エピローグ、なべて世はこともなし
トウマとカレン
前に走っていた。光を目指して。
後ろからはいつも闇が迫っていた。過去がトウマを飲みこもうと大口を開けていた。だが、今は隣がほんのり温かい。温もりが共に光へと目指す。足が重くなった気がする。心地良い重さだ。
歩くような速さで。
今度は一緒に歩いていこう。
「……カレン?」
「そうよ」
ああ、うん、とトウマは意味不明の相槌を打つ。
トウマの手が伸ばされ、カレンの頬に触れた。いきなりのことでカレンは目を大きく見開いたままだ。トウマの手は温かい。だがカレンの頬は血が昇り、もっと熱くなっていた。
カレンの中で心臓がばくばくと大きな音を立てている。
――これは……もしかして……流れ的に!
トウマの手が、カレンの頬の感触を確かめるようにゆっくりと動く。
――私、トウマに触られてる……。
それは、とろけるような甘さとじんじんする疼痛を伴ってカレンの感覚を麻痺させていく。
ぐいっ。
トウマはカレンの頬をひっぱった。
「夢、じゃないみたいだな」
甘い感情が音を立てて崩れていく。
カレンはトウマの顔に、手繰り寄せた魔導書を全体重を乗せて押しつけた。
「むぐぐっ!」
「どうしてトウマって……どうして……そんなに……!」
「ぐああああああ!」
トウマは再び動かなくなった。
カレンはすっくと立ち上がる。
「トウマが寝込んでから、もう5日目のお昼よっ!」
「……そういや、何も喰ってねえ……腹減った」
そんなに長く眠っていたのか。トウマらしい言葉に、カレンは苦笑いした。そういうカレンも、3日前まで眠りこけていたのだった。
皇帝と魔王はその間も復興に身を投じていた。その甲斐あってか、事件は一応の収束を見せている。
瀕死のクリューガはリペアシステムとティアの献身的な看護で奇跡的な回復を果たした。本人はやたら嬉しそうだった。その間、セイントの守りはカリヴァとガリュウが中心に引き受けていた。と言っても、大規模な襲撃はもう起こらなかったが。リリアームヌリシアとイヨはあれからもセイントに入り浸っていた。
――きっと私たちのテンポはこんな感じなのね。それを繰り返しているうちに距離は縮まっていくんだわ。
レイとゼロはゲノムと一緒にセイントのプログラムの点検をしている。喧嘩しながらも、どこか仲が良さそうな雰囲気があった。
「今日は何も用意してないけど……明後日の朝ご飯、私が作るわ」
「なんで明日じゃないんだよ」
「準備には時間がかかるのよ! ……罰ゲームは手間をかけないと、ね」
「手加減してくれよな!」
トウマは大声をあげて笑った。
本日は快晴。青空が、広がっていた。
鮮やかな水色の空。新緑から濃い緑を纏う木々。照りつける太陽の温度。昼の長さ。ニアネードの森と、その中にあるニア村にはすでに夏が感じられた。
辺境の事件はどうやら解決されたらしい。
確たる真相はまだ発表されていないが、いち早く聞きつけた気の早い商人たちが、ニア村を訪れ、辺境への旅の準備を整えている。夜明けの、浮き立つような華やかさが村に満ちていた。
ブリガドゥーンの城の決戦からちょうど7日。未だに実感が湧かないところもある。それでも、絶壁の中にひっそりと佇むセイントも、ようやく平穏を実感できるようになった。
早朝。バルコニーに明るい日差しが振り注いでいる。今日もよく晴れ、暑くなりそうだった。
トウマとカレンはブランケットに座り、壁に背をもたせかけ、時折空を見ながらとりとめのない話をしている。
カレンはレースで出来たノースリーブワンピースの上に軽いニットのカーディガンを羽織っていた。トウマはというと、胸当てや剣こそ装備していないが、黒のパンツに体にフィットしたノースリーブシャツ、ごついワークブーツと、完全な旅装である。
先日の事件の影響なのか、激しい集中豪雨が発生し、魔属領近くの村の吊り橋が落ちたらしい。村人が助けを求めにはるばるニア村までやってきたのだ。村長が一大事だと、トウマに知らせたのだった。
「寝っぱなしだったから体が鈍ってる。運動がてらにオレが行ってくる。カレンはセイントの修理とか、頼むな」
