第325話 偽亜麻色の髪の乙女、反抗する。

 酷い不興を買ったものだとばかり思ったけれど、いつまで身をすくめても頬を打たれるわけでもなく、それどころか罵倒されるわけでもない。

 サラの目の前に立った高貴なご令嬢は、サラをなじるでも糾弾するでもなく、サラが心配なのだ、とそう言った。

 呆然とした時間が過ぎ、じわじわと言葉の意味を考え、それから。

 ――ああ、つまり。

 これは慈善行為なのだろう、と納得がいく。


 評判が悪いらしいアブラーン卿が連れてきた女の子だから。

 みすぼらしい格好をしているから。

 きっと、高貴なご令嬢の義務として手を差し伸べてくださったのだろう。

 こちらの立場まで考えて、あの場を荒立てることすらせず、こんな場まで整えて。

 ……その事は、一層にサラをみじめな気持ちにした。

 ――私が、どんな気持ちでここに来たのかも知らないで。

 冷静な部分が、これは好機だと、きっと彼らよりずっと高貴な身分の相手なのだから今この人に頼れば状況は良くなるのかもしれない、と思うのに、胸の奥でそう声がする。


「ショシャナ様は……私を哀れんでくださるのですね。」

「ご事情がわかりませんから……そうは申し上げませんけれど、なにかご理由があって今の立場でおられるなら……そして、それが不本意なら、私に出来ることがあるのではないかと思うのです。」


 高貴なご令嬢は、奇妙に真摯な目でそう言った。ろくに顔をあわせたこともない自分にそんなに真剣になれるなんて、もしかしたら、とても善良なのだろうか。

 ――なにも知らないのに。


「ですから、どうかそちらのご事情を教えては頂けませんか?……意に沿わぬ理由で養女になられたというわけでないならいいんです。でも、もしそうでないなら、力をお貸しできるかもしれない。 ……あの、アブラーン卿のことは、私、とても嫌いなんです。人を叩く為の杖を持ち歩いているような方で……あこぎなやり方でお金を稼ぐという噂もある方です。その、親しい者が……不愉快な目に遭ったこともあります。……ええ、それに。色々と、良くない噂も聞きます。サラさん、良くないことに関わらされていたりはしませんか?」


 こちらの目を必死で覗き込むような仕草にサラはイライラする。まるで、自分のために必死になっているような表情をなんでするのだろう。一面識も無い相手なのだから、当然肩入れされるような理由なんか何ひとつもないのに。何一つわかってなんていないくせに、「良くないこと」の想像なんか一つもついていないに違いないのに、まるで意味ありげに、必死な声で。

 そう、そうだ。この子がそんなふうに言うのは、自分がライバルになるだなんて、ちっとも思ってやしないからなのだ。亜麻色の髪の乙女の候補になる女の子、なんてものはどうあれミランド公のご令嬢には面白くない存在であるはずなのに、絶対に第五王子殿下の目に止まらない、取るに足らない塵芥のようなものだと思っているから、いたずらにそんな風に手を差し伸べてみせる。サラのことを自分の立場を脅かすような人間だとは少しも思っていないからこそそんな事ができる。そのはずだ。

 ――敵と見做されてすら、いないのだわ。

 別に敵対心を抱かれたかったわけではないのだけれど、可哀想なばかりの哀れで無力な被害者だと思われている、と思ったら妙に心が冷えた。


「……私は、なにか疑われているのでしょうか?」

「……いえっ。サラさんが何かしているとは思っていません。ただ、もしなにかあったとしても……ご心配されず。私の出来る限りサラさんにご迷惑はかからないように手配します。ですから……」


 サラの身に降り掛かっていることが高貴な公のご令嬢ならさっと解決できてしまうような容易い事柄で。箸にも棒にもかからない、高貴なご令嬢の人生を揺らすそよ風にもなれない可哀想で愚かな下級貴族の娘はその温情にひれ伏して感謝すると思っているのだろう。

 ――ほら、なにもわかってない。

 目の前のご令嬢が言い募るのを見ていると、なんだかとてもむしゃくしゃした。

 サラが何かしていると思っていないだなんて、善良なご令嬢らしい物言いだ。きっと、悪い大人にわけも分からずこんな場所につれてこられて恥をかかされている可哀想な子だと思われているのだろう。

 この子が、ちょっと。

 背格好がほんの少し、話し方がほんの少し。よく見つめるといかにも高貴そうで似てなどいないのに、なぜか雰囲気がほんの少し。王城で一緒に下働きをしたあの子に似ているのが多分よくないのだ。

