遺されたモノ

 シャンタルの店を出たカレンは懐かしの我が家へ足を急がせた。

 大通りから一歩中に入ると、とても静かだ。周囲の建物はせいぜい4階建てだが、道幅が狭く煉瓦の壁なので実際より高く、迫ってくるようにみえる。

 石畳にカレンの靴音がカツカツと響いている。路地にありがちな子供の姿も見えず歓声も聞こえない。この辺りはエルドスムスでも古い地区で、メゾンでもアパルトマンでも由緒ある建物が多く、家賃も高めなのだ。だが格別高級な地区というわけではない。この付近にひっそりと軒を連ねている古本屋の本と似ていた。

 カレンが両親亡きあと祖父と暮らしていたのは、この細い路地の先にあるメゾン中規模の集合住宅だった。壁が青緑の鉄柵に変わる。小さな前庭があるのだ。両開きの、凝った唐草模様の凝った門がカレンを出迎えた。

 門の高さはカレンの身長とほぼ同じくらい。記憶ではもっと大きく感じていたので少し驚いた。愛おしげに門を撫でる。


『カレン。この門の模様は一筆で、同じ場所を2度以上通らないで描けるんだよ』


 祖父の声が蘇った。


(おじいちゃん、お墓参りもしないで、ごめんなさい。あれから、旅に出ていろんなことがあったの。おじいちゃんがいってたように、私の世界は広がったわ……)


 カレンは門に手をかけ、額を押し当てる。


(友達、ううん、もっと強い絆の仲間ができたの。辛いことも楽しいことも皆がいたから乗り越えられた)


 一年前の、あの、世界を覆う黒い雲が晴れたときの感動。晴れやかな仲間たちの笑顔。肩先に感じる体温。すぐ隣にいた。手を伸ばさなくても届く。何気なく目が合う。素直に笑顔になる。


(──私達には、これからたっぷりと時間があると思っていた。歩みより、お互いを理解する時間が。

 ──なぜ、分からないんだろう。分かってもらえないんだろう。

 ──これからも私達は聖剣を死ぬまで持ちつづけるのだから。多分長い時間になるだろう。協力していかなくては、贄神を倒したときのように)


 理由をあげていくうち、カレンは虚しさに襲われた。どうでもいいことに思えたからだ。


(私、どうしたいんだろう。自分で自分がわからないの……)


 もどかしい想いを振り切るように、カレンは顔を上げた。


「……キリクをかなり待たせているわ、行かなくちゃ」


 門を両手で押すと聞き慣れた軋みを立てた。扉の向こうでは、懐かしいアプローチと玄関がカレンを出迎えた。

 石段を登り白いドアを開く。こじんまりとしたエントランスは最上階の4階まで吹き抜けている。ベージュの大理石の床に白しっくいの壁。淡いトーンを、天井まで走らせた濃い焦茶の木枠がひきしめていてモダンだ。乾いた、少し埃っぽい匂いも懐かしい。人の気配がないのもこのメゾンの特徴だ。相変わらず時が止まっているかのようだった。

 カレンは何気無く吹き抜けの上を眺めた。祖父のは、カレンが外出して帰ってくると、必ず吹き抜けの手摺の向こうから顔を覗かせおかえり、といってくれたのだ──


「……カレン?」


 キリクが3階の吹き抜けの手摺から顔を覗かせている。


「ドアが開く音が聞こえたから──」


 そう言って、キリクは微笑んだ。祖父の優しい思い出と重なって切ない。ぎゅっと胸が苦しくなる。カレンは涙腺が弛みそうになるのを堪えた。


「ごめんなさい、待たせてしまって。すぐ上がるわ」


 笑顔を作るが、頬がこわばっているのがわかった。

 心が剥き出しでひりひりしていて。

 こんな気持ちのときは独り、ニアネードの豊かな森をバルコニーから眺める。嘘をつき通し、孤独だった頃のカレンが編み出した対処法だ。


(ここは、思い出ばかりの場所だから余計に切なくなるんだわ)


 エントランスの奥にある階段を静かに登りながらカレンは呟いた。


「……もう、帰りたくなっちゃった」


 言って、カレンははっと唇を指先で押さえた。

 階段が軋む音も、響かせる靴音も何も変わらないように聞こえるのに、確かに変わったものがある。


(──私の『居場所』は、ここじゃない)


