桜色の宝石。

 この指令書は自分が持つべきじゃない。そう思ったアインは、昔オリビアが指輪を破壊したときのように、ボロボロになるまでその羊皮紙を破壊する。そして最後は粉々となり、隙間風でスーッと散っていった。



「その、アイン様……ですよね?」



 壮絶な戦いの後、アインは倒れたマルコを看取っていた。

 ディルからしてみればどうして戦いになったのかも、そしてその後の流れすらも理解するには厳しい状況。



 そして佳境となった時、どうしてアインの身体が大きく成長したのか……それが疑問だった。



「うん。ディルが良く知ってるアインで間違いないよ」



 いつもなら少しばかり見下ろしていたはず。だが今はどうだ、逆にディルの方が見下ろされてしまっているではないか。

 それはたとえ数センチ程度の高さだろうとも、いつもと違った姿は、どうにも違和感を感じてしまう。



「髪の毛までそんなに伸びて、それに顔つきもなんというかその……大人びたというか」



 17,8歳ぐらいだろうか?

 アインが一気に、その年齢まで成長したように見えてならない。

 顔つき、体型……そして髪の長さ。多くの部分で変貌し、魔王城に着く前とは全く違った姿となっていた。



「戦いながらマルコさんの魔石を吸ってた。良く分からないけど、そのせいで大きくなったみたい」



 ……当然ながら、これも嘘だ。

 少なくとも先程のアインは、約束通り剣の強さだけでマルコと立ち会っていたのだから。

 だが自らの身体に起きた変化、それをディルに説明するのは後にしたい。



「話せば長くなるよ。だから王都に戻る途中で、ゆっくりと聞いてもらう。……それでいいかな?」


「……承知しました。今はそれで納得しておきます」



 多くの迷惑をかけながらも、こうして自分を信じてくれるディル。

 アインはディルと出会えてよかったと、自分たちを合わせてくれたロイドに感謝した。



「バルトに戻る前に、少し寄り道していこうかな」



 するべき事は終わり、確認すべきことは確認した。だがここまでくる機会なんてそうそうない、となればアインが最後に行きたい場所は……。



「まさかアイン様……例の毒の沼に」


「さっすがディル!そうそう、今からそこに行って……それから王都に帰ることにする!」



 先程までの姿とは違い、楽しいことを求めてやまない姿……そんなアインに戻っていた。

 ディルは疲れた顔をしながらも、アインの暴走じみた行動に付き合うことを決める。




 *




 マルコの説明によれば、10分も歩けば到着するとのことだった。

 日が昇り始めた頃。魔王城から、さらに奥を目指して進むアインにディル。



 多くの木々に囲まれながらも、時折枝を折ってでも進み続ける。

 足場は悪く、進むのに苦労してしまうが、それでも冬場の行軍と比べれば、数倍マシな道のりだった。



「お、見えてきた見えてきた」



 詳細な方角について尋ねておくべきだった。歩き始めた頃はそうした後悔もしてしまったが、少し探してみて見つからなければ諦めよう。そう決めて歩き続けた。



「あれが例の毒沼ですか?」



 不規則に生え続けていた多くの木々。その空間を抜けると、ようやく久しぶりの開けた土地にへとたどり着く。



「まぁあれだけ分かりやすければ、さすがにその毒沼だとは思うけど……」



 目の前に見えるのは、カイゼルが口にしたように数十m程の沼地。

