ティグルの到着。

 アインが帰宅して三日目の今朝。彼女はベッドの上で身体を伸ばし、ネグリジェを脱いで着替えだす。

 そのままの足でカーテンを開けると、まだ薄暗い外に季節の移り変わりを感じた。



 クローネは睡眠時間はきちんと確保する女性。

 仕事に追われ徹夜つづきの日もあるが、これらの日を抜かしたときのことだ。

 ……しかし、今日はいつもと比べて半刻ほど起床が早い。



 ――いつもと比べ、半刻早く起きたのは理由がある。クリスという女性にした宣言が最たる理由だ。



 何のことかと言えば、身だしなみを整えるためであり、『アインの一番』で居たいがための時間。

 普段、手を抜いているわけでもない。それどころか、日ごろの髪や肌の手入れなど――これらすべてが常に本気だ。それでもクローネは更に気合を入れ、いつも以上に可愛く思ってほしいという願望を曝け出す。



 櫛を持つ手の感触もどこか敏感で、髪の毛の流れに納得がいかず、思わず予定より長く時間を使ってしまう。



「……うん。これでいい……かしら」



 身だしなみを整えるついでに、彼女は腰に手をあてた。

 浅はかの一言が思い浮かぶなか、クローネは約1cmほど、いつもより短くスカートを留める。ただ、こんなことでの視線を奪えるのなら、実のところ内心で否定的なことはない。