そう言われて、カレンは素直に頷いた。留守番でも、以前のようにもやもやとしたわだかまりはない。
出発は朝10時。それまでの時間、二人っきりで罰ゲーム――ならぬ朝食を楽しんでいた。二人の間にはサンドイッチとフルーツが盛ってあったバスケットが空になっている。
「すっげーうまかった! ローストビーフの味付け、ティアみたいだ」
トウマが誉め言葉を口にすると、カレンはぎこちなく笑った。
「うっ……ローストビーフはティアに作ってもらったの……」
「……そ、そっか。あ、フィッシュパテもうまかった!」
「それ……ニア村のマリーおばあちゃんの店で買った……」
カレンはカレンなりにすごい物をつくろうと作戦を練っていたのだが、一日目の仕込みでどこをどうしたのか砂糖よりも甘いベーコンを作ってしまい、急遽ティアと市販品にヘルプしてもらったのだ。料理の達人への道はまだまだ険しかった。
「で、でも! デザートのお菓子はがんばったの」
カレンは傍らに置いていた箱を、トウマに差し出した。トウマが箱を受け取って蓋を取ると、ピンクや白、緑の可愛らしいマカロンがカップに盛られていた。
「お菓子は……ちょっと上手になったのよ」
ぼそぼそと呟くカレン。トウマはマカロンとカレンの顔を見比べている。
「じゃ、いだだきます……うん! うまい! カレンが作ったとは思えない!」
「しっ、失礼ね! それは本当に私が作ったんだから! 2回失敗したけど!」
何か思い出したように、トウマは手を止めた。カレンの顔をちらちらと窺う。何か言いたげだ。
「あのさ……ちょっと頼みがあるんだけど」
「なあに?」
トウマはさんざん迷った挙げ句、ようやく頼みを口にした。それは――
「ええっ! 私が、トウマにマカロンを食べさせてあげるのっ!?」
「いやっ、ダメならいいんだ、何となくこうっ……浮かんだだけだから!」
トウマらしくない発想に、カレンは目を細めてトウマを見た。トウマはそっぽを向く。
「ねえトウマ……そうゆうの、誰から教えてもらったの……?」
「あ、うん。教えてもらったとかじゃねえから……やっぱいいわ! 残りいただきまー……」
カレンはトウマの手から箱を奪い返した。
「トウマ? 怒らないから教えて、ね?」
「充分、怒ってる気がするんだけど……あ、スイマセンゴメンナサイ」
とうとう、トウマはエレーナ姫からされた仕打ち(?)を白状させられた。
「あっそう! ふーん、トウマはエレーナ姫様からそんな風にお菓子を食べさせてもらってさぞ幸せだったんでしょーねっ!」
「うん、なかなか……あ、ほんとスイマセン」
ぷん、とカレンは頬を膨らませて箱を脇に置き、立ち上がった。つかつかと、バルコニーの手摺りのところまで歩いていく。トウマも慌てて立ち上がり、後を追った。
「悪かったって!」
トウマにしてみれば何が悪いのか良く分かっていないが、とりあえずカレンが怒っているようなので謝った。カレンはそっぽを向いたままニアネードの森を眺めている。風が金髪を乱していった。
「じゃ、何が悪いのか言ってみて」
「うーん……」
考えこむトウマを横目で見ていると、カレンは怒っているのがばからしくなってきた。そもそもカレンの怒りはすごく私的なものなのだ。トウマに説明しろと言っても簡単に解き明かせるものではないだろう。困り果てているトウマに、カレンはとうとう吹きだした。
「トウマってやっぱりトウマね!」
「意味わかんねえよ、それ」
ひとしきり笑ったあと、二人でニアネードの森を見つめる。
出会った頃は同じくらいの背だったのに、今はトウマのほうが背が高くなっていた。カレンはトウマの目線くらいの身長だ。時の流れをカレンは感じていた。つい2ヶ月前までは、そんなささやかなことすら分からなくなっていたのだ。
「もう、すっかり夏ね……緑が濃いわ」
「はええな……」
それまでにあったことが蘇り、深い沈黙が降りた。
喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、憂い、嘆き、嫉妬――人間のあらゆる感情を剥き出しにした戦いは、まだ過去にはなっていない。
「私たち、生きてるのね」
カレンの呟きに、トウマは頷いた。
「そうだ。これからも全部、背負っていく……置いていくなんてのは、勘違いだ」
カレンはトウマの顔を見た。トウマは朝日に輝くニアネードの森と山々を見つめている。
「あのとき……真っ白な光の中で、ネルに会えた」
「うん。私も、キリクと話をした」
「きっと、命を掛けるって、こういうことなんだな。前もそうだったけど夢中すぎて分からなかった」
かりかり、とトウマは頭を掻いた。
「上手く説明できないんだけど……さ。自分の命ってだけじゃなくって、背負ってきた想い全部で勝負するってことなんだ」
「うん。私もそう思う。贄神との戦いは究極の決戦なのね……」
相手は悪ではない。神でもない。掛けるものは自分自身の全て。自分自身をさらけ出す戦い。
「ユージニアさんに、伝わったかな……グランドさんの想い」
「多分、な」
二人はまた黙って、ニアネードの森を見つめた。
「光の中でパパやママ、おじいちゃんに会ったの。おじいちゃんが背中を押してくれたの。人生の羅針盤が差し示す方向へ迷わず行きなさいって――あ」
カレンの言葉が途切れた。トウマは怪訝そうにカレンを見る。
――私、あのとき、言ったよね。好きな人ができたって……。
――ちゃんと、伝えなきゃ。一番大切なこと。
――だって、時間は無限じゃないんだもの。
「あのね、トウマッ……」
カレンは腕に絡みついた金鎖をもじもじといじっている。しゃらん、と音をたてて腕の中に青い魔導書が現れたとき、トウマは想わず身構えた。
「その魔導書、どこにでも現れるんだな」
「あ、そうね、割と自由自在なの。ううん、そんなことじゃなくって! 私ね、前からトウマに言いたかったことがあるの」
「うん、なんだ?」
あっさりと尋ね返されて、カレンは言葉に詰まった。
(空気読んでよーーっ!)
「えっと……あのね……私、おじいちゃんとパパとママにそのとき言ったの」
「何を?」
「なにって……」
「?」
(――これはアレかしら。私、試されてるのかしら!?)
あまりにも平然と問い返すトウマに、カレンは追いつめられていた。そんなことを意に介さず、トウマは手摺りに上体を持たせかける。
「オレもさ、あの光の中で親父に会えた。部族のみんなに会えたんだ」
「そう……」
話がそれ、カレンは落胆と安堵を同時に感じていた。魔導書を抱き締め、俯くカレン。
「光が全部呑み込んだとき……分かった。一つだけ絶対消したくない想いがあったんだ。それで、滅茶苦茶走った。走ってったら……カレンも前から走ってきたんだ」
カレンは顔を上げた。トウマは上体を起こし、カレンに向き直っている。
もう分かってる。伝わってる。繋がってる。
だが形として確かなものが欲しかった。
「私、もトウマを探してた。ずっと探してた」
声が震えるのを、カレンは自分で励ました。
「私が言いたいことって、つまり」
「オレが先に言いたい」
トウマとカレンは、むむ、と睨みあった。
「ちょっと待って! 私が先に言いだしたんだから言わせてよ!」
「先とか後とかじゃんけんみたいなこと言うなよー」
「私が!」
「オレが!」
「私!」
カレンは両手を振り上げた。魔導書を抱えた手に、トウマの手が重ねられる。
二人は同時に囁いた。
「す」
「き」
風がカレンの髪を乱す。トウマの手が、カレンの顔を隠す髪を払いのけ、頬に手を添えた。
ごく自然に二人の顔が近付いていく。
カレンは、何が起きているかあまり理解していなかった。ただ、風に任せ、時に身を委ね――唇を重ねた。
トウマは一度唇を離すと、カレンの唇にまた軽くキスをする。何度も、何度も。
この幸せな瞬間を忘れない。
カレンは心から微笑んだ。
何度か軽くキスをして、ようやくトウマとカレンはお互いの顔をみた。だが、カレンは恥ずかしくて、俯いてしまった。
(――えーと、えーと。恋愛攻略本では告白の後のキスはありだったかしら?)