 そしてその中央に見えるのは、霞んで全貌が見えない光る場所。



「この広がる液体は、すべて毒なのでしょうか……?」


「だと思うよ。ちょっと進んでみよっか?」



 ——おっとと……。



 大きくなった身体に慣れず、つい足をくじいてしまいそうになる。



「お気を付けてくださいねアイン様?」


「ごめんごめん……ちょっと歩くのまだ慣れてなくてさ」



 先程よりも気を使って、アインは目の前に広がる毒沼へと歩を進める。



 ……タールの様な何処までも濃い色に、ツヤめく液体。ただし色合いは青黒く、特別刺激臭の様なものは感じなかった。

 それどころか華やかで、まるでバラの芳香のようにその香りが広がっている。



「この香りで毒ですか……。これでは騙される動物や魔物もいそうですが」


「多分いないと思う。この周りにそんな足跡なんて無かったし、それに小さな虫だって姿を見せてないよ」



 その強烈なフェロモンのような香りは、自然界では相手を騙すのに有効だ。

 とはいえあくまでも毒の沼……そうした本能で生きている生物たちは、その凶悪な毒性に気が付いているのだろう。



「ですがこうまでいい香りですと、本当に毒なのか気になって仕方ありませんね」


「はは、確かにその通りかも」



 ディルの言葉に笑みを浮かべ、そしてそのまま沼の淵へと進んだアイン。



「でも、ほら……毒だったみたい」



 おもむろにその沼に手を当てると、アインが触れた部分を中心に、油に水を注ぐかのように円状に広がった。



「解毒されたかなこれ?」


「……できれば最初に一言欲しかったところですが」


「あー……ごめんなさい。反省してます」



 ぽりぽりと頭を掻き、申し訳なさそうにその言葉を口にする。



「沼っていうわりにはさ、結構浅いみたい。……真ん中の光ってるの見てくるから、待っててくれる?」


「えぇ……今のでアイン様の毒耐性を思い知りました。ですが魔物がいないとも限りませんので、そうした面ではご注意いただければと」


「ん。いざとなったらこの剣振って逃げてくるから、それじゃちょっと待っててね」



 そういえば銘を決めてなかったなと、少し後悔する。

 せっかくだからマルコに決めてほしかった、それが心残りだった。



「……あ、浅いどころかただの水たまりみたいなもんか」



 ゆっくりを足を進め、どのぐらいの深さなのかを調べるアイン。

 どこまでも色合いが濃いために、底が見えなかったので深さが分からなかった。



「さてさて……なにがあるのかなっと」



 一歩一歩、急に深くなっても大丈夫なように足をゆっくりと進める。その後ろでは、ディルが若干心配そうな顔でアインを見つめていた。



「ふんふふーん……」



 だが前を向いて歩くだけのアインは、その心配を知らずに鼻歌を口ずさむ始末。

 少しずつ近づく沼の中央、この少しの時間ももどかしさを感じさせる。



「(……まるで精霊の様な美しさがある)」



 心配していたディルだったが、アインの歩く姿を見てこうした感想を抱いていた。

 アインが歩くたびに、その足跡を中心に解毒された円が広がる。美しく伸びたオリビア譲りの髪が、この仕草と相まって幻想的に思えてならなかった。



「この霧……すごい濃い匂いがする」



 中央に近づくにつれて、その霧が徐々に濃くなりはじめた。

 そしてその香りを嗅ぐにつれて、アインは昔の事を思い返す。



