不意に背後から聞こえた息遣い。
時を同じくして、鎌がアインの首筋に肉薄する。
「くっ……!」
「ほう! これも反応するか!」
まばたき一瞬でも遅れていたらどうなっていたか。
つづくセラの立ち回りは、速さに歯止めが掛からない。
「儂とお主の縁だけでは足りんかった。お主をこのイシュタル諸島の者として呼び出すためには、お主と近い血を引いた者が必要じゃったッ!」
「な……にをッ!」
「お主の魔石にお主を戻すために、あの二人の力を借りたのよッ! ゆえに儂はあの二人の願いを叶えたッ!」
攻撃に苛烈さが増した。
二人の間に火花が散って、空気を裂くかまいたちが舞う。
徐々に、少しずつアインの頬に切り傷が生じる。
もう目で追うことで精いっぱいなのだ。
(速いだけじゃない――――ッ!)
威力も当然、ヴェルグクの剛腕のそれに近かった。
「そして世界の壁を越えて戻ったお主を、オリビアと言う少女が受け入れた――――!」
ヴェルグクの剛腕に近い威力と、それを越す速度が合わさる。
ただ、今のアインも数日前とは違う。
巨神ヴェルグクの力を吸っているし、心持ちの違いもあり覇気がある。立ち位置としては挑戦者であろう。思えば、こうした立場で力を振るうのは久しぶりな気がしていた。
(はぁ……はぁ……ッ!)
耐えきった。耐えきることが出来た。
地面がひび割れるほどの衝撃波が二人を中心に世界を包んだ後、アインはキッとセラの事を見つめ返した。
まだ、戦える。
それどころか勝機も失っていない。
アインは強い手ごたえを感じた。
「認める気になったかの、マルク」
「いいえ……何度でも言いますけど、俺はアインです」
「しっかし強情な……何が気に入らんのじゃ?」
「俺だって自分が頑固なのは分かってます……けど、マルクという名の男として貴女の前に立ってしまうと、この戦いの意味が変わってしまう。お爺様のために戦っている俺は、アインとして貴女に勝たなきゃいけないんです」
アインは決して、マルクと呼ばれることに強い忌避感を抱いているわけではない。
仮に忌避感を持っているとすれば、カインやシルビアたちに対しての態度が嘘になってしまうのがその証拠だ。
「――――ふむ」
セラのローブから覗く白い腕に現れた、深紅の紋様。
紅く瞬いて、首筋、そして足先へと広がった。
「少しだけ気が変わった」
同時に彼女が纏う気配も変わった。
明確な殺意を向けられているわけではないものの、気配そのものが殺意を放つような、自然と畏怖を抱かせて止まない強さに満ち溢れている。
「アインと言う名の価値を否定しているわけではないが、お主が頑なにマルクと認めない姿勢が少し気に入らん。私は長きに渡りお主を待っていたというのに」
セラがはじめて、怒気に近い感情を垣間見せた。
それから彼女は手を伸ばして、さながらパーティ会場でエスコートをする紳士のように、上品に手のひらを掲げた。
アインが瞳の奥で感じた強い熱。
面前で構えるセラの瞳を見ていると、魂ごと焼き焦がされそうだった
まずい。
本能的に察したアイン。
「少しだけ、悲しみに似た感情を抱いてしまった」
彼女の掌に生じた紅炎。
それはダイヤモンドダストのように深紅の光塵を漂わせる。
もう、お終いとしよう。彼女は小さな声でつぶやいた後で、アインを見て口にするのだ。
「
――――と。
紅炎は彼女の声に応じて爆ぜた。
アインは見たこともないし実際にどうなるのか知らなかったが、仮に太陽が爆発したら、これぐらいの迫力と破壊力がありそうだと思った。
つまり、只事ではない。
炎波が自分にたどり着く前に木の根を重ねて壁を作った。だが、意味がない。一瞬で消滅した。
では幻想の手だ。一瞬のうちにそう決めたアインが幻想の手を何本も生み出す。自分の目の前を隙間なく埋めるように、今度は消滅しないように魔力を込めて。
「ッ……まだ……足りて……ッ!」
木の根よりは耐えたと言ったところで大差はない。
けど、その少しの差に価値がある。
間を置かず何本も、最初の倍以上の幻想の手を生み出して、セラの力に対抗する。
「儂にはあだ名があった。称号と言ってもよい」
熱で歪んだ世界の外側から声が遠く。
「たった一つだけの、不名誉で気に入らん称号がな」
「くぅ……ッ! 称号が……称号が何だって言うんですかァッ!」
常人であればすでに蒸発している空間の中で、アインは必死になって耐えつづけた。
呼吸をすれば肺が焼けそうになり、目を開けているだけでも痛い。しかし炎波の終わりは近そうだと、その気配を悟れていたから堪えていたのだ。
「ただの気まぐれじゃよ。話したくなった……ただそれだけのことよ」
これは最後に、アインが耐えきったところで聞こえた声だ。
「――――え」
声がしたのは背後からで、無防備な背中に語り掛ける鈴の音のような声だった。