ずっと以前に読んだ雑誌を、カレンは頭の中で必死にめくっていた。
(お付き合いしてから1ヶ月くらいが普通って、書いてなかった? ちょっと早かった? 私、軽い女の子って思われてない?)
「カレン?」
「あ、うん! なんでもないっ」
トウマはしどろもどろのカレンを軽く抱き締めた。トウマの腕の中は暖かい。理性も体も、カレンの大好きなホットチョコレートのようにとろけそうになる。
(――きゃああああ、だ、だ、抱き締められてる!? 本の通りじゃないけど……ま、いいか。でもトウマったら、なんか慣れてる感じ……)
カレンの頭の中で様々な思考が入り乱れていることなど、トウマが知る由もなかった。
トウマはカレンの髪の香りを、すんすんと嗅いでいる。
「いい匂いだな」
「ヒカネに取り寄せてもらってるシャンプーなの。ノスワルド荘園だけに咲く紫のバラが原料なのよ」
カレンは借りてきたネコのように、トウマの腕の中で大人しくしている。安心できて居心地がいい。両親が幼いときになくなり、祖父と長く暮らしてきたカレンにとって、スキンシップは縁遠いものだった。
トウマの手が髪を撫でているのが分かる。カレンは目を細めた。
「カレンはネコみたいだな」
「そう?」
「うん。何考えてるかわかんねーし、時々爪でひっかくし。いや、魔導書で殴る、か」
「全然かわいくないじゃない!」
カレンは恨めしい目つきでトウマを睨んだ。
「かわいいよ」
「え」
「そういうとこも全部かわいい」
全く無邪気に、トウマは言った。率直な感想を述べたまでだろう。なにせ、誰もが恐れる魔属の女王ですら「かわいい」と形容するのだから。だが、カレンはそれこそ撃ち抜かれたような感じだった。
(――これって作戦? 私、敗北寸前……)
トウマは怪訝そうにカレンの顔を見ている。
「オレ、なんか変なこと言ったか?」
「う、ううん! か、かわいいって、ネコと一緒にされてもっ」
(――あああ、嘘よ、ホントはうれしかったのーーっ)
やれやれ、といった感じでトウマは苦笑いを浮かべている。
「ネコよりも凶暴って言えば納得するのか?」
「だんだん酷くなってるじゃない!」
んもう、とカレンはトウマを押しのけた。からかわれているのだ、とちょっと傷つきながら。
「朝ご飯、片づけるわ」
慌ただしくバスケットの中に食器を詰めていく。トウマはブランケットをたたみながら、空を見上げた。
「今日もいい天気だな。遠征にはもってこいだ」
(そうだ。トウマ、今日から遠征に出るんだっけ)
急に、寂しさが募る。
先程抱き締められたときの腕の感触が蘇った。
「準備、できてるの?」
「オレの部屋に剣と防具を取りに行くだけだ」
「……まだ、時間あるね」
「そーだな。今回はカリヴァとガリュウについてきてもらうから、軽く打ち合わせでもしておくか。装備品のチェックも必要だな。吊り橋だからロープを大量に持っていって……」
ぶつくさ呟くトウマを、不満げに眺めるカレン。
(なによ、なによ。さっきはすごい優しかったのに、もう遠征のこと?)
一層、寂しさが募った。
トウマはブランケットを棒状に丸めながら、部屋に入る。バスケットを抱え、カレンも後を追った。
明かりを落とした部屋は薄暗い。
トウマが足を留め、くるりと振り返った。
「朝ご飯、ありがとな。うまかった!」
「……うん! 今度はローストビーフもフィッシュペーストもちゃんと一から作るわ」
じゃ、準備があるから。トウマは背を向けた。
目の前に、カレンが追い続けた背中がある。追いついたはずなのに、また離れていくような気がして。
(私は、決めたのよ。追いついてみせるって)
カレンはバスケットと魔導書を床に置く。そして、トウマの背にとびついた。
頬を背中に押しあてて呟く。
「私……もう少し、トウマと一緒にいたい」
今度こそ離れないように。2度と離さないように。力強く抱き締めるトウマの体温を感じながら、ベッドにもつれ込んだ。
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