第105話 赤鉄鉱の犬 5

 粥はやっぱりこの世のものとも思えないまずさだった。

 枯れ草の匂いに似た異臭と酸化した糠に似た硫黄臭と遠くでなんらかの発酵臭。加えて青カビに似たつんとした香り。

 そして本体は無味、と言いたいところだが、後味に淡く妙な渋みと酸味が残る。


 頑張ってふた匙までは口に運んだが、もともと食が太いほうではないスサーナはそこでどうにも飲み込めなくなってしまった。


「食の細いガキだな……」


 匙を置いたスサーナを見ていた青年が声を上げた。


「食べている間待って頂いてるみたいですし……お待たせするのも申し訳ないです、ちょっとこれ以上食べられないみたいで……」


 スサーナは喉頭がぐっと膨らむような吐き気の前駆まで感じ取っている。

 完全に体が飲み込んではいけないものだと判断しているらしかった。


 青年本人は会話の後に自分の皿の方の粥を一分もかからず飲み込み終わっている。


「息を止めて飲めばいい。夏の残飯と同じだ。これはそれよか少しはマシだがね。ご主人サマは下僕が飢えぬようお気を使って下されてるってわけだ。」

「夏の残飯……ああ、これ、やっぱり不味い物でいいんですね……異国の知らない食べ物なのかと思いました……」


 食べるのを待つのが暇なのだろう。青年はだいぶ饒舌になっているようだった。

 表立ってけなす単語を抑えていたスサーナはこれは不味いと言っていいやつだったのか!とちょっとホッとする。


「少なくとも毒じゃない。空き家の厨房に何年も置いてあった挽き割り穀を下賜いただいたもんだが、腹を下して死ぬことはなさそうなのは数日食ってる俺で実証されてはいる。」

「そ、そうでしたか……お国の食べ物を貶したとかではなくてよかったです……」


 ほっとして言ったスサーナに青年がぴくりと表情を動かす。

 少し鋭い表情になり、粥の皿を覗き込んでいるスサーナに問いかけた。


「お国? 異国人と? なんでそう思った?」

「あっ、ええと、ごめんなさい……なんだか……言葉……たまにアクセントとか、なんだかちょっとそんな気がしただけで……深い意味はなくて……!」


 スサーナは慌てた。そうであれそうでなかれ誘拐犯としては素性を詮索されるような言動は面白くないことだろう。

 彼の言葉、いや、さっきやってきた貴族らしい人物も、ブルーノと呼ばれる男も、アクセントを入れる部分がほんのすこし違う単語がある。そのアクセントの入れ方が異国……スサーナが習った中ではヤロークのものに近いような気がしたために、スサーナは青年と会話するうちにこれは異国の人だろうかと思いだしていた。うっかりそれがするっと口から出たのだ。

