一日の終わり。
唖然とするディルを傍目に樽を開けたアインの視界に映ったのは、黒くドロッと粘着質な液体だ。
この液体を例えるならばタールだ。
液体は揺れると揺れに沿って、新緑を思わせる光を発していた。
「お? なんだその光りは」
ムートンもまた、はじめて見る光景だった。
するとディルが尋ねる。
「失礼ですが、加工途中にこのような現象は起こらなかったのですか?」
「おうよ!」
「それならばアイン様、警戒なさったほうが」
「いや、別にこれは大丈夫だよ」
「何を根拠に――ッ」
「さすがの俺もさ、自分の魔力ぐらい一目でわかるからね」
するとアインは樽の中に手を突っ込む。
何のためらいもなく、ムートンですら驚く迷いのなさだ。
「ほら、見てよ」
アインの手が液体に触れると、緑色の光は強さを増す。
液体そのものが光源と化したような光で、幻想の手が魔力を吸収したときのように、液体は穏やかな瞬きを見せる。
まるでじゃじゃ馬だ、アインはこう呟いてニヤリとほくそ笑む。
「コイツはさ、俺に許可を得ることなく魔力を吸収してるんだ」
黒い液体は言葉にたがわぬ吸収力で、常人が保有できるだけの魔力をとうに吸い尽くしている。アインだから平然としていられる。アインだから「じゃじゃ馬だ」と軽口を叩けた。
液体による吸収は一向に収まる気配がない。
「誰かに、力づくで言うことを聞かせたことなんてあったかなー……」
呑気に言ったアインの腕に、太く隆起した血管が浮かぶ。
すぅっ――と大きく息を吸って、声に覇気を入り混じらせて言う。
「でもな。無価値な戦いは避けるべきだって、そう思わないか?」
アインは敢えて魔力を流す。
液体が吸う、その数倍をゆうに超す量をあっさりと流した。
当然ながらまだまだ余力はあるし、ケロッとした顔だ。
樽の中はすでに、人の身には多すぎる量の魔力で充満している。
液体は少しずつ、少しずつ光を沈めていく。
「……うん、そうしてくれると助かる」
十数秒も経つと強烈な光は治まった。
穏やかに、あくまでもここにいると存在を主張する程度に落ち着いて見せる。
様子を見守っていたディルがため息を吐く。
「随分と強気な素材のようですが」
「何せ元は黒龍だしね」
「しかし解せません。マルコ殿の抜け殻……と言えばよいのでしょうか。そちらも利用されているはずなのに、なぜこのようなことに?」
「俺に反発する黒龍の性質と、俺に従ってくれるマルコの性質。いい感じに入り混じってたと思うよ」
くすっと笑い、アインは樽の中から手を抜いた。
液体は少しも付着していない。
「従うべき相手を定めたらもう大丈夫。それだけの忠誠心は見せてくれるはずだから」
アインが口にしたように、液体の様子は先ほどと打って変わって静かなものだった。
「ムートンさん」
「お、おう! なんだ!」
「イシュタルを預けようと思うんですが、加工するのにどれぐらいかかりますか?」
「……分かんねえ! その液体を作るのに一年以上かかったからな! はっきり言って、手探り状態って感じだわな!」
「さすがししょー! もう状況が把握できてたんですね!」
「なーっはっはっはッ! だろぉー!?」
あっけらかんと言ったものの、結論は変わらず未定ということだ。
すると、長期間にわたって、イシュタルを手放すことになる可能性がある。
これについては、すぐに頷ける選択肢ではない。
「液体に漬けてみようかな?」
「ア、アイン様……それはさすがに短絡的では……」
ディルの苦言はもっともで、アインは肩をすくませた。
だが。
「お! いいじゃねえか!」
対称的にムートンは乗り気だ。
ほらほら! 手を振ってアインにイシュタルを付けるよう促す。
「ささ、殿下! ぐいっと勢いよくどうぞ! ししょーもそう言ってるんで!」
「……あの、本気ですか?」
「がーっはっはっはッ! 余の中な、やってみなきゃわかんねえことだらけだからな!」
ようは物は試しと言うわけで。
「まあ別に損はないか」
アインもまた乗ることにした。
腰に携えていたイシュタルを抜き去ると、刀身の様子を確認して頷く。
樽の上で構え、下に向けてゆっくりと降ろした。
すると。
(嘘でしょ)
先端が液体に触れた刹那、液体はまとわりついて刀身を覆った。
間もなく、柄を含む全体が覆われる。
柄からは不規則な脈動がアインに伝わった。
まとわりついた液体は固形化していき、全体の大きさが変わる。
以前のアインの身体に合わせて作られたイシュタルが、今のアインの身体にあう
一分も経たぬうちに、イシュタルは新たな身体を得た。
