メモリー5
私は件の枯れた谷に足を運んでいた。
大きく削られ、崩壊した山肌にはようやく下草が芽生えはじめたものの、剥き出しの土は乾き、ほぼ灰褐色の光景だった。
彼女はよく城の窓からこの谷を眺めていた。病床に伏した今でもそうだ。
『あの谷は死者の私に生きる目的を与えてくれるの』
だが、その想いが強ければ強いほど、彼女の命を削っていったようだ。彼女の想いも、やがては、贄神の許へと引き寄せられていくのだろう。
私は石礫が転がる乾いた大地を見渡した。ここがかつて、緑豊かな美しい山であった痕跡は全く見られない。
ヴァンパイアにとって、太陽光は歓迎すべき輝きではない。体力の消耗が著しかった。だが、何となくではあるが、この谷で何かを見つけられるような気がした。
私は、彼女がかつて見て、感じて、喜び、悲しんだものを見たかったのだ。靴先が石ころを蹴った。石は数メートル先まで転がり、停止した。そこに下草の一群があり、小さな白い花が幾つか咲いているのが見えた。
かがんでその花をつぶさに眺める。星の形をした小さな花だった。
枯れ地にひっそりと佇む姿が、彼女に似ているようにも思え――一輪、手折った。
『――ローゲ様。ユージニア様のご容態が急変しました』
私は返事もせずに転送システムのボタンを押した。
「ユージニア」
私が呼びかけると、ユージニアは目を開けた。まだ30歳になったばかりなのに、彼女の魂は枯れ、今、尽きようとしている。私の持つ生命化学の全てを掛けても、彼女の病を克服することはできなかった。彼女もまた、生きようとしなかった。私たちの密やかな戦略は既に実行済みであり、あとは成り行きを見守るだけだった。
目的を達成した。そう思ったのかもしれない。
「ユージニア。君はまだ生きなければならない。最後まで見届ける義務がある」
この期に及んでも杓子定規なことしか言えない私に対し、ユージニアは微笑んでみせた。
「それは無理よ、ローゲ。私はそんなに長生きできないわ……」
目を閉じようとするユージニア。私は握りしめたままだった花を、彼女の顔の前に差し出した。水色の瞳に映った花が、揺れた。
「あの谷に咲いていた。君が言ってた花はこれだろう?」
ユージニアは手を私の手に重ねた。
「……もう、咲かないと思ってた……」
私が何もせずとも、再び花は咲くのね――苦しそうな、それでいて柔らかい笑顔で呟いた。
「あの谷をこの花で埋めてみせる、そうすれば、君は……生きていてくれるかい」
ユージニアは今まで見たことがない辛そうな顔をした。
凍てついた微笑と立ち上る陽炎のような執念を持った女。社会的には死者でありながら、暗い情熱に満ちあふれていた。
「ローゲ……あなたを巻き込んでしまった……本当に……ごめんなさい」
「……後悔している?」
ユージニアは首を左右に振った。
「いいえ……でも……あなたにまで背負わせてしまったことは……」
私は彼女の手に花を持たせ、その手を両手で包んだ。
「私たちは、盟友だろう。同じ目的を持ち、結果を望んだ」
嘘だ。
私たちは同じものを見ていない。
にも関わらず、盟友と言ったのは、彼女と過ごした時間を嘘にしたくなかったからだ。
ユージニアは私を見つめた。
「ありがとう……ローゲ」
そして目を閉じる。違う。そんな言葉を聞きたいんじゃない。私は――
血の気のない唇が、微かに動いた。誰かの名前を呟いた気がした。閉じた目尻から、すっと一筋、涙がこぼれた。
「心臓停止です……」
背後に控えていた従者が、小さく告げた。私はユージニアの手を彼女の胸の上に重ねた。なんという喪失感だろう。贄神の制御に失敗して数十万の命が失われたときより苦しい。
私は独りになった。今までも群れたことはない。孤独を。
従者を下がらせ、私は長い間ユージニアの亡骸に寄り添っていた。
「君の想いは……必ず実らせる……約束する」
体を離れた人の想いは大地に浸透し、やがては贄神に寄り添う。それがこの世界の理だ。
だが――この現実に彼女の想いを具現化して留めよう。決して贄神の――奴の許へは行かせない。
それが、私の願いだ。
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