トンッ、と声の主がアインに背を預けた。
穏やかな衝撃に思わず顔だけ振り返ってみると。
(ああ)
なんて言葉にしたらいいんだろうか。
アインはそれ以外の想いを抱けず、心が折れかかった。
顔だけ振り返った時に、セラが
彼女は、セラは容赦なく振舞うばかりだ。
「楽園の覇者と、儂はそう呼ばれておった」
よくお似合いですよ、と苛立ちを込めて言いたいくらいだったろうか。
あんな攻撃を無防備な背後から食らったらどうなるのか、なんて考える必要はなかった。
アインはこの戦いの結末を知ってしまったのだ。
ついさっきまで勝機があると信じていたのに、もう少しも考えることができなかった。今考えられるのはシルヴァードへの申し訳なさくらいなものだ。
ふっ、とイシュタルを握る手から力が失われてしまう。
幻想の手から意識が消え去らなかったのは、それでも諦めきれない性格によるものだったが。
『――――――――ハァ……』
足元から聞こえたマンイーターの声に、思わずまばたきを繰り返した。
「お前ッ! 勝手に出てきて何――――ッ」
アインが言い終わるより先にマンイーターが動く。
勝手にアインの魔力を吸い。
勝手にアインより大きくなって。
勝手にアインを丸のみにしたのだ。
「お、おい! 今は邪魔するなって!?」
『ヒヒッ!』
口の中で叫ぶも、マンイーターは思いのほか丈夫だ。
と言うのも普段は絶対に吸わないほどの魔力を勝手に吸っているからで、その証拠に、アインは吸われた瞬間だけ強い頭痛に襲われている。
ふと、丸呑みされたアインに届いた灼熱。
マンイーターが吹き飛ばされたのが分かった。
うめき声や、痛みに苛まれるような声は聞こえてこない。飲み込まれたアインに聞こえてくるのは、マンイーターが必死に呼吸を繰り返す音だけだ。
やがてアインは、水中で吐き出される。
自分で耐えていた際と違い、随分とあっさりとした時間だった。
「ッ……ぷはぁっ!? ここは!?」
直ぐに浮上して辺りを見渡すと、直ぐに気が付いた。
「湖まで吹き飛ばされていたのか――――ッ!」
さっと横を見ると、セラが解析中だという糸が纏わりついた例の石板が浮かんでいた。
何はともあれ、まだ戦える。身体が気だるくなるほどの魔力を持っていかれたが、マンイーターに感謝の一言でも言いたい。
しかし。
『ハァ……フゥ……』
少し遅れて浮上したマンイーターは、全身が焦げて痛々しい。
消耗したからか、身体も一本のバラの花くらいまで小さくなってしまっている。けど、アインが手を差し伸べたことで魔力が流れ、少しずつ瑞々しい葉を取り戻した。
「熱かっただろ……ごめん」
マンイーターは何も言わず、アインの手の甲を元気づけるように舐めた。
すると、そのまま姿を消してしまう。もう限界だったのだ。
アインは目を伏せ、自分の不甲斐なさを呪った。諦めきってはいなかったものの、勝つ事への気持ちを失いかけた自分を恥じた。
依然として勝機は見いだせていないが、気持ちで負けてどうすると声に出さず喝を入れた。
問題と言えば、これからどう動くべきかだが。
(どうしたもんか)
恥じるような戦いはしたくない。
身を挺して守ったマンイーターにも申し訳が立たない。
だが、セラは余力がありすぎるのだ。
「仕留めきるつもりだったのじゃが……」
離れたところで、こう呟けるだけの余裕があった。
であればあと何発撃てるかなんて考えない方がいい。それこそ、限界を聞いたら心が折れそうだ。
ただ耐えきれるか、という話だ。
(無理だ)
諦めるわけではないが、真っ向から受け止めて良い攻撃じゃない。
考えなしに根競べをしようものならば勝機は皆無だ。
(俺は挑戦者なんだ。根競べをする余裕なんて無い)
アインは海龍戦を思い出せと自戒した。
あの時は真っ向勝負に近い形から戦いがはじまったものの、幻想の手と吸収の力で、何とか戦いに持ち込めたのである。
もっと更に頭を使わなければいけないのだ。
さて、自分が持つスキルで総力戦というのが常道か。
(濃霧で足止めとか目くらまし……悪くないかも)
時間稼ぎ程度にはなると笑ってみたら、思いのほか活力が沸いた。
今は絶対攻撃のスキルもあるし、何か手段はあるはずと意識が傾いてくる。
とは言えセラに近づけるだろうか?
あの
(…………)
考えながら、惚けるように石板を見上げていた。
やはり石板には魔力が宿ってるようだ。だが魔石のように、吸収できる力の気配は全くしない。
けどアインは石板を見て、ハッとした面持ちで思いつく。
「――――やれるかもしれない」
消耗の激しい身体に鞭を打つように、幻想の手を生み出して石板にしがみついたのだった。
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