完成しきったとき――樽にあったはずの液体のすべてがそこに無い。
すべて同化したことの証明だろう。
「……すごい」
アインは新たなイシュタルを横に構えて眺めた。
以前のように血管を思わせる筋はなく、表面は磨かれた鏡のように滑らかだ。
色は漆黒で変わらないが、剣そのものが大きくなったことで威圧感が増している。柄もより長く、全体的に大きくなったイシュタルはアインの体格に合う。
「さて、と」
ムートンが呆気にとられながら口を開いた。
「この前の、貰ってた海龍の素材のあまりで鞘でも作ってやるよ。悪いがその剣は持ってってくれや。俺にゃ扱えるような代物じゃなさそうだ」
「そうっすねー……数日中に私がお城に持っていくんで、少々お待ちくださればと!」
二人の言葉に頷くと、アインはディルを連れてムートンの工房をあとにした。
◇ ◇ ◇ ◇
王太子殿下が剣を担いで帰城したぞッ! なんて、騒ぎになることが無いのがイシュタリカだ。
というより、これまでのアインの行いもあり、その程度で騒ぎになるような騎士や、城勤めの給仕たちは存在していない。
城に戻ったアインはディルと別れた後、自室に戻る途中だ。
いつものように階段を上り、自室がある階層へと向かっていた途中のこと。
「……おお、帰った……の……だな……アイン……」
見つかってはいけなかった。
城内を歩いていたシルヴァードと邂逅し、アインは無意識に一歩下がり、更に二歩下がった。
一方のシルヴァードが満面の笑みを浮かべ距離を詰める。
「アイン」
「お、お爺様……今日も執務で大変だったようですね……?」
「大したことは無い。そんなことより、だ」
ついに彼の手がアインの肩を握りしめる。
ぐっと力強くて、逃がすまいという強い意志がアインに伝わった。
「余はいくつかの問いを考えておる」
それを当ててみよ、シルヴァードが言う。
「今朝の報告のことでしょうか? 例の無人島での件ですよね?」
「ふむ、それも間違いではないが。あと一つあるのだが」
「カティマさんの進捗の件ですね!?」
「なるほど、そう思ったのだな」
二人が沈黙を交わして数秒、シルヴァードの拳がアインの頭蓋に落ちる。
「ッ――い、痛いッ!?」
「王太子が抜き身の剣を持って城内を歩くとは……何を考えておるのだッ!」
当然のことでアインが言い逃れる余地もない。
アインは頭をさすり、ですよね……と苦笑した。
「でも理由があってですね!」
「ならば逃れようとせず、その理由を先に述べればよかったであろうに……まったく、そうした部分はカティマに似てほしくなったものだ」
それからアインは居住まいを正し、ムートンの工房での出来事を語った。
静かに耳を傾けていたシルヴァードも、それなら仕方ないと認める。訓練場などに置いてこなかった理由に正当性がある。
「ところで、お爺様はどうしてここに?」
「ああ……実は先ほどまで上に居たのだが、余は余の自室から追い出されてしまったのだ」
「……はい?」
「お婆様と喧嘩したんですか?」
「馬鹿なことを申すな。余はララルアに言い合いで勝ったことなんてないぞ」
そんな切ないことは言わないでくれ、アインは頬を引きつらせる。
「城下から御用職人が来てな」
「えっ、もう夜も遅いですよ?」
「正しくは、来てから数時間が経過してるというわけだ」
「あの……その御用職人って言うのは」
「服飾の職人だ。城の淑女たちが色めき立っていてな、理由は言わずとも分かるであろう?」
容易に想像がつく。カティマの婚儀に使うための衣装の相談だ。
城の淑女たちと言うと、四、五人と一匹が思いつく。
なるほど、彼女たちを相手にしては、シルヴァードは追い出されるような形で部屋を出たとしてもおかしくない。
「――たまには俺と甘い物でもどうでしょう」
これは決して慰めではない。
偶に祖父とこんな時間があってもいい! というアインの考えからだ。
しかし、シルヴァードは確かに慰めとして嬉しさを感じた。
「悪くないな……ウォーレンたちも呼んで、サロンで語らうとしよう」
「あ、それならついでに報告をしてもいいですか? 無人島でのことについてなんですが」
「よいぞ。面子も揃っておるし、肴がてら語ってくれ」
今日という日をまとめるなら。
イシュタリカと言う国は平和であり、城内の空気は相変わらず暖かく居心地がいい。
二人は肩を並べサロンへ向かい、男性だけの語らいを楽しんだのだった。
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