帝国の学者貴族
北の果て、北海の海の上に浮かぶ巨大都市・グランタルは夏でも涼しい。初夏の今であれば、朝夕は冷え込む。また今日は生憎の曇り空で一層肌寒かった。
カレンは周囲をきょろきょろ見ながら歩いていた。二年半ぶりに帰る故郷だ。カレンと祖父が住んでいた、ここノーザンクロスロード地区は帝都グランタルでも古く、道の両わきに立ち並ぶ煉瓦造りの建物は味わい深い色だ。足の裏に感じる舗装された道の固さも懐かしい。滑らかなセイントの床やニア村付近の土に慣れている足には痛いほどだった。
「全然変わってないわ……」
懐かしさはある。だが帰ってきた、という実感はなかった。祖父と十数年暮らした街だが、発掘と研究の旅に出ていることが多かったからかもしれない。
「あの青いテントがシャンタルの店だったかな?」
と、隣を歩いていたキリクが指差す。十数メートル先に、くすんだ煉瓦色の壁とは対照的な鮮やかなコバルト色のテントが張り出している。カレンの大好きなスイーツの店だ。
「あの店も変わってないわ」
書斎にこもりがちの祖父だったが、カレンが小さい頃はよくここに連れてきてくれた。
ちょうど、老人と小さな少女が歩いてくる。祖父と孫のようだ。少女が先に駆けだして店の前に辿り着いた。
「おじいちゃん、早く!」
と、少女はドアを押さえながら手を振っている。老人は少し歩みを早くし追いつくと、共に店に入っていった。まるで過去の祖父と自分を見ているようで、胸の奥がちくりと甘く痛む。
優しい思い出と、もう戻ることはない人に思いをはせて。
カレンは立ち止まり、彼等を眺めていた。
「ちょっと寄っていこう」
キリクの言葉にカレンは我に返った。
「えっ、でも、ほら、キリクがくれたスイーツもあるし、あんまり食べると……太っちゃうから」
キリクは返事の代りに微笑み、カレンの手を取って、先に立って歩きだした。その行為がごく自然だったので、カレンが手を握られていることに気付いたのは少し後だった。頬がじんわり熱くなる。
(──手、握られてる。べ、別に初めてじゃないけど、おじいちゃんやパパともつないだし!
──トウマはなかった、かな。どさくさに紛れて抱き締められたけどアレは仕方がなかったことで……)
キリクの手はひんやりとしている。低血圧気味のカレンがそう感じるのだから、男性にしては体温が低いようだ。記憶にある祖父の手は温かかったので、男の手は温かいと勝手に思いこんでいたのかもしれないが。
(トウマの手はもっと温度が高そう)
だが、どんな手だったか詳細に思い出せない。そもそも意識して見たことなどないのだから。
恥ずかしいが、手を離すのもなんだか惜しかった。
店の前まで来ると、キリクはドアを開けて、カレンに入るよう手で促す。
カレンはおずおずと店に足を踏み入れる。中は、甘いチョコレートやバターの幸福な匂いでいっぱいだった。ガラスケースには宝石のようなスイーツやチョコレートが並んでいる。壁際にずらりと並んだ大きな瓶には色とりどりの砂糖菓子やクッキーがあった。
「うわあ……やっぱりステキ」
カレンはうっとりとガラスケースを眺めた。するとケース越しに店番の女が話しかけてる。
「あら……お嬢さん……カレンさん?」
顔なじみの店員だった。
「長くお見かけしなかったから、引っ越しされたのかと思ったわ」
「どうもお久しぶり。引っ越し……みたいなものね。祖父が亡くなったので」
「あらまあ、先生、お亡くなりになったんですか!? ご愁傷様です……どうぞ、ゆっくり見ていってくださいね」
「ええ! やっぱりここへ来るとすごく悩むわ、どれにしようかしら」
うふふ、と女は笑ってカレンを見ていたが、お菓子の壁を物珍しげに眺めているキリクに目を留め、カレンにこっそり囁いた。
「お連れの方、彼氏さんですか? とってもハンサムな方ねえ」
カレンはガラスケースにへばりついて小声で叫んだ。