「んーなんか嗅いだことあるような。どこでだっけ」



 どこかで覚えがある香り。自分にとって大切な時間だったはずだが、その香りについてまでは思い出せない。



「まぁいいや。とりあえず進めばわかるし」



 考えるよりも、歩けばそこに答えがある。そう思って、先ほどよりも足早に歩を進める。



「……見えてきた」



 霧の中をわけるように進むと、徐々にその光が強くなる。

 まるで"炎"のように煌くそれを正面に、あと数歩のところまで迫っていた。



「あれ。あの光って……」



 その輝き方にも見覚えがあったアインは、とうとうその光の下にたどり着いた。



「そっか。この花の香りだったんだ……だから嗅いだ記憶があった、そういうことか」



 沼の外から見ているディルには、そのアインの様子は窺えない。

 しかしその光にたどり着いたアインには、ついにその正体が露になっていた。



「桜色だけど……君って、"ブルーファイアローズ"だよね?」



 桜色に揺らめく炎、それを花びら一枚一枚に宿らせて、穏やかなリズムで光り続ける。

 顔を近づけてみると、その姿は明らかにブルーファイアローズにしか見えなかった。



「毒も持ってるし……間違いないか」



 だが果たしてこう呼んでいいのだろうか。

 全く青くないというのに、ブルーファイアローズと呼ぶのは如何なものか。



「……抜けないな」



 その地から抜いて、毒を抜き去ってみよう。そう思ったのだが、どんなに強く引っ張っても抜ける気配がない。



「根っこ張りすぎでしょっ……!いやそれでも、この固さは……っ」



 ついには両手で抑えて引っ張り続けるが。それでもこのブルーファイアローズは抜ける気配がない。



「どんだけ根っこ伸ばしてるんだよお前……そんなに伸ばす程の大きさじゃないだろ……」



 しばらくそうしてみたが、どうにも抜ける気配がない。

 自分の歩いてきた沼地を見て、どこまで根を伸ばしたのかと不思議に思う。



「あのさ、お前もしかして……この沼地全部根っことか言わないよね?」



 通常のブルーファイアローズなら考えられない程の毒の量。それが更に液体となって沼を作っているのだから、もはやただ事ではない。

 確実に変異主なこのバラを見て、アインはそうした仮定をした。



 ——そして根元の部分へと指をあてて、毒を分解させてみる。



「……どうかな?」



 周囲の毒がどうなってるのかは分からなかったが、そうして少しの間毒を分解し続けてみた。

 ……すると霧が薄くなってきたようで、外にいるディルの姿が見えてくる。



「アイン様っー!一体何をなさっているのですかー!」


「毒を分解してみてる!ちょっと待ってて!」



 ディルからもアインの姿が確認できたようで、二人は数分ぶりに声を交わす。



「毒沼が小さくなっていってるのですが、アイン様のお力だったんですねっ!」



 ——当たりだ。



 アインは小さくほくそ笑み、自分の仮説が正解だったことに喜んだ。



「じゃあもう一気にいこうかな」



 身体に力を入れて、毒素分解の勢いをさらに強める。するとアインの目にも分かるように、毒沼が徐々に狭まっていく。

 残ったのはただの澄んだ美しい水、そして栄養に満ち溢れていそうな土壌が現れる。



 この毒を兵器にでも使えば、どれほどの命を奪えるだろうか?

