嫁に行く猫の苦労。

 リヴァイアサンに乗り王都に戻ったアイン。彼を迎えたのはいつも通りの王都の風景と、リヴァイアサンの帰港に気が付いた多くの臣民たちだ。



「んーっ」



 乗り換えた船から港に下りながら、アインは気持ち良さそうに声を漏らす。

 腕を頭の上で大きく伸ばし、背筋を弓なりに反らしている。

 空から降り注ぐ陽光と、裾を通り抜ける涼し気な海風が清々しい。



「何というか、久しぶりの達成感って気がするよ」



 アインは隣を歩くクリスに話しかけた。

 すると彼女は苦笑して。



「あ、あはは……それは何よりですけど……」


「――けど?」


「あの島はもう使い物にならないって、陛下たちに報告しないといけませんね……」


「やっぱり怒られるかな?」


「きっと大丈夫ですよ。陛下は今回の話を許可した段階で、島の惨状も想像の範疇にあったはずですし」



 とは言え目の当たりにしたクリスからすれば、ほぼ島の体を成していない跡をみてからは、困ったように笑うことは避けられなかった。



 しかし、困ったように笑う彼女は宝石のようだ。

 元より人目を集める容貌をしていたが、ここ最近は特に異性の視線を集めてしまう。

 自然と浮かぶ笑みはより華やかで、立ち居振る舞いは人懐っこく可憐だ。だがそれらすべては特定の人物、、、、、と居る時のことで、つまり今現在を意味している。



 白い肌はくすみ一つない。

 まばたきする度に長い睫毛が揺れ、蒼玉サファイアの瞳を彩っていた。

 シルクのような金髪からは甘い香りが漂う。



 以前と比べ、隣を歩くアインとの距離は更に近い。

 精神的な距離だけではなく、物理的な距離もだ。



 二人は手の甲がこすれ合うだけ近くて、



「あ、今日は馬車ですからね? この状況で歩いたら大変なことになるので」


「分かってるよ。リヴァイアサンで注目を集めちゃってるしね」



 くい、くいっ。

 彼女はアインが来たシャツの袖を掴んだ。

 それからすぐに腕を伸ばし、アインの肘に捕まるように歩いていた。……そう、ようやくそれが出来るようになっていた。



 エルフの恋愛は気が長いと誰かが言っていた。

 ただ、クリスの場合は将来の性格が要因だろうか。

 仲は依然と比べ遥かに進展しているが、のんびり、、、、な速度と言われると否定できない。



 以前に比べるとやきもきしないが、近しい者たちからするともう一押しが欲しかった。




 ◇ ◇ ◇




 城に戻ってすぐのこと。

 クリスは用事があると言って席を外す。

 恐らく彼女は、今日の報告書を書きに行ったのだろう。アインもまたそれをする必要はあるが、クリスと事情が違って、シルヴァードに直接報告する必要がある。



 だが今はシルヴァードが執務中。

 この時間を何に使おうか? すぐにその疑問は解決した。



「……ちゃんと勉強してるか見に行こう」



 と呟いて城内を歩く。

 目指す先は城の上層階――王族の部屋が設けられた階層だ。

 もう慣れたが、城は本当に大きくて上り下りするだけでも一苦労。

 幼い日はそれだけで運動になっていたもんだと思い出す。



 数分歩いたアインがたどり着いた先は、アインの部屋もある階層の執務室だ。

 コン、コン。軽くノックをすると中から「誰だニャッ!?」と慌てた声が響く。



「俺だけど。入っても大丈夫?」


『アインかニャ!? お父様が居ないなら入っても大丈夫だニャッ!』


「……なんでさ」



 戸惑いつつ扉に手を掛ける。

 執務室の中では、カティマが書類の束に挟まれて机に突っ伏していた。



「アイン―……助けて欲しいのニャー……」


「うわぁ、何その紙の山」


「右半分がお父様から来たものだニャ……で、左半分がウォーレンからなのニャ……」


「なるほど、逆らったらだめな二人組だ」



 アインはそう言って机に近づくと、紙の山から一枚を手に取る。



「『降嫁にあたっての権限、王位継承権――』」


「そんなのちゃんと理解してるのニャ! なーんで似たような文言がつづく資料ばっかりあるのニャ!?」


「や、事例によって話が変わるとかなんじゃないの?」