 無性に、トウマに会いたくなった。

 前のように普通に、楽しく話がしたい。今、こんなふうに感じてるのを知ってほしいの。

 心が柔らかくなってる今なら、トウマの前でも素直になれそうな気がした。


「カレン」


 トウマに呼ばれたようで、カレンははっと顔を上げた。だが目に映ったのはキリクだった。

 気が付けば、カレンは3階の踊り場に立っていた。

 微かに感じた失望に似た気持ちを悟られないよう、カレンは笑顔を作った。


「ごめんなさい、遅くなって」


 キリクの緑色の目が、カレンの顔を心配そうに窺う。


「アリーチェ姫に何か言われたのかな?」


 キリクの手がすっと、カレンの頬の近くに伸びる。一瞬後、カレンは慌てて身を引いた。


「う、ううん、違うの! ここが懐かしくて、つい、いろんなことを思い出したから……アリーチェは確かにズケズケと物を言うし嫌みなところもあるけど、でも、悪口は言わないわ、あの子」


 心ならずもアリーチェの弁護をしてしまった。


「仲がいいんだね」


 くすっ、とキリクが笑うので、カレンはぶんぶんぶんと頭を左右に振った。


「それも違うのよ! むしろ仲が悪いんだけど、あの子がああいう態度をとるのもなんとなく理解できるの」

「うん、確かに。強がりなところは似てるからかな」

「強がり!? 似てる!?」


 恨めしそうに見つめるカレンから、キリクは慌てて視線をそらせた。


「あー、えーと。待っている間に博士の蔵書を勝手に読ませてもらったよ。興味深いものばかりだね」

「私、そんなに怖い? トウマもそうだけどみんなすぐ逃げるんだから」


 カレンは眉間を指でぐりぐり押さえながら溜息をついた。

 萎れる様子を見てキリクがまたくすっ、と笑う。


「ちょっと違うと思うんだけどな、怖いのとは。ただ適わないなあと思うから逃げるだけで」

「逃げてるじゃない」

「うん。でも適わないって意味は色々あるんだよ」

「屁理屈だわ」


 どこかでカタン、という物音がした。カレンは慌てて声をひそめる。


「ご近所迷惑になるから部屋に入りましょ」


 何が可笑しいのか、キリクはくっくっ、と喉の奥で笑っている。トウマの鈍感ぶりも腹立たしいことがあるが、キリクの「分かってる」風な笑いも癪に障ることがあった。自分がまるっきり子供扱いされているような気分になるのだ。


「そういえば、本棚の奥から珍しい物が出てきたんだ。君なら分かるかもしれない……」


 キリクの口元から笑みが消え、真剣な表情になった。


「珍しい、モノ?」

「古代遺跡の発掘で、稀に発見される物なんだけどね」

「なにかしら。おじいちゃん、よく変な発掘品を隠し持ってたけど」


 キリクが部屋のドアを開ける。懐かしい我が家だ。カレンは少し胸を高鳴らせながら足を踏み入れた。


「……ただいま」


 薄暗い廊下の奥に向かって、カレンは声をかけた。古い本の匂いがする。懐かしい匂いだった。

 人が二人並んだら窮屈な廊下が、まっすぐ玄関から延びており、左右にドアが2つずつある。カレンの部屋に祖父の寝室、食堂、浴室だ。一番奥の、廊下の突き当たりにあるドアが開いている。そこが一番広い部屋であり、祖父の書斎だった。


「右の奥のほうの部屋……私の寝室だったの」


 カレンは口ごもった。2年前、旅に出るとき自分のものはほとんど処分して整理していたのだが、やはり年頃の少女としては自分が使っていた部屋を見られるのは気恥ずかしい。


「ああ、ごめん。書斎がどこか分からなかったからドアを開けさせてもらった。でも少しだけだよ。プライベートのようだから、書斎だけ失礼して窓を開けさせてもらった」


 キリクらしい細やかな心遣いだ。


「水道もガスも停止しているからお茶を淹れるのは無理ね」


 あ、とキリクが声を上げる。


「しまったな。保温ポットを持ってくればよかった。せっかくスイーツがあるのに」

「ピクニックみたい」


 お互いに顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。

 居心地のいい空気だ。キリクはカレンの感情を読むのが巧みで、うまく立ち回ってくれる。これが大人ということなのだろう。

 だが、楽しい気持ちの裏側で考えるのはトウマのことだ。こんな風に一緒に出かけて、何気ない話をし、ピクニック気分を味わう。ただそれだけのことが贄神を倒したあとも、できていない。“二人で一緒に何かをする”時間がないことに、カレンは今さら気づいた。