 下手をすると、一国の存亡すら危うい程かもしれない。



「お。抜けた……」



 沼の毒が抜けきったと同時に、ブルーファイアローズが随分とあっけなく、その土から離れていく。そしてアインの指に挟まれて、アインの目の前へと掲げられた。



「それじゃ最後に。君の毒ももらっていくね」



 アインは昔にやった時のように、下の方から徐々に毒を吸い上げる。

 花びらの煌きが徐々に強くなったかと思えば、一枚ずつ美しいクリスタルに変貌していく。



「……完全に突然変異だこれ」



 最後の一枚がクリスタルに変貌したと同時に、アインは毒素分解を止めた。

 優しく花柄(かへい)の部分から上にある、クリスタルとなった部分を手に取るアイン。



「桜色のスタークリスタルね……」



 突然変異のブルーファイアローズは、その凶悪すぎる毒性のほかにも……こうした美しさを秘めていた。



 常に花びらが待っているような、春爛漫の世界が広がるスタークリスタル。

 春の陽気や日の温かさ、そして凛とした美しさがアインの目を奪う。



「……とりあえず持って帰ろ」




 *




 バルトの町に戻ったアインとディルは、急ぎで王家専用列車へと乗り込む。

 待たせていた近衛騎士達と再会した際には、皆がもれなく驚き立ち止まってしまった。



『魔石吸ったら大きくなっちゃった』



 と簡素すぎる説明を皆にすると、困惑していながらも納得する。

 なにせ魔石を吸うなんていうのは前代未聞で、何が起こるかなんて騎士達にも分からない。

 そして何よりも、アインがそう口にしているのだから、近衛騎士達はその言葉を素直に信じていたのだった。



 その後はアインの乗る車両にて、ディルへと魔王城でのことをどう説明するべきかと悩んでいた。

 しかし疲れ切ったアインの表情を見たディルは、王都に戻ってから、そして体を休めてから教えてくれと口にする。



 どこまでも優しく、そして自分を信じてくれるディル。

 こうした気遣いは嬉しく思ったが、それと同時に大きな罪悪感を抱いてしまった。



 だがアインの感情が言葉にし辛い状況にあり、考えもまとまっていないことは事実。

 最近はディルに甘えっぱなしで心が痛むが、またディルの心に甘えてしまった。



「ねぇディル……本当に、王都に戻ってからでいいの?」


「……では一つだけお聞かせ願えますか?」



 ディルがアインの乗る車両を出て、自分の休む場所へと向かおうとしたときの話だ。



「うん。何でも聞いて」


「ではお聞きします。アイン様がしていることは、イシュタリカのため……そして未来のため、そこに繋がることですか?」


「っ……勿論。俺がしたことは、イシュタリカにとって大事な事、そのはずだよ」



 その言葉を聞いたディルは、ただただ優しく微笑むばかり。



「でしたら構いません。私はアイン様の護衛なのですから、ただアイン様をお守りするだけです。たとえそこが魔王城だろうとも」


「……ごめん」



 ディルには、マルコと繋がる部分があるのかもしれない。

 そう思わせる程の忠誠を見せられて、アインは今までの行いを恥じた。



「謝る必要はございませんよ。ですがアイン様もお疲れです……どうか王都に戻った際には、また元気なアイン様とお話したいと思います」



 そしてディルがドアを開ける。



「多くの事がございました。まだ分からない事だらけですが、それでもアイン様の雄姿をお見せいただいた。……あのお姿は、私にとっての何よりの宝です」



 最後にもう一度振り返り、ディルがアインにこう告げていく。



「ゆっくりとお休みください。王都に到着する頃にまた参ります」



 静かにドアを閉めて、アインとは完全に別空間に移動したディル。

 外に出て行ったディルの声はアインへと届かないが、ディルはその場で立ち止まり、いくつかの事を考えていた。



「……マルコ殿との戦いは、私には何もできませんでした」



 なんとも苛烈な戦いだった。

 認めたくない気持ちが強いが、たとえロイドであろうとも難しい……そう思わせる程の力と技の応酬、それをアインがしてみせたのだから。



「それに、アイン様がお悩みになられていた時。私はなにもできませんでした」



 アインが元気を失っていた時、精神的な助けになれていなかった。そのことが深く突き刺さる。



「護衛として、傍に置いていただく者として……私は何もできなかった。となればアイン様、謝るべきは私なのです」



