挿話 寒雷 1

 灰色の空に雪の気配が強くなってきたお休みの日、スサーナはこっそり出かけることにした。

 おばあちゃんにはお嬢様のところへ出かけてきます、と言ったけれどそれは嘘だ。

 実際は下町にある小さな宿屋を目指すつもりだった。


 こっそり外出するのはおばあちゃんを心配させるかもしれないけれど、こればかりは仕方ない。誰かに付いて来てもらう訳にはいかない用件だった。


 黒犬と呼ばれたあの青年がその宿には寝泊まりしている。

 一度レミヒオに引き合わされ、なんとなく和解というか、打ち解けた、というか、やっぱり悪い人じゃなかったな、という感触を得たスサーナだったが、あまり深く会話できたというわけではない。


 そのうち島を離れる、と聞いていたし、スサーナはなんとなく、その前にもう少し色々なことを話してみたかった。


 前の日のお仕事の帰りにふと思い立ってお屋敷で貰ったお給金で度数低めの林檎酒とパイの材料を買ったので、林檎酒を一瓶と台所で焼いた雉のパイを自作の布鞄に入れてお土産にし、馬車に乗る。


 下町の猥雑なあたりで馬車を降り、路地裏に入って少し歩いたら目的の宿だ。

 元々民家を宿屋にしたらしく、たくさんの人数が泊まれる場所ではなく、外からもぱっとは宿屋だとわからない作りをしている。あんまりに変わった宿なので疑問に思ったスサーナがレミヒオになんでこんな所を知っているのか、と聞いたところ、島で暮らすようになってから知り合った他の鳥の民が教えてくれたのだ、と言っていた。

 うっすらと感じなくもない非合法の気配に、深く突っ込むのは辞めにしたスサーナである。


 中に入ると昼間なのに薄暗い日だからだろうか、ランプの光がぼんやり点いていて、飴色になった太い梁の陰影が幾重にも天井にかかっている。ホールの暖炉には薪が入れてあって、小さくパチパチ音を立てていた。


 入ってすぐの台所にいる宿屋の店主に一応会釈して、挨拶をしてから奥へ向かう。

 二階の隅の部屋が彼の泊まっている部屋だ。

 ドアの前に立ち、高めの位置を数回ノック。返事が戻って来る前に深呼吸を一度――。

 し終わっても、特に何の返事もない。

 スサーナは少し拍子抜けしながらも中の気配を伺った。

 シンとしている。

 ――お出かけ中なのかな。


 スサーナは一階に戻り、店主にお土産を預けることにした。


「すみません、二階の三号室の方が戻ったらこれを渡してもらっていいですか」


 林檎酒とパイなんですと言付けようとしたスサーナに店主はおやと声を掛ける。無愛想で余計なことは話さないように見えた男だったが、年若い少女だからか宿代を払っているらしいレミヒオが連れてきた人間だからか、少し親切に対応してくれるようだった。


「三号のお客さん、出かけてないよ。中庭じゃないかね」

「あっ、ありがとうございます!」


 スサーナは一礼して中庭を目指した。

 この宿の中庭は石畳で狭く、半分屋外の物置のようになっている。スサーナは夏の姿を知らないが、冬の今は冬枯れで空っぽの植木鉢がいくつか置かれているだけで、少し寒々しい。

 その真ん中あたりに置いてあるベンチに黒髪の人影が二つ。

 ――あ、レミヒオくんも来ていたんですね。

 なにやら会話している様子に話が終わった頃に声をかけようかと考えて、スサーナはなんとなく邪魔にならないよう、静かに近づいた。


「なるほど、組紐が。……それは、物心付く前から持っていたものじゃ?」

「どうしてわかった?」

「鳥の民の風習です。守り刺繍。身を護るように特別な魔法を頂いて親が授けるものです。ただ、貴方を護るように動いたなら妹さんは素質があったのかも知れない。」



 亡くなったという妹……彼の家族の話をしているのか。スサーナはそう察して少し離れたところで足を止めた。


「そうか……やっぱりあいつ、そうだったのか」


 青年が感慨深げに息をつく。後ろ姿の首が揺れ、ぼんやりと言葉を継ぐ。


「そんな力があったって死んじまうんじゃ何の役にも立たねぇよなあ……。」


 レミヒオが小さく肩をすくめた。


「ご愁傷様です。まあ、あって悪いものでも無いですよ。素質があれば誰かを庇うのはやりやすくなる。貴方も上手くしたら簡単な肌刺繍ぐらいは使えるようになるかもしれませんね。」