「その通りなのニャ! まったく! まったくまったくだニャッ!」



 バン! バンッ! カティマは両手の肉球で机をたたく。

 口を開けて牙を露出し、ヒゲを真っすぐ伸ばして頭を左右に振る。



「推奨はしないけど、読んだってことにしておくのは」


「馬鹿言うんじゃないニャ!? お父様は私がそれをする可能性を見越して、数週間後、しっかり理解しているか試験をするって言ったのニャッ!」


「方向性は置いといて、信用はされてるみたいだ。でも、俺が手伝えることってないじゃんそれ」


「く……くぅ……! なんたる事態だニャ……!」


「でもさ、左右の山を終わらせればいいんなら、カティマさんなら割とすぐ終わると思うんだけど」


「当たり前だニャ! この私を舐めるんじゃないニャッ!?」


「なんて情緒不安定な……」



 だったら何が問題なのか。

 疑問符を浮かべたアインへと、カティマは遠くを見るような目を見せた。

 燃え尽きたように、表情すら力がない。



「私の後ろ、見てみるといいニャ」



 アインが机の後ろに向かうと。



「机の上の資料なんて目じゃないニャ?」



 そこにあったのは、木箱数箱に詰め込まれた資料の数々。

 紙の束と、何十冊もの本の山だ。



「これはひどい」


「フニャァァアアアアアアアーッ!」



 カティマは毛皮を掻きむしろ虚空を威嚇した。



「数週間で覚える量じゃないね」


「代わりに公務を全部免除なのニャ! これは陰謀の香りを感じるのニャ!?」


「いや、陰謀も何もないと思うよ?」



 それにしても、なんて量だろう。

 机の上と木箱の中、努力家のアインも気が滅入る量だ。

 アインはどうしようもないと窓の外を見る。



「二人とも、カティマさんにひどい量の課題を渡したもんだよ」


「……二人じゃないニャ」


「え? お爺様とウォーレンさんじゃないの?」


「違うニャ! その馬鹿みたいに資料だらけの木箱は別人が持ってきたのニャ!」



 なんと厳しい人もいたもんだ。



「誰がこんなに資料を?」


「おーまえの婚約者だニャァァァアアアアッ!」



 ……なるほど。

 頷いてからアインは振り返る。

 先程の言葉を撤回しよう。

 笑みを浮かべて口を開いた。



「よく考えてみたら、このぐらいの課題は仕方ないよね」



 ひどい量の課題、この言葉を撤回しよう。

 アインがカティマの味方ではなくなった瞬間だ。



「な、なんで男だニャ……!?」


「――とまぁ、冗談交じりの会話はこのぐらいにしとこう」



 アインがソファに腰を下ろす。

 すると、カティマが軽く息を吐いて言う。



「まぁ、一応これで二週目なんだけどニャ」


「早くない?」


「当たり前だニャ。これも王族の義務――そんなことは分かってるしニャ」


「じゃあ、試験も大丈夫そうだね」


「三週ぐらいすれば問題ないかもニャ。グレイシャー家も慌ただしいし、私が遊んでるわけにもいかないしニャ」


「なんか久しぶりに、殊勝なカティマさんを見た気がするよ」


「殊勝にもなるニャー。第一王女が降嫁、それに大公家も誕生するわけだしニャ」



 カティマの婚姻について言うと、新たに家を興すのではなく嫁入りだ。

 グレイシャー公爵家は子に恵まれていない。

 跡取りがディルしかおらず、イシュタリカとしても、グレイシャー家の跡取りが居なくなることは好ましくない。



 結果的にカティマが嫁入りすることに加えて、爵位の格上げだ。

 これまで大公という位はイシュタリカに存在していなかった。

 だが、第一王女が降嫁することに加え、ディルがこれまで打ち立てた功績もあって、いくつかの議を通過して決定されている。



 だがディルとカティマの住まいに関しては、新たに屋敷が建てられる予定だ。



「我ながらすごい身分だったみたいだニャ」



 そりゃ第一王女だから当然だ。

 何を言ってるんだお前は、アインはカティマを見て頬を引きつらせた。



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