 ただただ悔しかった。アインがここまで強く大きくなったというのに、『この体たらくは一体なんだ?』と心の中が埋め尽くされる。



「はぁ……くそっ……悔しいなぁ」



 このままではだめだ。こんな護衛なんていなくても変わらない、ならどうすればいいのか。



「強くならなきゃダメなんだ。今まで以上に、そして父上よりもずっとずっと……」



 大粒の涙を零しながらも、自分がするべき事を強く考える。



「帰ったら父上に頼むしかない。……訓練をもっと増やす、そして父上なんて目じゃない強さにたどり着くんだ」



 服の袖で目元をこすり、浮かんできた涙をふき取った。




 *




 ディルが立ち去ってから少し経ち、アインは机の上に置いたカードをじっと見つめていた。

 書かれた内容が目に映らないようにと、上には自分の手袋を乗せて内容を隠す。



「……そろそろ見るか」



 ただその様子を見ていただけのアインだったが、ようやくになって覚悟を決める。



「久しぶりだけど。あーやっぱり見たくない」



 手袋の下には、自分の名前が書かれたステータスカード。正直な気持ちをいえば、書かれた内容を見ないで窓から放り投げたい。

 だがそんなことができるはずもなく、アインは葛藤する感情と戦っている。



 ——『……俺の名はアイン、アイン・フォン・イシュタリカだ。正統なるイシュタリカの血を継ぐ次代の王であり、イシュタリカ王家の二代目の……——王だ』



 マルコの最期に、自分が口にした言葉。



 この台詞には王という言葉を使ったが、どうにも複雑な感情がある。



「二代目。きっとそういうこと……」



 それは旧魔王領(イシュタリカ)の二代目という意味で使った。そうなれば、自分の体の変化も説明が付くし、しっくりくる。



「……」



 アインが考えた器という意味。

 シルヴァードが考えた器という意味。

 そしてマルコが口にした、器という意味。



 その一つ一つに違いがあるが、アインとシルヴァードの考える器には大した違いは無かった。しかしその二人の考える器と、マルコの口にした器には大きな齟齬があった。つまりはそういう話。



「……やっぱりこうなっちゃったか」



 ジョブの一覧には、書かれているはずだった"ネームド"の文字が見当たらなかった。

 だが代わりに、別の2文字が追加されている。



「うん。まぁ予想はしてたし覚悟もしてた、きっとこうなるんだろうなって予感もあった」



 先にシルヴァードへと伝えよう。他の人へ教えるかは、その後で考えるのが正解と思われる。



「『魔王』……か」



 イシュタリカという血筋に魔王が生まれる。赤狐を追ってる身としては、この因縁めいた話に意味を感じずにはいられなかった。




 *




 予定通りならば、アインが王都に戻ってくるのは夕方過ぎとなるはずだった。

 だがすでに時刻は夜の10時前、この数時間の遅れは何がったのか……城内はそうした不安に包まれていた。



 そんな雰囲気の中、シルヴァードはオリビアの執務室へと連れ去られていた。



「ですからお父様!一体何をアインに頼んだのですか!」


「お、落ち着けオリビア……」



 王家専用列車が動くのだ、つまりその情報は必ずシルヴァードの許へと送られる。

 そうなれば城で待つ者達とすれば、シルヴァードに尋ねるのが当然と考えてしまう。



「えぇそうよ陛下。どうしてこんなに遅くなるのかしら……アイン君に何をさせてるの?」


「お……お主も落ち着くのだララルアよ!王妃として、常に冷静にだな……」


「あら落ち着いてますわ。だから冷静に聞いているじゃありませんか」



 こう詰め寄られても、実際にアインが何をしてるのかはシルヴァードも知らないのだ。

 シルヴァードに届いた連絡は、バルトに寄ってくるから遅くなる。オリビア達には黙っててほしい……そんな内容だったのだから。



「(何をしておるのだアインっ……!どうして余がここまで責められねばならん……)」


「……陛下?」


「おぉクローネよ!お主からも言ってくれぬか、この二人に大人しく——」


「恐れながら陛下。アインは何をしているのですか?」



 もしかするとクローネならば……そう思ったが、彼女も同様にアインを心配している。

 顔つきは冷静ながらも、どうにも言葉に棘がある。



「いやはや陛下。なかなかに大変そうですな……」


「ウォーレンよ!お主からも何か……」


「私も聞いておりません故、どちらかといえば妃殿下たちの側の考えですが」



 ——あの王太子は何をしているのだ!



