第365話 レオカディオ、不吉と出会う。
レオカディオは後ろを見ずに走っていた。
理由はといえば、人に知られれば笑われようし、自分でも少し情けないと思うようなこと。
予想もしなかったことに、同じ休憩室に通されていた相手。
他人には見せるようなものではない格好で屈託なく触れられ、髪を拭われた。
そのままそこで時間を過ごせば、きっとなにかよこしまな目を彼女に向けてしまうかもしれぬと感じたのだ。
誰もいない休憩室も、一番肌が見えるものだろう
そのつもりで整えられた状況があり、差し出されたと理解してしまえば、それを思考から追い出しても、きっとふとした折に漏れて感情を汚す。
彼女自身からはそんなふうに見られてはいない、ということはわかっていた。
それどころか、多分、彼女は異性をそう見ることはまだ出来ていないのだろう。
同じぐらいの令嬢たち……女の子たちのように、同年代の誰かを追い回すというようなことも見たことがなければ、女たちがこぞって褒めそやす二の兄――いつの間にか知り合っていたと知った時には少しひやひやしたけれど――相手でさえ、話しかけられてはうっとおしそうに半眼で身を逸らすのだから、すこしびっくりしてしまうほど。
そんなひとによこしまな目を向けるのはきっと、とても良くないことだったし、それに。
レオカディオ自身、誰かを娶るかもしれないことに通じる行為は恐ろしい。
野に咲く花を、日のささぬ所に無理やり植え替えて、枯れるまで萎れていくのを見るのが婚姻だというのなら、たぶん、それは、少しでも好意を抱いた相手にするべきことでは無いだろうと思う。
――スサーナさんは、気持ちは自由だと言ってくれた……
婚姻は望むべき素晴らしい事柄だと、疑いもしない顔でレオカディオに微笑みかける令嬢たちは、彼の内心を聞かされればきっと困惑し、失望することだろう。それがどれほど恐ろしい運命を選ばれた誰かに招き寄せるのかも知らないで。
そう、そうだ。彼女はそんな風にレオカディオの恐れを軽視するような人間ではなかったのだから、それこそ、誰かにそうなるように証拠を握らせるようなことをしてはならなかった。
たとえ何もなかったとしても、薄着で誰もいない部屋に二人だけで長い時間居た、ということが事実として誰かの目に触れることになれば、十分な醜聞のタネだ。
――それは、よくない。絶対に良くない。
それに、もう少し些細で、それでいて彼にとっては重要な理由も。
婚姻する誰かを不幸にするかもしれないことが恐ろしいと、秘密を話した日。あの時の共感と労りを込めた目と、その時を境に増えた親しげな振る舞い。何か、ひとつ内懐に入れられたのだとわけもなく感じたこと。
彼女がまるで自分が王子であることなどを忘れたかのように振る舞うものだから、あの屋敷の使用人たちもそれに引きずられて、まるで最初から自分があの家の子供だったかのように振る舞う瞬間があること。
貴族たちの目に触れる母の立場を慮れば、瑕疵なき聡明な王子として振る舞わなければならなかったレオカディオであれば、学院に入る前は好ましく思っていてもそこまで親しく付き合えるわけではなかったフェリスと、それから、幼い頃には近しく振る舞っていたはずなのに、長じてからはちょっかいを掛けられる以外は距離をおいて暮らしてきた二番目の兄と、今何故か奇妙に遠慮なく振る舞い合う、その中心にいるのも彼女だ。
それは言い難く好ましく、どうにも手放し難かった。
女官たちを前に、高位貴族の令嬢と王子として交わした新年の狩りの話。
食事をしながら話したのは、例年の狩りの獲物のことや、馬術のことに、王族たち各々の狩りの腕前のこと。有力な貴族の誰が狩りに呼ばれるか。狩りに同行する者達の装束のきらびやかさ。
一番最初に少しだけ逸れたこと以外は、貴公子と令嬢の会話として及第点を得られるものだったはずだ。最初のものも、大きく逸脱する前にちゃんと落ち着けた。それは令嬢と語り合うならとても正しかったけれど、多分彼が話したかったのはもっと違う、例えば凍った木の樹液を舐めると甘いという先導の猟師が教えてくれた知恵であったり、簡素な持ち運びの弁当に心を踊らせたことであったり、冬の森の雪を踏む美しさであったりすると、そう話しながら思った。
その方が、きっと彼女も目を輝かせて頷くだろう。
まあ、装束についての話題は話し続けても彼女は興味を示す気はしたけれど、まあそこはそれ、女官たちが好み、あら捜しを好む貴族たちがよきものとする興味の示し方とは多分違う。
それはきっと同じことで、だから彼は、あの部屋に居続けてはいけなかったのだ。
しばらくして、レオカディオが足を緩めた理由は、休憩室と十分に離れたということがひとつ。
それと、進む先の廊下の片隅に、盛装の少女が蹲っている、と気づいたからだ。
「どうしました? 具合でも……」
こんな場所にと訝しみながらも、レオカディオは少女にそっと声をかけた。
――
ならば、この子はあの席に出る……つまり、乙女探しの誰かだろうか。
「おうじさま」
つ、と顔を上げたのは、確かに三度目の乙女探しで顔を合わせた娘の一人だ。
「貴女は確か……」
「ずっと探していたの」
そう言われて、レオカディオは一瞬、テオフィロの身代わりがばれたのか、と考えた。
「ごめんなさい、そういう余興でしたから……君は、それで僕を探しに来たのですか」
女官を呼ぼう、と周囲を見渡し、じわりと彼は異常に気づく。
見渡す限り、誰もいないのだ。
女官も、侍従も、守衛も、なにも。
宴席が立っているためにそちらに人員を取られた、ということかとも思ったが、それでも、常夜の守衛だけは動くことはないはずだった。
「ずっとずっと探したわ。どこにも見つからないものだから。どこをさがしても、どこにも、どこにも、見えないものだから」
手を伸ばされてレオカディオはたじろいだ。
なにかがおかしい。
礼儀に則って振る舞うのなら、その手を取って助け起こしてやるべきなのだが、そうする気には少しもなれなかった。
「おかしいなあって思ったの。だって、言われたとおりに腕を掴んだのよ。だから、本当ならもうすっかり王子様のこと、捕まえられているはずなのに」
「すみません、一体……?」
「それなのに、どこにもずっと見つからないから、どこに隠れてしまったのかと思ったの。怖かった。そんな失敗をしたから、とっても叱られて、それで……」
異常を感じて、身を翻そうと思っても、まるで絨毯に絡め取られたかのように足が動かない。脱げやすいことこの上ないサンダルを履いているというのに、底と足が張り付いてしまったようだ。
「罰を受けたの。とてもとても怖かったわ。からだをとられちゃった。でも、ようやく王子様が出てきてくれたから。これでもう、からだを返してもらえるわね?」
こんどこそ、と囁いて、少女が笑い出す。まるで屍蝋のような青ざめた顔をレオカディオが呆然と見下ろすうちに、その姿が揺らぎ、ぎょっと見下ろした腕、ほんの少しは距離があったはずなのに、右腕に白い腕が絡みついている。
「つかまえたぁ」
乙女探しの席で彼の腕を掴んだ「乙女候補」の娘が、まるでダンスのパートナーのように腕に張り付き、同じ言葉とともに、きゃらきゃらと笑った。
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