第266話 番犬、儀式に紛れ込む。
大集会とやらの日。
何食わぬ顔で信徒の一人としてネルは集会に混ざっている。
「神殿」の地下にある、壁を後から抜いたのだろうという広い部屋に百人近い数の信者が集まっていた。
時間はまだ昼間の範疇だが、「聖堂」という大仰な名前で呼ばれているそこは地下であるために陽の光は入らず、燭台がいくつも灯されているが明るいとは言い難い。
初冬に入っているというのに人いきれがするような空間に質素な長椅子が半円に並べられ、どうやら序列が上の信徒から順に前から座っているようだった。
ネルも最も後ろの長椅子の一つに腰掛け、開会を待つ。
しばしして侍祭らしき信徒が一人、後ろの扉のそばに立ち、開会の合図らしい手吊るしの銅鑼を打ち鳴らした。
開始からの流れに奇妙なところはない。直前にネルが付け焼き刃で学んだ「神殿の祭儀」の流れと一致して、司祭の入堂に合わせて聖歌が歌われ――崇める人の子らに加護を与える事を神々が約束したという伝説を歌う、神殿音楽として
――つってもな、ここの流れはおかしくない、ってことはわかるが、それしか解らねえのは困りもんだよな。
ネルは一度ぐらい「まともな」神殿の祭儀に出ておくべきだったかと少し後悔する。なにせ、昨日、普通の神殿の祭儀ではなにをするかというのを覚えておいたほうがいい、と意見が一致したくせに、
ネル自身神殿に近づいたこともなく、結局頼みの綱はお嬢さんが用意した子供用の行事作法の本だった。うまくお嬢さんがごまかして
その後灯りが落とされ、各人に蝋燭が回され、祈りの唱和が求められる様子だった。
ただネルは、蝋燭が回され、他の灯りが落とされたのと同時に薄く空気に混ざりだした香りに、この蝋燭のロウにはごく薄いが頭をぼんやりさせる類の効果がある草が混ぜてあるな、と考えていた。効果は持続するものではなく、この――もともと換気が極端に悪い――地下の「聖堂」から出ればすぐにしゃっきりした気分になる程度のものだ。その手の弱い薬は彼には効きづらく、糸の助けもあり、効果も認識しているためさほどの悪影響はない。
唱和の後、「マルシアル神が人に化身して地上に降りたころ」行ったという善行と起こした奇跡の逸話が司祭によって語られる。
これもだいぶ盛って大げさかつドラマティックになっているが、巷間で語られている「聖人マルシアル」の話とそれなりに一致はしているものだった。
そしてそれに引っ掛けて信者たちを良き人々と呼び賛美する講話。ぱっとそこまで違和感を抱くほどではないが、貴族を単純に搾取者と扱い、王の施策を抑圧として「あるかもしれない無辜の民の苦難」を語るのはいやらしいやり口ではあるなとネルは思う。
正直貴族がそう扱われることにはそうおかしなところはないと彼も思うものだが、『立太子があることでこういう政策が出るかもしれず、そんな事が起こったらきっと~~ということが起こるかもしれない、苦難に遭った民を救わなくてはいけない、良き人々はこれこれこのように救うために尽力するし団結する、その心はなんと尊いのでしょう、マルシアル様はご覧になっている……』……というふうに発展していく話題運びで、内容こそ信徒たちが普段何気なく口に出すそれよりもずっとマイルドではあるが、冷静に考えるとまずその政策とやらが仮定な時点で何一つ起こっていないのではないだろうか、と彼は内心醒めた気持ちで突っ込まざるを得ない。周りの信徒たちは暗い部屋の手元に灯る蝋燭の炎の揺れか、朗々とした司祭の声か。でなければ大気に混ざる香の助けによるものか、涙を流すものさえいるようだった。
不穏なのはその程度で、その後司祭に続いて、自らがマルシアル神の信仰者である、と唱和する祈り。そして前にある祭壇に蝋燭を捧げる儀式になる。これは普通の神殿の祭儀にも存在するものなのでおかしなことはない。多分。
特別な供犠や献金があるものは名を読み上げられるようだったが、その際に「貴族の身ではあるが教えに帰依し、財を溜め込むこと無く捧げ、正しい流れに戻すよき者」として不在だという注釈の数人の後にアブラーン卿とやらの名が呼ばれたのをネルは意識に留める。
どうやら最初から前の席に陣取っていたらしく、立ち上がって蝋燭を壇上に捧げるのは太り
そっと視覚を強化し、薄暗い聖堂の中でも男の顔を確認できるよう調整する。
――やっぱりか。
その名に聞き覚えがある、と思い当たったその男は、容姿にも見覚えがあった。
とはいえ、ヤロークの人間、というわけではなく、「顔を見たことがある」程度の相手だ。
彼は
――まあ、俺が見覚えがあるからってこの国の人間だしな。クロだとは言えねえが。
演奏会での事態を知った後、当時、
それでも、ヤローク側へ繋がりを持つ機会はあった人間だし、同時に、当時あそこに居た野心強い青年貴族たちのうちには、
ただの偶然、ということも世の中にはあるだろうが、怪しんでも損はない。これから洗う相手として算段をしたほうが良さそうだ、とネルは考える。立場的には
儀式は滞り無く進み、前の席に並んだ、位階が高いのだろうと推察される信者たちから順々に蝋燭を壇上に捧げていく。
その際に個人的な事柄を呟き祈る事が許され、蝋燭を信者が壇上に置いていく度に、司祭がその手をとり、祝福の仕草をしては名を呼んで、「貴方の祈りは届きました」と声を掛ける。百人分やるのか、とネルとしてはご苦労なことだとしか思えなかったが、これも信者たちの心には響くらしい。
とりあえずそんなことより、祭壇の上にはどうやら位置関係を考えると「神殿」の中庭に繋がると思われる装飾された給気口があり、そこだけは清涼な空気が流れ込んでいるようなのがネルには気になった。
――司祭がボヤけちゃしょうがねえ、ってのもあるんだろうが。あそこに立った時にだけ気分が爽やかになる、って仕組みもあるのかね。
儀式の盛り上がりに合わせてその位置に長く立つことになるのは意図的なものだろうな、と考えながら自分も蝋燭を祭壇の上に置く。前に並んでいたのが同じ日に勧誘されてきた若者で、司祭様とやらに手を取られて感動しきった顔をしているのに気づき、彼はなんとなくうんざりした気持ちになった。
その後、隣りにいる人間と手を繋いで聖歌を唱和するというセレモニーがあり、司祭が閉会の祈りを唱えて退席し、集会は解散を迎えたようだった。扉が開かれ、信徒たちはぞろぞろと階上に向かう。
上の階では小さなグラスで酒を振る舞っており、それは「回心した貴族」が寄進したものだ、と、配膳する伝道師が勿体ぶって言い、単純に信徒たちは誇りやら自尊心やらを満足させたようで喜ぶ様子なのをネルはぬけぬけとまあ、よく言う、と思いながら眺めた。
鋭くした彼の耳には立場が良いらしい信徒の数人と司祭がアブラーン卿とやらと別室に向かい、どうやら振る舞われる酒など比べ物にならぬ豪勢な酒食を用意されるようだということを聞き取っていたためだった。
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