 気持ちを自覚し宣言したクリス強敵を思えば、これぐらいでいい気もした。

 クリスとアインの奪い合いをするわけじゃなくとも、宣言通り、アインの一番で居たい気持ちと独占欲は変わらないのだから――。



「さてと、そろそろ行かないと」



 ドレッサーの前から立ち上がると、部屋を出て向かう先は執務室。今日はクローネ個人の執務室ではなく、領主アインも使う大きい方の執務室だ。

 想い人であるが、アインは同時に仕える相手とあって、彼女もその相手より後に執務室に向かうのは良い気がしない。



 そうこうしていると、朝一でアインに会えるということで自然と頬も緩む。

 仕事だろうが、一緒に居られることがなにより重要だった。

 今日も仕事を頑張ろう。そう思い、踊りだしそうな軽い足取りのまま、執務室へと足を運んだのだが――。



「……アイン?」


「あれ、クローネ? 早かったね」



 執務室にいたアインは、面食らった様子のクローネに笑みを向けた。



「アインの方が早いじゃない……もう、部下より早く起きてくるなんて、どういうつもり?」


「いやいやいや、別に今日に限ったことじゃないと思うけど……溜まってた仕事もあるし、今日は早起きしただけだよ」



 クローネがアインの机に目を向けると、確かに紙の束は格段に減っている。

 自身が確認済みといえど、アインが仕事に精を出していたことは容易に理解できた。



「無理しないでいいって言ったのに。帰って来たばかりなんだから」


「……多分、今のうちに頑張っておかないと、来週が辛いと思うんだ。そう思わない?」


「それならそれで、終わるまで手伝ってあげるから心配しないでいいのに」


「頼りにしてるけど、無駄にため込むよりは健康的でしょ?」


「もう。なら、昨晩のうちに教えてくれれば良かったのに……」



 教えてもらえていたらもっと早く一緒に居られた。

 クローネが可愛らしく不貞腐れると、アインの頬に軽く唇を当てた後に、すぐ傍の椅子に腰かける。



「どこまで終わったの? 残りは手伝うわ」


「あぁ、いや。俺の分の仕事はもう終わってるんだよね。こっちに重ねてる紙は、朝一で届いたウォーレンさんから届いたものだよ」


「も、もう終わってたの? ――それと、ウォーレン様からのって?」



 クローネがアインの仕事の速さに驚いていると、彼は一枚の紙を手渡す。



「警備計画書。ティグルがマグナに到着してからの経路と、その道中の護衛体制もろもろが書かれてる」


「アインはもう全部読んだの?」


「うん。穴のないウォーレンさんらしい計画だった。おまけに、今回の祭りで期待できる経済効果と、必要経費の割合まで丁寧に付け加えてくれてたよ」



 紙に書かれた数字を眺め、クローネがそれらの試算に思わず唸った。

 脱帽した様子で、事細かな資料に笑みを浮かべる。



「さすがウォーレン様ね。まだまだ追い付けそうにないって、こんなにはっきり見せつけられるなんて」


「化かされないように気を付けないとね」


「ふふっ……そんなこと言ったらダメでしょ?」



 じゃれ合うように言い、以前、自ら「狐は化かすのが得意」と楽しそうに語ったウォーレンを思う。近頃は婆や――ベリアと共にいるのを騎士が見かけるらしく、密かにアインの耳にも届いていた。



「あ、祭りの話で一つ提案が合ったんだけど、いい?」


「えぇ、何かしら?」


「ティグルが泊る宿を選定しなきゃいけなかったんだけど、今、レオナードとバッツが泊ってるフォルス公爵家の屋敷でもいいかな?」


「大丈夫よ。二晩この町で過ごさなければいけないのだから、フォルス公爵邸だったら色々都合がいいもの」


「りょーかい。じゃ、そういうつもりで返事しとくよ」



 さらさらっと羽ペンを走らせ、アインがウォーレンへの返事をしたためた。



「それと、今日はギルドに行ってくる。イスト交易商会の話もだし、アルベロ男爵家の件もあるからさ」


「……私も一緒に行ってもいいかしら?」



 クローネの珍しい提案に、アインが作業の手を止めて彼女の目を見る。



「えっと……クローネがギルドに?」


「ダメ?」


「駄目じゃないけど、ギルドだよ……? 冒険者多いけど、大丈夫?」



 どこかズレた返しにクローネがため息をついた。

 その後、立ち上がった彼女は図太くもアインの膝の上に座り、



「バルトで分かれて調査してたとき、私だってギルドに行ってたんだけど?」


「言われてみればそうだけど……今になってわざわざ行かなくても――」


「じゃあ決まりね。私も行くわ」



 不思議といつもより積極的に見えたものの、アインは否定的なわけではない。

 ただ単に、クローネが行くほどの用事じゃないと言ったつもりなだけだ。しかし、これを言ってしまえば王太子が向かう必要もないのだが、アインらしさの一言で片付けられるのはいつもの話。



「あと、護衛に誰を……」


「先日のギルドの申し出もあるから、今日はいつもと趣向を変えていきましょうか」



 アインの膝の上で楽しげに言い、彼女は器用にアインの方へ身体を反転させる。



「先日の申し出って、イスト交易商会を祭りに噛ませてくれってやつ?」


「えぇ、そうよ。何か隠してる……とは思わないけど、今後のためにも、少し示威行為をしておきたいの」


「……威圧感でも出したいってことね、なるほど」



 知らなかったといえ、ギルドが推した商会とアルベロ男爵家に関係があったこと。

 何もなしに手打ちで済ませるには事が大きすぎることから、クローネの提案は決して悪くない。



「じゃあマルコを連れてくって感じかな」


「ううん、違うの。たまには全員連れて行動をって、ウォーレン様も仰ってたから――」




 ◇ ◇ ◇ ◇




 ――まるで戦争にでもいくのかと、そう思わせるような進行だったのは言うまでもない。

 天気がどんよりと暗かったことから、日中のシュトロム大通りでも一際目立つ結果となった。

 十数人の近衛騎士が前方と後方を歩き、その中央を、漆黒の甲冑に身を包んだ騎士たちが、アインとクローネの二人を護衛しながら進む。



 ……どこまでも異様且つ圧倒される気配を放ちつつ、一同が進むなか、クリスが苦笑しながら口を開けた。



「あ、あのー……これ、本当に大丈夫なんですよね?」



 前方後方を進む近衛騎士。

 その中央を進む、近衛騎士以上の精鋭――黒騎士の面々と、鎧の騎士マルコ。更に付け加えれば、近衛騎士団団長のクリスに、その隣に立つのは海龍討伐の英雄にして、ハイム戦争を終結させた王太子。