「肌刺繍……? 魔法じゃなくてか。」


 青年が、いかにも聞き慣れない単語を繰り返したという口調でレミヒオの言葉をオウム返しにし、きょとんと声に疑問を乗せた。

 ――あ、魔法のお話。それは少し気になるような。

 スサーナも少し耳を澄ませた。レミヒオの使うそれと、かつてエウメリアに見せられた魔法はそれなりに違うもののような気がしていて、少し興味があったのだ。


「糸の魔法の一つですよ。……そこにないものを糸だけを呼び水にして現すのは僕ら男には大抵荷が勝ちすぎる。」


 言いながらレミヒオが上げた手の甲に赤い刺繍糸が現れ、握ったり開いたりする指の先に重なるように長い爪の幻影がひらめいた。


 少し遠巻きに眺めながら、そんなに簡単にオンオフしていいものなのかとスサーナは少し心配になる。誰かに見られたらどうするのか。結構な秘密ではなかったか。

 とはいえ中庭には他に誰かが近づいてくる気配もないし、もしかしたら誰も入れないようにと店主に頼んでいるのかも知れない。


 しかし、話題が話題なのでなんとも声がかけづらい。身の上話の最中よりはいいけれど、技術的な、多分秘術の話の最中に近づくのもなんとなく勇気がいる。そう考えながら彼女は布鞄を植木鉢台の上に置いて、もう少し待っていることにする。


「これがそう。肌に糸を入れて体を動かす補助にする技術です。基本的には基礎能力の向上……力が強くなったり素早くなったりする。これはちょっと特別製ですが、大体そういうものと覚えてください。」

「……港で見たやつとはだいぶ違うな。」


 へえと感心した青年の声に子供みたいな好奇心が乗る。


「港? 見た? すみません、ちょっと詳しく話して貰えますか。」


 レミヒオの声に疑念と鋭い緊張が一瞬入り交じって尖り、それに気づいたらしい青年が訝しげながら詳しく話し出す。


「ああ、人質……あの子らが一度逃げた時な。ブルーノが追いついて斬ろうとした時に何もないところから青草が生え出てよ。剣に絡んで動きを止めた。ご主人サマは俺の才だと考えたようだったが」

「……成る程。」


 鋭く尖った声が穏やかさを取り戻す。


「そう考えるような相手でよかった。そうでなければ実に面倒くさい仕事が一つ増えていたところだ。……強い糸の魔法は大抵女手なんです。万が一ぐらいなら貴方がそれだけ世界に愛されているということもありえないとは言いませんけど、十中八九スサーナさんのほうの手ですね。」


 急に名前を呼ばれてスサーナはビクリと肩を跳ねさせた。

 ――今、なんて?

 すごく当然のことみたいに、今、なんで私の名前を。


「国で漂泊民カミナの魔法を欲しがって躍起になってた貴族共は混血は魔法を使えないとか言ってたが、そうでもねえのか。あの子混血なんだろ?」

「まさか!」


 レミヒオが語気に笑いを込めた。


「あんな混血が居てたまるものか。あの方が混血だって言うなら神代が終わってからの鳥の民はみんな混血ですよ!」


 スサーナは何かがきゅうっと喉にせり上がったような気持ちになる。吸った息がひゅうと大げさな音を立てた気がして、慌てて口を抑えた。


「そういうものなのか。自分で混血だと言ってたが」

「糸の魔法を使えるのは純血の鳥の民だけです。あの方は自分でそう思い込んでいるだけで――」


 スサーナは二人が振り返らないのをいいことに、言葉を聞かないようにしてその場を逃げ出した。


 そんな事があるはずない。だって、そんな自分ひとりで起こしたみたいなことなんて、ごく幼い頃のあのうさぎさん、あれぐらいしか心当たりがない。他のことは全部説明がつくはずだ。うさぎさんだってきっと自分でしたことじゃない。