(――やっぱり、このままじゃいけない。セイントに帰ったら、トウマと落ち着いて話をしてみよう。

 ――セイントに帰ったら。

 ――私……いつの間にか、セイントが『家』になっていたのね)


 今日、帝都グランタルに来て、カレンには新しい発見があった。思ってもみなかった人に想われていたこと。自分の家だった場所が『思い出』になりつつあること。帰りたいと思う場所があること。満たされていくと同時に、満たされない空白があることに気づく。パズルのピースが見つからない気分だ。


「カレン?」


 怪訝そうなキリクに、カレンは笑顔を向けた。


「ぼーっとしちゃった。いろんな考えが浮かんできて」

「……トウマのこと?」


 鋭すぎる指摘に、カレンは言葉に詰まった。


「そ、それもあるけど、それ以外のこともよ? トウマとは最近ちゃんと話をする時間がないから、お互いの役割分担とか……あ、そうだった! 皇帝から依頼された例の事件のこととか、全然進んでないわ。職務放棄よね、私も」


 狼狽しているところを見られたくなくて、カレンは歩を早めて書斎に入り、窓の側に立つ。開け放された窓から外を眺める。空には先ほどより黒い雲が重くたちこめ、今にも雨が降り出しそうだった。気温も下がってきているようだ。

 肌寒さに、カレンはぶるっと肩を震わせる。今日はノースリーブワンピースの上に薄手のカーディガンという軽装だ。セイントにいる分にはよかったが、エルドスムスではやや涼しすぎる格好だった。


「寒くなってきたわね、窓を閉めるわ」


 カレンの背中に向けて、キリクが呟きを投げかける。


「知ってる? 君は感情的になると、言葉数が多くなるんだ。まるで自分に言い訳をするみたいに」


 聞き捨てならない言葉に、カレンはくるりと振り返った。片手の魔導書をぎゅっと握り締めて、キリクを見つめる。キリクは視線を反らさずにカレンを見返す。


「キリク。何が言いたいのか、私、わからな――「そして、君は僕と話をしているときも、ずっと誰かと較べて、その誰かのことを考えている」


 そう言って、ふっ、とキリクは寂しげに笑う。


「私……そんなこと考えてない。勝手に決めないで!」


 否定するが、声が弱々しいのをカレン自身感じていた。キリクの寂しそうな微笑が心に突き刺さり、ちくりと痛む。知らず知らずのうちに、キリクに失礼な態度を取っていたのかもしれない。それが彼を傷つけていたのだとしたら――しかし、その意味するところは。

 正面から受けとめることもできない。上手く受け流すこともできないで、カレンはただ魔導書を抱き締め、立ち尽くす。キリクはしばらくその様子を無表情で見つめて。

 にこっ、とキリクは笑った。いつもの人の良い笑顔だ。


「そうだね……悪かった」


 またキリクに救われた。ほっとすると同時に、カレンは自分が自分で思う以上に未熟であることを痛感したのだった。


(トウマを責められない。私も子供で未熟でおバカさんだ)


 窓の側から動けないカレンに、キリクが再び声を掛ける。


「これを、見てほしいんだ。本がぎゅうぎゅうに詰まってるところがあって、まとめて引っぱり出したらその奥にあったんだ」

「……?」


 キリクの手にあるのは、茶色の革で装丁された分厚い本だ。あまり古そうではなく、背表紙には『秘密の花園』というタイトルがあった。祖父の蔵書の大半に目を通しているカレンも見覚えがなかった。だが本そのものは“知って”いる。


「その本、本じゃないわ」

 カレンの指摘にキリクは頷く。そして本の表紙をめくった。するとページがめくれるのではなく、ぱかっと本が開いた。


「ご覧の通り、本型の箱で、良く売ってるものだね」

「ええ、でもそれは……その箱って……いや、その中身って……?」


 カレンは本の中を凝視した。本に見せかけた箱の中に収まっていたのは真綿と、黒オパールに酷似した、複雑なきらめきを放つ宝石だ。その宝石は滑らかな楕円形で、古金の唐草模様のような枠が宝石を取り囲んでいる。大きさはカレンの手のひらほどもあった。