 サラが可哀想に巻き込まれた下級貴族の娘というだけではなく、同僚にひどい罪を着せたかもしれなくて、きっととても悪いことに関わっているだなんて知れたらこの心優しく正しいご令嬢はどんな顔をするだろう。勝手に評価して、勝手に心配したくせに、はっとして、咎めるような悲しむような、……裏切られたような顔をするのかもしれない。あの子に似た顔で。

 自分は、清く正しい、心の優しい大貴族のご令嬢が哀れんでくださるような瑕疵のない立場ではない。


 この方は一体どうしてくれるつもりなのだろう。サラは思う。

 ――アブラーン卿を叱咤して、可哀想なその娘を開放なさい、と仰るおつもりなのかしら。

 ――それとも、わけを話してみせたら、お父様が借りたお金を肩代わりしてくださると仰る?

 下級貴族なら一生を左右するような金額のお金は、公のご令嬢ともなるとお小遣いの端金なのだろうか。

 もしかしたら、家族を巻き込めないとサラがここで頑張って踏みとどまっていることですら、高貴な方には、あら、そんな些細なこと、と笑うようなことなのかもしれない。

 ――それでも、同い年ぐらいの女の子なのに。

 頼れるような大人ではなく、サラの事情なんて、何一つ想像できているはずがなく、ここで声を掛けてきたのもサラの姿をちょっと見ただけで、無責任に可哀想がっているだけで。

 親に守られている年頃の、ミランド公父親に可愛がられている、おなじ年ぐらいの女の子。


「……ショシャナ様がそうまで仰ってくださる理由が、私にはわかりません。なにかそうされるような理由がお有りなのですか? 私はショシャナ様にそうして頂けるような理由がありませんわ。」

「それは、その。私は……まず、レオく、いえ、レオカディオ殿下のお心を騒がせることが起こるのを防ぎたいと思っています。その上で、憂いの種は出来るだけ少なくしたい……。だから、もし何かお力になれるようなことがあるなら……私達、双方に得があると思うのです。ですが、そうと申し上げるだけでは足りないのでしょうね。……その、サラさん。事情をお話させてくださいますか? 私、お話しなくてはいけないことが」

「私はお話することなんか何もありません。馬鹿にされないでくださいませ。ありがたがると思ったら大間違いだわ。私にも……矜持ぐらいありますわ」

「え――」


 サラの言葉に目を瞬いた公の令嬢の、なにか絶望的な、凍りついたような表情にひどく心がざらざらした。

 ――これでは、私が酷いことを言ったようだわ。

 ひどいのは、絶対に絶対にそちらのほうなのに。


「ま、待ってください。今、理由を……」


 腕を取ろうとする彼女を軽く突き飛ばしてしまったかもしれず、でも、わざわざそんな申し出をしてくるお心優しいご令嬢なのなら、もしかしたら問題になんかしないかもしれない。

 薄物を重ねたようなドレスは、下級侍女のそれよりはかさばったけれど、公の令嬢の身につけた立派なドレスよりもずっと身軽で、横をすり抜けるのにも支障はない。とても慌てた様子だった高貴なご令嬢は、サラがお返ししますとわざと広げて押し付けたマントにその動きが遅れたようだった。


「待って!」


 その声を置き去りにして後ろ手にドアを閉め、振り向かないで方向も決めずに走った。

 惨めで、惨めで、ぐすぐすと鼻を鳴らして前も見ないで進む。


「おっと」


 どん、と誰かにぶつかって、ようやく顔を上げる。

 そこはパーティー会場から随分と離れた裏手らしい場所で、目の前に立っていたのは道化姿の男だった。

 古い時代に流行ったと聞いた淡い茶色と桃色の大理石とクルミ材の廊下は広く、アーチ状の天井に等間隔に柱が立った作りだ。それだけ広いのに他の客は見当たらず、がらんと寒々しいそこには道化とサラしかいないようだった。

 なぜ貴方はこんなところに、とか、会場に戻るにはどうしたら、とか、聞くべきことは色々あるような気がしたものの、そんな疑問はなぜだか浮かぶ余地はなかった。背後にも気配はなく、あのご令嬢を振り切れたらしいことは少しだけ安心する。