 例えば、この面々でエウロやロックダムでも落としたと言われれば、現国王シルヴァードは何も言わず信じるだろう。

 故にクリスが戸惑うのも当然で、やりすぎじゃないかと心配するのは無理もないのだ。



「大丈夫ですよ? というか、実は少し怒ってるので、これぐらいしたかったんです」


「……可愛らしく笑われましても……あれ? クローネさんが怒ってるのはどうしてなんですか?」


「経緯はどうあれ、下手をすれば敵戦力を誘致、、しかねない状況だったんです。セージ子爵の件があったので、アインが警戒してたから大丈夫でしたけど、何が起こるか分かりませんでしたから」



 故に繋がる示威行為。

 当然、内心では何か別の情報でも絞り出せれば……という希望がないわけでもない。ギルド長は経験や情報は豊富なはず、であるからこそ、今回の進行に意味があるのだ。



 言うなればまさに進軍。

 こうした状況だったからか、主君アインの近くでマルコが嬉しげだったのは当然で、



「アイン様。今の私でしたら、天にも届く一振りを放てそうです」


「あ……うん……それしちゃうと、みんなが怖がっちゃうからやめておいてね?」


「承知いたしました。では、その機会が参りましたら……どうかご命令を」



 アインは思う。マルコがここまで興奮してるのは珍しいと。いや、それどころか多少個性の崩壊に思えるほど、気分が高揚してるのはすぐに分かる。

 それからというもの、ギルドに着いてから、冒険者という荒くれ者たちが頬を引きつらせたのは印象深く残っている。ギルド長の関与はやはりなく、その可能性もないだろうとほぼ断定できたことから、結局、これからのための示威行為で終わってしまった。



 ――こうして、祭りまでの日程は慌ただしくも過ぎ去っていく。

 時には執務に追われ、またある時はオーガスト商会との折衝もありつつ、特に大きな騒ぎもなく、一週間という短い時間は充実したまま過ぎ去った。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 祭りの名目は単純明快。

 表向きは、ハイム王家の生き残りにして、ハイム自治領の長であるティグル――彼が歴史的な宝物を国王シルヴァードに献上するためのものである。

 本当の目的は「炙りだし」ということを知るのは、イシュタリカ中でも恐らく数十人ほどしか知らないはずだ。



 わざわざ祭りにするほどのことか? という疑問が民からでないわけでもなかったが、ハイム戦争が終結して間もないことも影響しているのだろうと、民の間でも違和感までにはなっていない。



「丁重に扱えよ。壊しでもしたら、我らの首程度では責任がとれんのだからな!」



 ティグルの護衛をしていた騎士の一人が言った。

 祭りはすでに日程が進み、とうとうアインが領主を務めるシュトロムに到着したばかり。到着は夕方。今日一晩ティグルはシュトロムで過ごし、明日は終日、アインと共に公務で街中をめぐる。



「荷はこのままオーガスト商会に預ける。これより王都への運び入れは、すべてオーガスト商会に一任される! 皆、予定通り警備に当たるように! いいな!」


「はっ!」



 その声をきっかけに貴族が分かれていく。

 座っていたティグルが一息つくと、すぐ傍に立つ騎士に声を掛けた。



「シュトロムの状況はどうだ? この祭りの最中のでいいから教えてくれ」


「はっ。取り立てて言うべき問題はございません。本日も、王太子殿下は街中での公務を行っていると聞いております。近衛騎士団長殿や黒騎士の方々が供をしており、補佐官殿と別かれて仕事にあたっているとのことです」