 先ほどまでの戸惑いを忘れ、カレンは息を詰め、それを見守っている。


「“記憶のメモリーオーブ”だ」

「私もおじいちゃんに連れられて行った研究室でしか見たことがないんだけど、それが、この家にあるなんて」

「どこかで発掘されたものじゃないかな? 何にせよ、これほど保存状態が良いメモリーオーブは僕も見たことがない」


「この石の中には、主にグランド時代の映像や音声が記録されている、という話だけど。キリクは見たことがある?」

「断片だけはアカデメイアで見たことがある。一定の周波と光を当てると再現することができるんだけど、オーブによって条件は異なるし、まず完全な形で残っているオーブが皆無なんだ。このオーブはほぼ完全な形をとどめているから、もしかすると当時の記録が再生できるかもしれない」


 オーブは見る角度を変えるたびにその体内で色と煌めきを変え、引き込まれそうなほど美しかった。


「セイントに持ち帰れば、何か分かるんじゃないかな」

「賛成よ。おじいちゃんがオーブを持ってただなんて。隠してたみたいだし、何かありそうな気がするわ……んん?」


 カレンはオーブに顔を近づけた。オーブの中できらっと光ったような気がしたのだ。


「今、光ったような気がしたんだけど」

「光の加減じゃないかな」

「そうね……」


 なおもオーブを見つめ続けるカレン。キリクはくすっと笑って、本を恭しくカレンに差し出した。


「どうぞ、お手に取ってご覧ください」

「ええっ!? 大丈夫かしら、触れたら壊れたりして」

「僕もさっきつついたりひっくり返してみたけど何もなかったよ」

「そう? じゃあ、ちょっと触ってみるわ」


 カレンは傍らのデスクにお菓子の包みを置いた。


「その魔導書、重くないの?」


 カレンの左手を見ながら、何気なくキリクが尋ねた。

 彼には説明をしたことがなかったので知らないのだ。この本が聖剣の仮の姿であることを。


「これは特別な魔導書なの。持ってる分には重さを感じないわ。こうやって」


 お菓子の包みの隣に魔導書を置く。しゃらん、と金鎖が音を立てた。


「置いておいても問題ないのだけど」

「魔導書を携えている君を見ると、戦いを忘れることはないんだって思うよ。それが……聖剣の主としての心構え?」


 カレンが持っている青の魔導書は、只の武具ではない。だが、カレンはそれを明かさなかった。


「そういうわけじゃないの。私、戦うことは嫌いよ。できれば戦いたくない」


 言いながら、そっと魔導書の表紙に指を滑らせる。


「この本は……常に私と共にある、分身みたいなものね」

「まるで聖剣の主の義務のようなものだね」


 キリクの喩えはまさしくその通りで、カレンは思わず笑ってしまった。


「たまには本を宝石に持ち替えても罰は当たらないでしょ」


 空になり、心許ない気がする左手で、カレンはオーブに触れた。

 その途端、オーブから白い光が迸り、カレンの左手を包み込む。


「――っ!!?」

「カレン!?」


 キリクは本ごと引き寄せたが、オーブはカレンの手に絡みついて宙に浮いている。


「きゃ……何、これ……!?」


 カレンはそれでもオーブを落とすまい、と右手を添えた。一際明るくオーブが光を放ち始める。

 キリクは空になった本をかなぐりすて、カレンの手をオーブから引き剥がそうとするが、カレンの意志に反して手はオーブを包み込んだままだ。


「くそっ、なんでこんなことに!」


 キィン……と甲高い高周波音がしたかと思うと、テーブルの上にあった魔導書が青い光となってカレンの左手に巻き付き、金の鎖を形成していく。


「カレンの魔導書が……」


――聖剣が戻ってきた。


 カレンとて常に魔導書を肌身離さず持っているのではない。この魔導書は離れた場所に置いてあっても、カレンが念じればすぐに手元にたぐりよせることができた。だが今は何も思っていない。勝手に聖剣が舞い戻ってきたのだ。横を見ると、キリクがその幻想的な光景を食い入るように見つめていた。

 左手の聖剣の光はオーブの白い光とまじりあい、美しい模様を空中に描いてゆく。


(――熱い)


 手を介して、熱が伝わってくる。恐かった。


「何かが……入ってくる! いやっ!」


 拒絶してもカレンの脳に、視界に直接流れ込んでくる光と、声、声、声――

 贄神に呑まれたときと、似ていた。

 白と青の光がスパークする。真っ白になった視界に映し出されたもの、その耳に囁かれたものは。

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