第366話 スサーナ、目撃する。
「むぐうーっ」
スサーナは走っていた。
ぺったんぺったんと場違いな音を立てるサンダルが意識の片隅でとても情けない。
廊下がどこまでも静かで、それらしい方向に進みながら耳を澄ませてもレオくんの足音すらわからず、走っていった大体の方角すら不明だ、と気づいたその時。
とりあえず、早くレオくんと合流すべきだ。
焦りに背を押されるようにそう考えて、スサーナは合理的にレオくんの部屋に近づく手段を選んだ。
すなわち、外回りだ。
角部屋であるらしいレオくんの部屋にたどり着こうと思うなら、建物の外側を走っていけば確実にアクセスできる、そのはずだ。
であるので、スサーナはとりあえずまず片端から部屋に頭を突っ込み、一番最初にいきついた窓を開けて、そこからモゾモゾ這い出した。
いかに温暖なヴァリウサであれ、この真冬に夏物のTシャツぐらいの厚さの上下を身に着けているだけで、肩に掛けてあったままのバスタオルはちょっと上着とみなすには頼りなく、外に出ればぴしぴしと肌に冷気が染みたが、それはあさっての方においておく。
――あきらかに異常なんですから、これは緊急避難……!
なので、普通に考えればちょっと許されない、内廷の窓の鍵を開けっ放しにする行為や、入り込んだら問題になりそうな場所をばたばたぺたぺた走っていることも許してほしいと思う。
たどり着いた後どうするのかちょっとノープランだが、誰かいればきっと入れてくれるはずだ、と公の令嬢の地位を信じておく。窓ガラスを叩き割る覚悟だってある。護符が熱を持ったのだから、とりあえずそのぐらいの覚悟はしておこうとスサーナは腹を決める。
――最悪、念のための刺繍を一枚使ってしまっても仕方ない……
用意してある刺繍は二枚。一枚使ってもまだ余裕はあるはずだった。
王宮の主部分は、あえてだいぶ無理に単純化すればだが、咼という字に似ている。
今スサーナがうろついている王族の生活部分は右上の三画目と四画目の部分と言えばいいだろうか。内廷の中でもやや公的な色を帯びた棟に周囲を囲まれ、瀟洒な中庭を抱える棟だ。
ただし、スサーナが心に浮かべたその構造は本当に概略化された、貴族にも手に入れられる案内由来のもので、内廷の内向きには王族の心を慰めるための小さく張り出した温室や外廊下、柱廊などもあり、小さな中庭も点在する。それらは角部屋を探すスサーナの足を散々に迷わせた。
――うぐぐぐ、でも、多分きっと中はもっと複雑ですから、それよりかはマシなはずですけど……
建て増しを繰り返したたぐいの建物の複雑さを舐めていた、と打ちのめされる思いになりつつ、スサーナは角部屋に出会うたびに窓から中を覗き込んでは走ることを繰り返す。レオくんの部屋は海の間と呼ばれ、海の絵や美術品が飾られた、二階続きの部屋だ、という知識だけが頼りだ。
レオくんが走り出した瞬間になんとか何も持たずに追いすがるべきだったか、それとも出たところで大声で名前を呼び続けるべきだったのか、と泣きたい気持ちになりながら石畳を走る。
途中から、誰か王宮の使用人らしき人間がいれば、なりふり構わずに頼ろう、と心に決めていたのに誰にも出会えないし、部屋部屋にも人の気配がないのが不吉でたまらない。
――静かすぎる……! 年改めの慣習が部屋で明かりを消して静かに祈るとか、そういうことならいいんですけど、なんだかそうじゃない気がする……!
それは、戦いの物音、悲鳴や叫び声が聞こえるよりは少しはマシなのだろうか。わからない。
手首に紐をかけた巾着袋の内側で、護符がずっとじりじりとした熱を持っているのだから、今、何か異常のただ中にいるのだ、ということだけはハッキリしているように思う。
いくつめの部屋を覗き込んだ後だろうか。
中を覗き込むためによじ登った一階の窓手すりから飛び降りて、次の「角」に向かおうとしたスサーナははっと足を止める。
こつり、かつん、と規則的な音が、わずかに耳に響いた。磨かれた石床を硬い靴が踏んでいく音だ。
――靴音! 誰かいるんですね、良かった! サンダルじゃないからレオくんじゃない……どこ? どこに……
この空間に他者がいる、ということに一瞬奇妙な安堵を感じ、スサーナはせわしなく周囲を見渡す。使用人なら声をかけようと考えたが、謀反人であったらという警戒はまだしっかり保持はしていたため、声を出してはいけないな、と、そう意識していたのは、結果的に良かったのかもしれない。
喉の奥が跳ね上がる焦燥の感触をなんと言い表すべきだろう。ひゅっと鋭く喉で堰き止められた空気は、じりじりした痛みを喉に残して消える。
スサーナの視線を基準にすれば、右手の奥。小さな空中庭園から繋がる二階の拱廊。そこを歩いていた誰かがつと歩みを遅くして、どこか忌々しげな表情でゆるりと周囲を見渡したのが離れているのに妙にはっきりと見えた。
見たことのない誰かだと言えれば気が楽だったものを、その姿を見知ったとはけして言えはしないけれど、砂色じみた白ぼけた髪も、特徴のない容姿も、スサーナは夢で見て知っている。身につけた枯葉色の、只人のような衣服も、その手首から垂れる鎖じみた腕輪もだ。
全部、夢のとおりだ。
反射的に物陰に身を潜めて、そちらの方を覗き見る。
確か腕輪を付けているかわかったようだったのだし、昔、魔術を感知して確認しに来た、と言われたこともあった。気配や何かを感じ取れるのではないかと焦って巾着の端の布地を使って革の部分だけを掴んでいた腕輪をギュッと抱え込んだが、どうやらそういう様子は無いようで、その視線がこちらに向く様子はない。
――ここだけは、ただの夢でしかるべきだと思うんですけど!!