 急に元気になったと思えば、唐突にバルトに向かったこと。

 元気がないアインは見ていて辛く思ったが、こうした"本調子"すぎるアインも苦労する。



 バルトから出発するならばもうそろそろつくはず。早く戻って来てくれ……シルヴァードがそう考え始めた時のことだ。



「み、皆さまこちらにいらっしゃいましたか……」



 ノックをして入室したのはマーサ。

 急いできたのか、息を整えながら慌ただしい様子でやってきた。



 その手には、髪を結ぶための黒い紐を持っている。



「おぉマーサよ!急にやってきてどうしたのだ?」



 渡りに船とはこのことか。

 突如やってきたマーサに近寄り、いつもより砕けた様子で話しかける。



「その……アイン様がお戻りになられましたっ……のですが……」



 最高の知らせだった。安心したせいか、どうやって折檻しようか……なんてことを考える余裕もできてくる。



「マーサ、アインが戻ったのね?」


「は、はい。確かにアイン様が戻った……はずなんですが……」



 どうにも歯切れが悪いマーサを見て、オリビア達は不安そうにマーサを見つめる。



「マーサさん?その……アインに何かあったんですか?」



 両手を胸に置き、不安を紛らわすように強く握ったクローネ。その言葉を聞いて、マーサは困惑した様子で説明をつづけた。



「ええと何と言いますか……大きくなってる、といいましょうか……」



 マーサの言葉は意味が分からない。

 皆が困惑していると、『実際に御覧になるべきかと……大広間にてお待ちしておりますので、皆さまいらしていただければ』……とマーサが口にして、礼をしてから足早に去っていってしまった。



 アインが帰ったことは分かったが、何があったのかは全く理解が追い付かない。

 そのためマーサがいうように、皆が自分の目で確かめようと、オリビアの執務室を出て大広間へと足を運ぶのだった。




 *




 時刻は少し遡り。アインが城門をくぐって、大広間へと足を運んだ時の事だ。



「いやーやっと帰ってきたね」



 身体を伸ばして、リラックスするアイン。

 いつもとは違った視界を見ると、どうにも新鮮でたまらない。



 だが城の者達は気が気でなかった。

 一体あれは誰だ?オリビアに似ていて、アインの面影がある。……そしてディルが隣に立っているが、どういうことなんだ?