 そんな事があっていいはずがない。だって、それじゃ。


 うまく考えが回らない。

 スサーナは遮二無二馬車を止めて乗り込んだ。

 早く帰ろう、と思う。

 カバンを置いてきてしまったと馬車の中で気づいたけれど、あれは元々渡してくるつもりのものだったしいい。そんなことより早く帰って、何か温かいものを飲もう。おばあちゃんにお願いして、牛乳を温めてもらって。

 なんだい12にもなって甘えん坊だねえって言われるだろうけど、今日はいいことにして、それで、飲み終わったら寝てしまおう。それがいい。


 馬車が家の前につく。スサーナは御者にお礼をいい、少し多めにチップを渡してから早足で玄関から家の中に滑り込んだ。

 玄関ホールに入って上着を脱ぐ。隅っこではおばあちゃんが持ち込んだ火鉢が耐熱台に載せられて静かに音を立てている。コート掛けに上着をかけて埃を払っていると、奥からブリダの笑い声がした。

 ――ブリダだ! 来てたんだ。

 スサーナはなんだか少しホッとする。おうちは何も変わらずに暖かくて、さっき聞いた話はなにかの気の迷いだったような気がする。


 スサーナは少し軽くなった歩調で声のしたほうを目指した。

 ――作業場でなにかしてるんですね。もう、お休みの日なのにお仕事の勉強とかばっかりなんだから。

 作業場に滑り込んだスサーナは一瞬トルソーに視界を遮られ、きょろきょろとブリダを探した。この季節の作業場はデザインや色の研究で試作した冬の厚いコートを着せたトルソーが立ち並んでいて、小柄なスサーナにとってはまるで林のようだ。


 ――あ、いた。ブリダ。

 ブリダに声をかけようとしたスサーナだったが、声を出す前にそっと口を閉じる。

 ブリダが一人ではなかったからだ。

 作業台にブリダと一緒について何か作業をしていたのは叔父さんだった。

 手を止めた叔父さんにブリダが笑い含みの声で休憩にしましょうか、と言う。

 いつもどおりの光景。


「あったかいお茶を淹れてきましょうか。」

「うん。ああ、少し待って。」


 叔父さんが作業台の上に広がっていた、カッティングレースの技法とパイピングを多用したとても可愛らしいケープを広げてブリダの肩にかける。


「バランスはどうです?」

「うん、思ったとおりよく似合うよ。」

「もう! そんな事聞いてやしませんよ!」


 ブリダと叔父さんが目を合わせて笑い合い、叔父さんが小さく腰をかがめてブリダにキスをした。


 普段のスサーナだったら大喜びの光景だ。悪かった気分が一気に最高になっても全くおかしくない。

 でも、なぜだろう。このときのスサーナはきゅっと息が詰まったような気分がした。


 邪魔しちゃいけない。

 スサーナは、二人に気づかれる前にそっと作業部屋を出た。


 玄関ホールに戻る。なんだか居心地の悪いような気持ちで深呼吸を一つ、それからスサーナは台所に行こうと決めた。

 料理人さんのこないお休みの日のこのぐらいの時間、おばあちゃんはよく台所でちょっとしたものを作っている。その証左のように、なんだか甘い匂いがした。

 中庭沿いの回廊に出て、肩を縮めてぱたぱたと歩く。

 牛乳をあっためてもらって、甘いものをねだろう。それから、ええと。

 そう考えながら歩くスサーナは、居間から響いた小さな子供の明るい声にふっと足を止めた。


 ――ルブナ叔母さん。エド。

 お休みをいいことに、ルブナ叔母さんがちっちゃなエドを連れて遊びに来ているのだ、とスサーナは悟った。

 ちっちゃなエドは二歳と半分で、やんちゃで好奇心旺盛で、最近良く喋るようになった。今が可愛い盛りというやつだ。

 スサーナはそのまま居間に入っていく気分にはなんとなくなれなくて、回廊の窓からそっと居間を覗き込んだ。


 ちょうど何かお菓子が仕上がったところだったようで、台所と繋がった入り口からお盆を手にしたおばあちゃんがやってくるのが見えた。お盆の上に乗っていたのはおばあちゃん得意の焼き菓子で、暖かそうな湯気が上がっている。