胸の中でスサーナは八つ当たり気味に勢いよく叫ぶ。そうしないと座って頭を抱えたくなるからだ。
――神様、誰だろう、ヤァタ・キシュ様? それともサーイン様? もしかしたら呪司王様。私、そんなに悪い子でした?
忸怩たる思いであらぬ方に理不尽な文句をつけながら、どう対処すべきか数呼吸を悩むうちに、その人はスサーナにはどうやら気づかぬまま、そのまま拱廊を渡り切って姿が見えなくなる。
「この期に及んで……何故、これまでの不確定要素が」
低く呟いた声が耳に残った。
心臓が数回打つ間、スサーナは息すら止めてその場に立ち尽くし、それからうーっ、と喉の奥で唸って、理不尽に虐げられたような惨めな気持ちを強いて切り替える。
――さてしっかりしろ、守られるべきはレオくんだ。
より夢に合致した状況が増え、レオくんと合流できないのだから、夢のあの部分は現状のレオくんの状態を示しているのかもしれない。周りは静かなままで、何か騒ぎが起こったようには思えなかったけれど、それでも、経緯を鑑みればここにいてはいけない人の姿があったのだから、他の状況も起こっていると見た方がいい。
――いろいろ準備して、問題ないように備えたはずだったのに……。
じわじわと承服しがたい気持ちが湧いたが、なにかにうらめしく唸っても始まらない。とりあえず、目の前に動くあては一つ増えた。そう唱える。
彼が向かっていった先にはいくらかの違和感があった。
外廊下を抜けて、その先の室内に入った、というのなら何をするかはいくつもの可能性はあれど行動自体には不思議はない。だが、その細い拱廊は虚空を渡り、最後は装飾的な囲壁の上を通る通路となって、らせん状にその内側の小さな庭と思われる空間に入るものだった。
――少なくとも、この先はレオくんの部屋ではない……ですけど……
あの夢が予知夢で、あの時見た光景が今起こっていることを示唆していると言うなら、もしかしたらあの人は、レオくんを背負った誰かと同じ方向に歩いていくのかもしれない。
何かはたしかに起こっているのだから、確認してみてもいい。最悪その小さな庭は一階から出る出口など一箇所しか無い代物であるようなのだから、庭を眺めたいだとか、庭になにか用があるだけだとかいう場合は、威嚇して問い詰めるという選択肢もあるのかもしれぬ。
――万が一……万が一ですけど、苦情を申し立てたら、そう、すこしぐらい譲歩してくれるような、ことも……。
――ああ……足は、動く……
夢と違って、足は確実に動いた。
踏み込んだその先は、小さな冬枯れの庭だった。
壁を這わせたつるバラやジャスミンは花の気配もなく、ごつごつとした常緑の低木の緑に、所々に咲いたスノードロップ。こちらではよく見かけるきちんと整えられたパティオというよりはインフォーマルガーデン寄りの、森の一部を切り取ってきたような風情だ。
――秘密の花園、という感じ……。木は古木ばかりだから、古い庭なんだ……
王族の誰か、もしくはかつての誰かのものだろうか。宮廷の中にあるにしてはどこか牧歌的な作りの庭はやはりしんと静まり返っている。
ふと児童書のタイトルなどを脳裏に浮かべながら見渡したそこには、今入っていった人の姿は見当たらない。
隠れる場所など見当たらない狭い庭の中央には、この国なら一般的な水盤や噴水ではなく、あずまやがひとつ。
――ん? あずまや?
スサーナはつと眉をひそめる。ネルさんに聞いた、魔術師と遭遇した時の話を思い出す。
――あの報告でも、庭にある東屋から何処かに出入りしてましたよね。
同じ作りだ、というのは少し安易な考えだろうか。謀反人が隠れ潜む教団の拠点と王宮のなにかの作りが同じだというのはなかなか無い気もする。
だが、入っていった誰かの姿が見えない以上――もしかしたら、そこから認識欺瞞を使ったのかもしれないが――確認できそうなのはそこしか無いように見えた。
スサーナはあずまやにそろそろと近づき、何か操作できそうなものはないかと見渡し、それから一歩踏み込む。
「なにも、な……」
がくり、という何かを踏み外したような感触。
足元は規則的な石畳作りの石床だったように見えたのに、なぜか体重をかける先がなく、ぐらりと体がバランスを崩す。
次の瞬間、体が石床に叩きつけられる、ということはなかった。
スサーナは、悲鳴だけは上げるまいと口元を抑え、巾着の紐を手首にかけていたことを感謝しながら、落下感と浮遊感にまぎれ、意識が途切れるのを感じていた。
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