 妙にわざとらしく、おや、泣いているんだね、と首を傾げて両手を広げた道化が化粧の向こうでにんまり笑う。


「高貴なご令嬢に呼ばれていたんだってね。どうしたのかな。恐ろしいことを言われた? 脅された?」

「いいえ、いいえ……! 憐れまれたの! 私が取るに足らないから! 無力で何も出来ないから!」

「ここへおいで、随分心を揺らしたね。」


 サラは迷わず道化の胸元に飛びつき、しがみついてううとうめき声をあげる。なにがあったのかな、と問いかける声は甘く、蜂が手足をとられて絡む蜜の沼のようだ。


「くやしい!……くやしい! どうして私ばかりこんな目に遭うの!? どうして……あの子は隠し子だって聞いたのに、なのに全然苦労したことなんてないんでしょう、立派なお家に生まれて、なんでも叶ったのだわ……でなかったなら、あんなに誰彼なく誰かに優しく出来るはずなんかない……!」


 叫び散らす内容を聞き取って、ははあ、と得心した様子の声がころころと笑った。

 少しだけ。ほんの少しだけ。呼び寄せられた隠し子の話を思い出した時、自分と似ているのではないかと思ったのだ。

 貴族社会の混乱が原因で、住み慣れた場所から離されて、家族の期待を受けて。

 いや、違う。もしかしたら、公のご息女であっても、身分がとてもあっても、自分よりもっと可哀想な子なのではないかと、そう思った。

 自分は、家族を守るために頑張っているのだから。きっと愛されもしていない、王家の混乱に運命を狂わされた子よりもずっと辛くないし、可哀想でもない。

 そのはずだったのに。


「ああ、そうだね、悔しいね。あの子は特別なご令嬢で、君はそうじゃない。あの子は何もかも持っていて、君を救ってくれるかもしれなかった王子とも、とても親しい。」


 道化はそっと目を伏せ、サラの耳元に睦言を囁くように言う。残酷な事実を数える声は語調ばかりはとても優しく、元々ちゃんとは整えられていない髪を撫でる手の動きはうっとりするほど柔らかい。


「恵まれていて、第五王子とだけじゃなくて、第二王子とも仲良しで……」


 サラは布地に爪を立てて呻く。どれほどきれいなところで生きてきたのだろう。きっと、辛い目に遭ったことも、誰かを恨んだこともないに違いない。逆恨みなんか以ての外だ。


「酷いことなんか何一つ思いつかないみたいに……正しくて、立派で……私はこんなに汚いのに」

「そう、手ひどく裏切ってしまったねぇ。もう君のお友達は君を許さないだろう、可哀想に。もうせめてと思っても城の下働きにも戻れない。こんなに頑張っているのに、君の手には何も残らない。あのご令嬢はただ居るだけで愛されて、落ちる影一つなく守られるんだろう。理不尽だねえ。」


 仕方なかったのに!とサラは道化の胸元の布地に鼻を押し付けて嗚咽のように叫ぶ。仕方なかったのに、そんな事したくなかったのに。きっとミランド公の令嬢はそんなことはわかってくれないだろう。だって、あんなに立派なのだから。絶対に邪魔なはずのサラのことを歯牙にも掛けず、気遣ったりしたのだから。きっと祝福されて生まれて、正しく、正しく、一切の染みなく生きてきたに違いない。正しくいられたに違いないあの子は、頑張って、頑張って、でも正しくないことをしたサラのことなんか、わかってくれるはずがない。


「どうしてあの子はあんなに特別で、あんなに目を惹くのでしょう、ただ正しく生きてこられただけなのに、ずるい……。絶対に蔑まれて、とがめられるのに、もしかしたら助けてくれるのかもしれないって、期待なんかさせる……ひどい、ひどい……」

「ほんの少し運命が違えば君だってもっと特別になれたかもしれないのにね。……ああ、でも、まだ君はそう期待するんだ。確り重ねたように思ったんだけど、よほどそのご令嬢が魅力的なのか、それとも君のこころは僕とよほど形が違うのか。その鬱屈と絶望の色は僕によく沿うと思っていたんだけどな。まさか――忌々しい女どもの血を引いていたとしても混ざりものが僕らを振り切れるはずもなし」


 さあ、いけないよ。淀みを全部話してしまったならこちらを御覧。棘を取ってあげる。少し、何も考えずおいで――

 すっと近づいてきた道化姿の男の瞳をサラは見上げる。睫毛に縁取られた目は平凡なくすんだブラウンだったけれど、瞳孔の向こうにじわりと広がって見えたのは、サラの姿を鏡のように写す、墳墓の底のような漆黒だ。

 サラは瞳に映る自分の目を見つめ、ずるずると抱かれた胸元から滑り落ちる。

 不合理だと思いながら、それでも。他に進める道は思いつけないのだ。床に崩れ落ちる前に背が支えられて、それから、あれほど冷たくて惨めだった手足の冷たさがもうわからないことが嬉しくて、ほっと息を吐いた。

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