未来への標

 その頃、ニア村では恒例の朝の市が立っていた。近隣の村から出品したり買い出しにきている人々で、広場はごったがえしていた。

 ティアはメモを見ながら買い物をチェックしている。その少し後ろでは、紙袋を抱えたクリューガが歩いていた。包帯は当然のことながらまだ取れていない。


「絶対安静の怪我人がお買い物のお供かよ……」


 うふ、とティアは笑った。


「そろそろリハビリが必要でしょ?」

「リハビリならここじゃなくっても出来るだろ? そうだな……例えば、ベッドの上とか」


 クリューガの甘い囁きに、なぜかティアは表情を曇らせた。


「なんだよ、ティア?」

「セイントでは言いにくいから……だから、今日、市に誘ったの」


 ティアはクリューガに背を向けたまま、小さな声で語りだした。


「何か勘違いしてるみたいだから……」

「俺が? 何をだ?」


 こほん、とティアは咳払いをした。


「クリューガだけじゃなくてみんな勘違いしてるみたいなんだけど。私に赤ちゃんなんて出来てないのよ」


 クリューガは呆然と突っ立っている。周囲では忙しく人々が行き交い、そこだけ時が止まったかのようだった。

 こほんこほん、と咳払いをしてティアは続けた。


「赤ちゃんが出来たのは、私の姉なの。防衛戦に出たあの日、ボルネがエルフの里からの手紙を持ってきてくれたのよ。私、気分が悪くなってうずくまってたら、ポーチから手紙が落ちちゃって。拾ったついでに中身を読んだの……うれしくて『赤ちゃんが出来たの!』って叫んじゃった……」

「でも、酷いつわり……」


 クリューガの指摘にティアは頬を赤くして俯いた。


「つわりじゃなくて! ちょっと太ってきたから、ボルネに頼んでダイエットの秘薬を手に入れてもらったのよ、食欲を抑えるの。それがすごく不味くて、飲んだら3時間くらい何も喉を通らなくなるの……」


 クリューガはなんだか白っぽくなって固まっていた。クリューガに向き直るティア。


「最初はわからなかったんだけどみんなやあなたの様子を見てるとどうもおかしいでしょ? もしかして勘違いしてるのかなあって思ったんだけど……面白かったから黙ってたの。そのうちトウマやカレンが大変なことになっちゃって、あの事件でしょ? 打ち明けられる状況じゃなかったもの」


 えへ、とティアは舌をのぞかせたが、クリューガは心ここにあらずだった。否、魂が抜けているというぐらいだった。

 ティアは仕方なさそうに笑い、クリューガの手から紙袋を取り上げた。


「だからね、ごめんなさい。騙したわけじゃないけど、クリューガ。あなたをさんざん悩ませたようだから。私、まだ買い物があるから先にセイントに戻ってて、ね?」


 笑顔のまま、ティアはクリューガに背を向け、歩き出した。足早に。

 見たくなかったのだ。妊娠が誤解と分かって、ほっとしている顔を。

 あれほど葛藤し、さんざん悩んでいたのだ。その長い道のりを、ティアは複雑な思いで眺めていた。クリューガが戦いの中、自分を、自分の子と共に守ると体を張ったときは嬉しかった。仮初めであっても、クリューガの本音を引き出すことができたのだから。

 大人の男と女だからこそ、なかなか本音が言えない。素直になれないことがあるのだ。こと、クリューガは女に対して自信がある。ティアもそこそこ道理が分かっている。二人はつかず離れずの駆け引きを繰り返してきた。小さな誤解が、男と女の名誉を吹き飛ばした、というわけだが、とても後味が悪かった。


(――狡かったのは私のほうだもの)


 ティアは口元から笑みを消した。もう無理に笑う必要はない。


「……あー、よかった」


 クリューガの声が真後ろから聞こえた。最も聞きたくない言葉だ。ティアは構わず歩き続ける。クリューガはティアを追い越し、手から紙袋を奪った。


「……!」

「ティア。俺が、自分の好きな女に俺のガキが出来たとして、それを喜ばない奴だと思ってんじゃないだろうな?」


 ティアはぎゅっと唇を噛み、大声で言い返した。


「だって……すごく悩んでたじゃない! 白っぽくなって! すぐに認めてくれなかったじゃない!」


 通行人が何人か立ち止まって振り返る。両脇に並ぶ店番も眺めている。


「違う!」


 クリューガが吼えた。その勢いに、ティアはおろか周囲の人間もびくっと肩をすくめる。


「俺がさんざん悩んだのはな! お前を抱いた記憶がからっっきしないから、だ! 念願叶ってお前を抱いて、せっかく授かったガキなのに、なんでそんなこと覚えてねえのかって……情けなすぎるだろうが!」


 赤裸々な告白に、ティアは首筋まで真っ赤になった。周囲からひゅーっとひやかしの口笛が起きるが、クリューガの一瞥で静まり返る。


「だって……クリューガ……私よりお酒、弱いんだもの……」

「違う、それも大いに違う。お前が強すぎるんだっ!」

 