「ち、違います!」
「そういうことにしておきますわ。でもお似合いですよ」
カレンはちら、と横目でキリクを見る。キリクはカラフルなゼリービーンズが気になっているらしい。瓶に顔を寄せてまじまじと見ている。端正で生真面目そうな彼がお菓子の瓶をかぶりつきで見ているのは、かなり微笑ましかった。
(──お似合い、なのかしら)
悪い気はしない。しないのだが、小さなひっかかりがあった。脳裏をちらっと誰かの面影がよぎるのを、カレンはうち消した。
(誰かさんだってお姫様とお茶してるじゃない。私だって、たまには……)
眉を寄せながらガラスケースを見つめるカレン。
「あらあら。そんなに悩むのなら両方買っていかれては?」
女は違うほうに解釈してくれたようだ。カレンはあわてて眉間を指で押さえた。
「えっと……じゃあ、このチョコのセット、両方くださいな」
結局、カレンはチョコレートの小箱を二つ買う羽目になった。
洒落た、ブルーの包みを大事に抱えながら店を出る。
「ごめんなさいね、寄り道しちゃって」
「──カレン?」
名を呼ばれて振り返る。ベージュ色に薔薇模様を散らした可憐なワンピースを着た少女が立っていた。
緩やかにウェーブがかかった髪は、エルドスムスでは珍しい黒髪だ。目は猫を思わせるライム色。高貴さと勝ち気を兼ね備えた雰囲気で、顔立ちもそれに相応しい美貌だった。
カレンの顔をまじまじと見て、もう一度確認するように言った。
「カレン。あなた──」
そこで礼儀作法を思い出したのだろう、少女はスカートをちょっとつまみ、腰を軽くかがめた。
「ごきげんよう、カレン。それと……キリク・リーダ様」
キリクはぎこちなく会釈した。
「こんにちわ、ミス・アジール・アーデルハイド・アトレイデ様」
「以前も申し上げたけどアリーチェでよくてよ」
そして視線をカレンに戻す。細い眉が片方が上がり、片方が下がっている。そんな表情を浮かべるとき、少女──アリーチェは口の中に皮肉の棘を含んでいる。
カレンは携えている魔導書を握る手に力を込めて構えたが、アリーチェはふう、と溜息をついた。
「──で、カレン。あなたは先生が亡くなってから2年、どこへ雲隠れしていたの?」
雲隠れとは酷い言いようである。この2年、悩み、苦しみながら戦い続けてきたというのに。
だがそれをアリーチェに言うつもりはなかった。カレンもつん、と冷静を装いながら答える。
「旅に出ていたの」
「2年も?」
「そうよ。遺跡巡りをして勉強していたの」
アリーチェは納得しかねる顔をしている。それにまだ何か言い足りぬらしい。おもむろに、キリクに向かって尋ねた。
「キリク様、カレンを少々お借りしてもよろしいかしら?」
「それは、カレンが決めることです」
カレンはこっそり溜息をついた。アリーチェは言い出したら聞かない。そういう子なのだ。
「わかったわ、アリーチェ」
アリーチェは片方の眉を上げた。
「ええ、たいしたことじゃないのよ」
カレンはキリクに向き直り、ポケットから鍵を出して渡した。
「ごめんなさい。先に行っててくれるかしら。あそこの角に古本屋さんが見えるでしょ。あの筋に入って、緑色の柵と門があるメゾンよ。ノーザンクロスロード5番地の2。もし分からないようだったら、その古本屋さんで待っていて」
「わかった」
キリクは鍵を受け取ると、アリーチェに会釈をし、歩いていった。
その背中を目で追いながら、アリーチェが言う。
「2年も留守にしておいて、お婿さんランキング9位のキリク・リーダともうお近づきだなんて、隅に置けないわね」
アリーチェの口から出ると、照れよりも自慢が先に立つ。カレンはふっと笑いながら余裕で答えた。
「私とキリクはそんな関係じゃないわ。それより、何よそのお婿さんランキングって」
「貴族の未婚女子のソサエティで作成した、お婿さん候補のランキング100よ……そんなことより」