「そうか。それは何よりだ」



 後は、ティグルが馬車に乗りフォルス公爵邸へ向かうことで仕事が終わる。

 しかし、彼は護衛の騎士に時間をくれと口にした。



「グラーフ……いや、グラーフ殿もこの建物内にいるそうだ。一言挨拶に行きたいのだが」


「……ハイム公。申し訳ないのですが、我々の言葉だけではなんとも……」


「はぁ……あぁ、分かってたさ。言ってみただけだ」



 騎士が考えたのは、以前のティグルとアウグスト大公家の繋がり。

 今ではオーガストと家名を変えていようと、過去を消し去れたわけではない。



 当然か。自らをあざ笑うように笑みを零したティグルは、格式ばった服の襟元を指で緩めた。



「手洗いでも借りてくる。すぐに戻るから、それからフォルス公爵邸に向かう」


「お待ちください、護衛に騎士を――」


「まったく、馬鹿を言うな。オーガスト商会の建物は現状、アイン……殿下の屋敷の次に厳重な場所だろ。手洗いぐらい一人で行かせてくれ」


「……承知いたしました。では、我々はここでお待ち申し上げておりますので」


「あぁ、すぐに戻る」



 そう言ってティグルは部屋から出る。

 商会の建物といえど、長がアウグスト大公家の人間だったということもあり、内装は今は無きアウグスト大公邸の雰囲気を踏襲していた。

 つまり、貴族の屋敷と言っても過言ではなく、居心地の良さは格別で過ごしやすい。



 来客者用の化粧室に向かいながらも、ローブの男たちの動きが気になっていた。

 シュトロムに到着するまでの数日間は特に言うこともないが、このまま終わる方が良いのか、それとも小さな騒動でも起きて、対象を捕縛できたほうがいいのか。

 望むのは当然後者だが、先日のイストでの報告を聞いてからは、素直に動きがあるとは思えなかったのだ。



「……疲れた顔をしてるな。仕方ないか……これぐらいは」



 とはいえ、口に出さないが夜は友人と語らえると思えば、実のところ多少の疲れは消え去っていく。

 用を足した後に鏡を眺め、頬を軽くパンッ、と叩いて気合を入れる。



「あと数日だ。ヘリオンにも何か土産を買って帰らんといけないな……何を買うべきか」



 時には宝石もいいかもしれない。

 孤児出身の彼女は、ティグル専属の給仕として良い仲にあるが、出自が影響して控えめな節が目立った。

 偶には贅沢を言ってほしいものだったが、言わない彼女には強引に押し付けるぐらいがちょうどいい。



 それからは宣言通り、すぐに部屋へ戻ろうと化粧室を出て歩き出す。

 廊下に人っ子一人いないのは、今日が忙しくて人も多く出払っているからだ。



 ……しかし、しかしだ。

 ティグルは正直望んでいなかった再会が、廊下の曲がり角で発生してしまうのだ。



「ッ――すまん、ぼーっとしていたようだ」



 曲がり角で女性とぶつかりそうになり、ここまでヘリオンのことを考えて惚けていたことを謝罪する。

 普通なら話はこれで終わり――さっさと騎士と合流して、フォルス公爵邸に向かうはずだったのだが――。



「いえ、こちらこそ失礼……いたし――」



 ぶつかりそうになった彼女と目が合った。そして、その刹那だ。

 ティグルは片頬を引きつらせ、望んでいなかった再会に作り笑いを浮かべる余裕も失する。



「――お久しぶりです」


「あ、あぁ……久しぶりだな……」



 こうまでしどろもどろ、、、、、、になるのは久しい。

 むしろ、以前は強気に出ていたはずなのに、今ではどうしてここまで弱気なのか、その真相を神に尋ねたくなった。

 彼女はそんなティグルの様子に気が付いてか、小さくため息をついて言う。



「まるで人を魔物か何かと勘違いしてらっしゃいますか? そんな表情をしてらっしゃいますけど」


「ち……違う! 久しぶりで少し困惑しているだけなのだ……!」


「……かしこまりました。そういうことにしておきますね」



 未練はない。むしろ、あってはヘリオンに不義理だ。

 整理がつかないのは心の問題で、その整理というのも、あくまでもどういう顔で接すればいいのか分からないだけ。しかし、邂逅してしまってはもう遅く、ティグルも徐々に諦めていく。



クローネ、、、、……殿」


「えぇ、なんでしょうか?」


「……今思えば、そなたにも言うべき事があったな」



 取りあえず、以前は迷惑を掛けたと一言伝えたかった。

 こんな形で一対一の対話になるなんて考えたこともないが、ティグルは意を決して、目の前に立つクローネに言葉を投げかけた。


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