 ティアは睫毛を伏せながら、小声で囁いた。


「そ、それに……まだ、何もないわよ? 私たち……クリューガ、一気飲み競争でいつも先に酔いつぶれるから」

「な、なんだってーーーー!」


 衝撃の告白に、クリューガは頭を抱えた。


「俺はッ! そんなに甲斐性なしだったのかーーーッ!」

「落ち着いて、お・ち・つ・い・て!」


 ティアはぽんぽん、とクリューガの腕を軽く叩いた。


「じゃあ、あなたが元気になったら飲み較べの勝負をしましょ。私、今度も手加減しないから」


 あー、とクリューガは首筋を掻いた。


「なあ……勝負しないと、ダメなのか?」

「……え?」

「俺はよ。どんな化け物だろうが贄神だろうが、絶対に退かねえ。負けられない理由があるからだ。だがよ、俺はお前に勝負ごとで勝てる気がしないんだ。とっくに負けてんだよ」

「クリューガ……」


 ティアの瞳が、涙で潤んでいる。そしてぽろり、とこぼれおちた。近接戦の獣神が、ただ一人の女に負けを認めているのだ。

 その涙を、クリューガの指が拭う。


「泣くなよ」

「だって……」

「泣くと、傷が痛む」


 クリューガはうっ、と体を二つに折った。


「おー、痛い。こりゃ安静にしてなきゃマズイ!」

「もう、バカね」


 差し伸べられた手を掴み、クリューガはティアを抱き寄せ耳元で囁いた。


「早く手当してくれなきゃ死ぬな、これは」

「まだ当分無理しないで。リハビリをしてからねっ」


 くすくす、と笑っていなすティア。それでもクリューガはしつこく食い下がった。


「リハビリならベッドの上でもできるっつてんだろうが。どうだ、この提案?」

 

 ティアは買い物の紙袋をクリューガにぎゅっと押しつけた。


「私に腕相撲で勝ったら、完全に回復したって認めてあげる」


 そう言って、ティアは片目を瞑った。


「――絶対無理じゃねえかぁぁぁぁ!」


 振り回し、振り回されながら、大人の駆け引きはまだまだ先が長いのだった。



■□■



 午前10時をとうに過ぎた頃。セイントの西の塔の階段でちょっとした騒ぎが起きていた。


「もーーーーっ! なんなのよ、このロボットの壁はっ」


 リリアームヌリシアが箒を振り回しながら叫んでいる。

 階段にみっしりと見張りロボットが列をなしてならんで、塞いでいるのだ。ロボットの頭の上ではレイが涼しい顔をして寝そべっている。


「ちょっとお! レイ! このロボット退けなさいよっ」

「リリちゃん、落ち着いてよお」


 イヨがなだめる。


「だって、出発の時間なのにトウマがいないんだもの。部屋はもぬけの殻だし、ここしかないじゃない!」

「昨日まで帰るのイヤだって泣き叫んでたじゃない。ディアナ様がリリアトリシア様に事情の説明をしてくれたって連絡がきて、やっと帰る気になったくせに……」


 ディアナのとりなしがあり、母親が会いたがっていると聞いて、リリは帰る気満々なのだ。吊り橋が落ちた村の救援に行くトウマたちと同行し、フィンゲヘナへ帰る予定なのだった。


「イヨ! アンタ誰の味方なの!」

「ご、ごめんなさい~!」

「と、に、か、く。トウマが来ないと出発できないんだから。カレンとトウマ、なにしてんのかしら?」


 レイは素知らぬ顔で言った。


「そりゃあたくさん話をしたり……色々あるんでしょ」


 そのとき、慌ただしい足音が響いた。トウマが階段を駆け下りてくる。


「あーっ、トウマ! やっぱりここにいたっ!」

「うおっ、なんだこのロボ壁!」


 トウマはロボットの頭に手をついて、ひょいっと跳び越えた。レイがたたたっ、とトウマの腕から肩によじのぼる。


「ねえねえ、トウマ!」


 トウマはレイの口を、軽く手で塞いだ。


「レイ。後でカレンのとこに行ってやってくれないか?」


 きゃは、と嬉しそうに笑うレイ。


「ふんふん、そっかそっかー。いいねえ、若い者は~」

「勝手に言ってろ!」


 レイをロボットの頭に降ろすと、トウマはリリとイヨに向き直る。


「剣と防具と取ってくるから、転送装置の前で待っててくれ」

「もーっ、何やってたのかしゃくめいしなさいよっ」


 ぷ、と頬を膨らませているリリのドレスの裾を、イヨがひっぱった。


「リリちゃん。そこはあんまり突っ込まないところだよ」

「なんでよ! イヨ、あんた何か知ってるの」

「知らないけど、でも、なんとなく予想がつくよね」


 皆目検討がつかないリリは、腹立ち紛れにイヨの両耳を握った。


「ムカつくわねーっ、教えなさいよ!」

「そ、そんなの僕が言うことじゃないよ……あああ、リリちゃんいたいよーっ」


 大騒ぎの魔属っ子二人組を置いて、レイはととと、と階段を登っていく。

 カレンの部屋の扉を開けて、そっと中に滑り込み、小さく声をかけた。


「カっ、レ、ン……?」


 返事はない。カレンはクローゼットの前で奮闘していた。


「なに、やってんの――――?」


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