 皆が同様にこうした戸惑いの表情をするが、客人であれば無礼があってはいけない。

 なんとか表情に出さずに、いつも通りになるよう心掛ける。



「マーサさんいるー?」



 少しばかり大きめの声を出して、いつものようにマーサを呼ぶ。

 すると数十秒もしないうちに、その呼ばれたマーサが大広間へとやってきた。



「お帰りなさいませアイン様。皆がアイン様のお帰りをお待ちして……ま……」



 顔を上げたマーサが、アインの顔を見て急に口を閉じる。



「……ディル。アイン様はどちらかしら?」


「お母様……。こちらにいらっしゃるのがアイン様です……後ほど詳しい説明がなされるかと思いますが、今はアイン様とご理解いただければと……」



 護衛を務める息子からそう言われ、驚きに染まった顔をするマーサ。



「し……失礼致しましたアイン様。まさか本当にアイン様とは……」


「いろいろあって大きくなっちゃったんだよね。あ、そういえば服も新しくしないといけなかった」



 アインの足元や手元を見れば、明らかに丈が足りていないのが分かる。

 だがマーサとしてみれば、今は服なんかを気にしている余裕はなかった。



「お爺様たちに、アインが帰ったって伝えてきてもらっていい?俺はここで荷ほどきとかするから、頼んでもいいかな?」



 疲れた様子だったが、それでも今まで通りのような笑い方。

 マーサはその表情を見て、本当にアインなんだとはっきりと自覚する。



「……しょ、承知いたしました。では急ぎお伝えして参りますので——」


「あーそれと、髪の毛結ぶ紐とかも貰っていい?伸びすぎちゃって困ってるんだよね」



 腰まで届く長い髪。そこだけみると、まるでオリビアが2人になったかのような錯覚を覚える。



「畏まりました。では何かご用意して参りますので……ええと、しばらくは大広間にいらっしゃいますか?」


「うん、そうすると思う。結構荷物多いから大変なんだよね」



 マーサの困惑した様子は全く気にせずに、ただ普段通りにヘラヘラと笑うアイン。

 この気楽な感じは明らかにアインだ、そう思わざるを得ない。



「ではお伝えして参ります。髪を結えるものもお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」


「ん。りょーかい」



 そうして振り返ったアインは、持ってきた多くの荷物へと向かっていく。



「ねぇディルー?お土産って昨日のうちに全部送ってたんだっけ?」


「えぇそうですよ。もう厨房には届いているかと」


「そっか。なら安心だ」



 二人の会話する声を聞きながらも、マーサは急ぎ足でシルヴァード達を探しに行った。



「あ、そういえばディル」


「はいなんでしょう?」


「今度暇な時でいいからさ、買い物付き合ってよ」



 唐突なアインの言葉に、ディルは荷物を開けていた手を止める。



「……勿論御伴致しますが、どういった買い物でしょうか?」


「大きくなったからさ、服欲しいんだよね。たまには一緒にそういうとこ行ってもいいかなって、駄目かな?」


「わ、私が使っている店をご紹介致します……!」



 一目でわかるほど、喜んだ顔つきになったディル。

 こうした誘いをしてもらえるとは思わなかったので、心の中は多くの喜びで満たされていった。



「よかったよかった。すぐにでも買いに行きたいんだよね、実際今も服きつくってさ……もう脱いじゃいたいぐらいで」


「……お部屋に戻ってからにしてくださいね?」


「わ……わかってるよ!こんなところで脱いだりはしないってば!」



 二人が今まで同様のやりとりをしているのを見て、遠巻きに見ていた給仕や騎士達も、本当にアインなんだと認識し始める。

 するとやはり、一体何があったのかと疑問符が浮かぶわけだが……。



 アイン達がそうこうしていると、この騒ぎを聞きつけてか、騎士服に身を包んだクリスがやってきた。



「アイン様お帰りです……か……?」



 尻尾を勢いよく振りながらやってきた彼女だが、アインに近づくにつれてその勢いが収まっていく。

 そして数歩手前で立ち止まると、久しぶりに帰宅した飼い主を見た猫のように、戸惑った様子を浮かべていった。



「ただいまクリス。ちょっと遅くなっちゃってごめんね」



 荷物を弄っていたアインだったが、クリスの声を聞いて振り返る。



「え……?アイン様?アイン様……?」


「はいはいアインだよ。クリスも元気にしてた?」



 一度荷物から手を放して、アインがクリスの側に寄ってくる。

 先日よりも大きな体に伸びた髪……そして顔つきが大人のように成長していた。オリビアや前までのアインの面影はあるものの、新たな魅力に溢れたアインを見ると、どうにもクリスもたじろんでしまう。



「ほ、本当にアイン様?なんでおっきくなって……その、髪の毛も伸びて……」


「うーん……色々あって大きくなっちゃった。変かな?」



 心配そうな顔になったアインを見て、クリスはハッとした顔でそれを否定する。



「ち……違います!そのその……凛々しくなられましたし……素敵、だと思います……っ。でもその、本当にアイン様か心配になっちゃって」


「でもほら、この服は俺がいつも来てた物でしょ?それに剣も……ね?」



 そうして身振り手振りで身に纏った物を見せると、クリスがゆっくりと近づき始める。



「近くで拝見してもいいでしょうか……?」


「いいよそのぐらい。ほらどうぞ」



 その返事を聞いて更に近づくクリスは、アインと数十センチ程度の距離へと近づいた。



「すんっ……すんっ……」



 アインの目が正しいならば、クリスは目よりも鼻を働かせている。そうした仕草だったのだが、アインはそれを黙って受けいれた。

 汗臭かっただろうかと不安になってくる。



「——ほ、本当にアイン様だ……っ!?」



 すると嬉しそうにガバッ!と顔を上げて、クリスはようやく本当にアインだと信じるに至った。



「(それで分かっちゃうのか……)」



 数日見ない間に、クリスが忠犬レベルを更に進化させたようだが、まさかこうした特定方法があるとは思わなかった。


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