 ぜんぶ夏の残飯というパワーワードが悪い。


 ぴゃっとなってわたわたと弁解するスサーナの言葉をしばらく咀嚼し、青年はぐしゃぐしゃと髪を掻く。


「それは他の奴には言うな。気づかなかったことにしろ。処分されるぞ」

「はっ、はいっ! 言いません!」


 スサーナはぴんと背を伸ばして返答し、この会話をこれ以上続けないために匙を取り、口の中に半さじほどの粥を放り込んだ。



 激烈な違和感。


「うぐ」


 涙目になる。

 スサーナは口を抑え、吐き気が去っていくのを待つ。

 唾液が異様に分泌されるのが厭わしい。飲み込むものが増えるし、別に味を軽減してくれるような気は一切しない。


 その様子を眺めた青年が呆れたような表情になり、言った。


「匂いが鼻に抜けねえように飲めよ。下手に喉の奥で飲もうとすると口中に味が回るぞ。」


 ……


「……ぷええ! お、お詳しいんですね……!」


 どうにかこうにか粥を飲み込み、嘔吐えづきを乗り越えたスサーナは一気に息を吐き出した。


「浮浪児をしてると慣れるぜ。夏の残飯も随分食ったからな。」


 青年の言葉にスサーナはなんと返していいかわからなくなり、慌てて謝る。


「ご、ごめんなさい……」

「別に……。」


 非常にいたたまれなくなったスサーナだが、流石にこの沈黙の打破のためにもう一匙粥を口にするのは無理がある。

 次こそ絶対に吐く。そう感じたスサーナは、とりあえず目の前に見えている話題から転換しようと半ばやぶれかぶれで口を開いた。

 ……別に会話をする必要はない、ということはこの時完全に意識から抜け去っていた。


「ええっと、ええと、あの、ええと。その、浮浪児、って、あなたは漂泊民……鳥の民じゃないんですか?」


 言ってからなんだかもう少し言いようがあった気がしてスサーナは唸った。浮浪児に食いついたみたいになってしまった気がする。

 機嫌を損ねたかなあ、と見上げた相手は、表情すら変えず口を開いた。


「路地裏の捨て子が生まれなんか知るかよ。」


 あう、となったスサーナを見下ろし、僅かに半眼になり、何を思ったか続ける。


「……ただ、10を越して神殿に近づかなくても何も起こらなかったからそのなんとからしいよな。黒毛なんて大抵そういうものだろ。ああ、お前、違うのか」

「あっいえ、ごめんなさい。私はその、違って……その、漂泊民なのは半分だけで……ええと、ごめんなさい。」


 ああっ藪蛇! 話題運びを完全に間違ったやつ! スサーナはそう思いながら小さくなった。さらに言えば違うとか完全に言う必要のない単語だ。

 一旦慌てたせいなのか、話題運びと返答にボロッボロにボロが出ている。相手の心情的にもこちらへの好意的感情? みたいなものの瓦解的にもナシきわまりない。


 しょんぼりぺしょんとなったスサーナを眺めて青年はなんだか面白い小動物でも目にしたかのような顔をした。


「半分……混血ってやつか。……もしかして、庶子か? お前。」

「あっいえ、そういうことはなくて……」

「まあいい。ろくな扱いをされてないのはかわらねえだろ。」


 あらぬ方にかっ飛んでいく勘違いになんだか尻の座りの悪い思いをしつつ、スサーナは少し奇妙に思う。


「あの、私、そんなろくな扱いをされてなさそうです……?」

「さっきの反応。」


 はて、とスサーナは首をかしげる。ろくな扱いをされていないようなさっきが思いつかない。


「見れば判る。あれは一方的に殴られ慣れてるやつの動きだ。」


 妙に確信に満ちた物言いにスサーナの首の傾きが気分的に深くなった。

 スサーナはろくに叩かれ慣れた経験などない。小さな頃体が弱かったせいもあり、おばあちゃんもおじさんも叱る際にお尻を叩くことすらしない。こんこんと言い聞かせるタイプの躾方針である。第一ほとんど叱られた経験もないのだ。


「そんなこともないと言いますか……ええと……」


 訂正しようかとも思ったが、なんだか相手の口調があんまりに確信に満ちていて、口頭で違うと言っても効かない気がする。それに、なんだか今はこの勘違いに乗って可哀想なこどもだと思われておいたほうが便利そうだ。スサーナはすばやく判断し、曖昧にふにゃふにゃとごまかすことにした。


「どこの奴も同じだな。人を虫けらみたいにしか思ってやがらねえ。」

「ええっと、そんな人ばっかりではええと、その。」


 もごもご言いつつもスサーナはなんとなく得心した。多分、このお兄さんの扱いがそんな感じだったことがあるのだ。そういえばさっきもなんだか嫌な感じだった。もしくは、誰かを自分に投影している?

 最近セルカ伯がなんだか楽しい気さくなおじさんなので色々忘れかけてはいるが、確かに10歳の頃乱暴な貴族に殴られかけた事を思えばああいうタイプの貴族は多いのだろう、と推察できる。


「貴族、お嫌いなんでしょうか」

「当然だろ。生きるためには蝦蟇のイボでも舐めるのは仕方ねえが、そうでもなきゃ……」


 青年の声に険が混ざる。反感と怒りの混ざった色の声のように思えた。


「お喋りしすぎたな。もう食わないなら俺は行く。」


 短く黙り、一呼吸した青年がスサーナの手から匙と皿を取り上げた。


「手を後ろに組め。動かそうとするなよ。皮が剥けるだけでは済まなくなるぞ」


 スサーナは大人しく従いながら内心思案した。

 さっき居た偉そうな人は貴族っぽく思えた。もしかしたらこの人、自分の主人が好きじゃないのかも知れない。どういう事情で従っているのか。もしかしたら、寝返る理由さえあれば離反を誘えるかもしれない。次善の策として覚えておくべきか。


 後ろで組んだ手首に縄が巻かれる。手首の間にも縄が渡され、抜く余地は薄そうだが、食い込むほどではない。流石に言葉を交わした相手、赤剥けかけ、見た目には派手に痛みそうな手首に配慮したくなったのだろうか。


 スサーナは冷静に判断する。

 ――多分、棚の下のナイフが取れないほどじゃない。


 青年は手首を縛り終わると粥の盆を持って去っていった。

 灯りが持ち去られた室内にスサーナは残される。


 スサーナはしばらく耳を澄ませ、遠ざかった足音が戻ってくる様子がない事を確認すると、足の縄をもたもたと抜き、それから転がって棚の下を目指した。


 ――今夜遅くって言っていた。多分、縄を何とかする時間はある。


 腕の縄を切って、それから足を縛っていたほうの縄を使って抜けるやり方をまた作る。足の縄はスカートの下になって見えないはずだから切れた縄で巻きを少なく作ったところで簡単にはばれないはず。

 移動すると言っていたからには、多分馬車だ。現代日本の自動車よりもずっと監禁するには向かない乗り物。


 馬車に乗るタイミング、もしくは乗ってからでも、縄を外して飛び出す。

 頭とお腹さえ守れば、多分死なない。


 スサーナはそっと食事中に立てた計画を反芻していた。






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