 まあるくボールの形に縫ったクッションを投げ上げて遊んでいたエドがはしゃいだ声を上げた。


「ばーば! おいちいの!」

「はいはい、おおーきくなれるように一杯お食べ。」

「もう、母さんったら。エド、ご飯の前には一個だけよ?」


 ルブナ叔母さんが笑っておばあちゃんをたしなめる。

 ええーっと可愛く駄々をこねてみせたエドがおばあちゃんの前掛けに絡みついた。

 ぷくっと膨らめた可愛らしいほっぺたはルブナ叔母さんにそっくりだ。ふわふわな髪の毛がぱさんと揺れる。

 おばあちゃんと、ルブナ叔母さんと、お揃いみたいな紅茶みたいな色の髪。


 スサーナはなんだかすごく喉が痛いような気がして、足元がふわふわするような気もして、正体のよくわからない追い立てられるような衝動に駆られたままあたりを見回した。

 明かりを落とした裏口が目に入り、逃げ場を探す獣めいてそちらに向かう。


 裏口から出て、ドアの裏側に体重を預ける。喉からきゅうという何かの鳴き声のような呻き声がかってに漏れた。


 そのまま座り込もうとしたスサーナだったが、裏庭の向こうからレーレ叔母さんが布の大荷物を持って歩いてくるのが目に入る。山のような布の向こう側で、おっとりしたレーレ叔母さんにぴったりの形に緩く結った紅茶色が揺れている。

 スサーナは、レーレ叔母さんに気づかれないうちに何も考えずに道に駆け出した。

 頭の芯が痺れたような気がして、口が乾いてたまらない。周りに見えるものがなにもかも余所余所しいようで、何処に行ったらいいのかうまく考えることも出来ないでいた。


 頭の中を単純な言葉がぐるぐると回っている。

 ――叔父さんが私を気にかけてくれるのは、一番上のお兄さんのお父さんのことを、叔父さんが尊敬しているから。

 おばあちゃんが私のことを立派な大人にしようとしてくれるのは、お父さんがおばあちゃんの長男だから。

 じゃあ、もしそうじゃなかったら。私がお父さんの子供じゃないのなら。

 ここは私の居ていいところじゃないのでは? 私を抜いた形のほうが、おうちにとっては正しいんじゃないだろうか。


 何処からかカチカチ音がする。スサーナはしばらく何の音かわからずにぼんやりと煩いな、と思い、それから自分の歯がカチカチとなっている音だと理解する。


 ――レミヒオくんは私より絶対魔法に詳しい。勘違いかもと思ったけど、きっと勘違いじゃない。……だって。だって、私だけ、どこもうちの人たちに似ていない。

 子供が片親にだけよく似るというのはある話だ。特に目立つ特徴があるのならそれでもう片方に似たところが覆い隠されてしまうということはあるだろう。これまではそうなのだと思っていた。

 だが、魔法という超自然が素直にそう信じさせてくれない。

 両親ともに鳥の民でなければ彼らの魔法は使えない。それはとてもありそうな法則に思えたし、スサーナが魔法を使ったとレミヒオが疑いなく思っている様子がなにか彼女自身にはわからない確信を持っているようで、スサーナには否定できなかった。

 鳥の民のことはなにもわからない。何も、知らない。家では、彼らの事が話題に出ることすらないのだ。

 彼らが歓迎されるはずの季節の祭りの時ですら、漂泊民に関する事柄が家人の口に上ることはない。


 歩けるところまで歩いて出た大通りは人の気配があんまりに強くてたまらなかった。皆何かを考えて歩いている。話し合う二人連れ。手をつないで歩く親子。快活な表情。堪えても堪えても体の奥のほうから震えが来る。


 スサーナは乗り合い馬車に手を振った。お金は持ったままでよかった、と思う。

 馬車が目の前に停まる。都合良く誰も乗っていなかった。変に知り合いなんかに顔を合わせないで済んで、スサーナはホッとする。

 この馬車の行き先は知らないけれど構うまいと考える。逆に都合がいいような気さえした。何処か、誰もいない、静かに考えられる場所に行きたかった。


 馬車のタラップに上がる後ろで親子連れが弾んだ声を上げる。


「かぁさん、見てぇ、雪!」

「ああっホント、雪ねー」

「積もったらソリできる!?」

「出来るかしらねえ、積もったらいいねえ」


 幼い少女が満面の笑みでちらちらと落ちる白い欠片に手を伸ばし、手に受け止めたものを母親らしい婦人に見せているのが横目に見えた。

 スサーナは扉を閉じ、座席に小さくうずくまった。


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