アリーチェは腕組みをし、仁王立ちになった。どういうことか、非常に怒っているようだ。2年ぶりに出会って、怒られるようなことをした覚えは、カレンにはなかった。
「カレン。あなた、2年も行方をくらまして一体どいうことかしら!? 先生のお墓参りにも来ないし、誰も行方を知らないし!」
アリーチェは憤懣やるかたなし、という顔をしている。ライム色の目が尖って見え、威嚇する猫のようだった。
「あなたの唯一の肉親だった先生が亡くなられて、失踪したら、誰だって『もしかして……』なんて思うじゃない!」
「え?」
アリーチェはぐっと唇を噛んで何かを飲み込んだ。
「何事もなかったような顔で、2年ぶりに戻ってきて!」
「アリーチェ……怒ってる?」
「お、怒ってなんかいないわよ! け、ケンカ友達がいなくなってせいせいしたーって思ってたたら、目の前でいちゃいちゃと……」
アリーチェはそっぽを向いた。
いちゃいちゃは同意しかねるが、アリーチェの態度の裏側にある感情はカレンにも伝わった。
(心配してくれてたんだ)
アリーチェはエルドスムスの大貴族の家柄だ。年はカレンより1つ上だが、考古学に興味を持っており、その若さで大学の学位まで持っている。
カレンとアリーチェの付き合いは意外と長い。アリーチェの父である公爵の所有する書庫の検分を祖父が依頼されたのがきっかけで、年に何回かは2週間ほど滞在し、アリーチェと公爵に対して講義をし、文献を閲覧していた。その際、カレンも同行していたので、アリーチェと知り合うことになったわけだ。
ところがカレンは人見知りが激しく、アリーチェは高飛車で皮肉屋だ。発言が内と外の違いで二人ともつんつんしている点では似たもの同士だが、顔を合わせればケンカばかりだった。
しかし、本気で嫌みと皮肉をぶつけあえるのは、ある意味、うち解けているからではなかったか。
そっぽを向いたままのアリーチェの横顔を見つめながら、カレンは思う。
(──友達なんていない、なんて思ってた私は、なんてバカなんだろう)
ただ、見ようとしていなかっただけなのだ。世界の広さを知り、世界の終わりを見た今ならよく分かる。
素直に、言葉が出た。
「ごめんなさい──ありがとう」
驚いてカレンを見るアリーチェ。カレンはアリーチェを見つめ、そして微笑んだ。
「私、自分のことしか見えてなかった。今もそうだけど、でも昔よりは少し……いろんなことを学んだわ」
アリーチェは無遠慮にカレンの顔を眺め、ふん、と鼻を鳴らした。
「驚いた。カレン、そんな笑顔が出来るのね。氷の王女様だったのに。それって、リーダのおかげかしら」
カレンは首を左右に振った。
「ううん、それは違うわ。ひとりよがりだった私を救ってくれた仲間がいるの。彼……彼らがいたから救われた。たくさんのことを知ったの、だから」
「ふ~~~ん。“彼”ねえ」
「“彼ら”よ。お姉さんみたいな人も、妹みたいな人もいるのよ。ケンタウルスの騎士とか竜とかちょいワル狼とか、ロボットとか……あと約一名……ブタ鍋が好きな野生児が……」
カレンは強く訂正したが、アリーチェは聞いていない。
「で、その中のどれが彼なの?」
「彼じゃないって言ってるでしょ!」
それもそうね、とアリーチェはあっさり引き下がった。
「本命の彼がいながらキリク・リーダと帝都でデートするほど、気が大きくないものね。まぁそれとも……この2年の間に随分成長なさったのかしらね」
カレンも負けていない。
「ええまあ。女の子はタフじゃないと今時生きていけないから。いい年してお守りされてる貴族のお姫様は別かもしれないけど」
おほほほほと笑い合う二人。すっかり以前の関係に戻ったようだ。
「それで、カレン。また旅に出るの? 今どこに住んでいるのよ」
「ちょっと、南方の小さな村の近くに」
カレンが曖昧に答えると、アリーチェの目がきらり、と光った。
「南っていうと、聖剣の主の城があるそうじゃない? 見たことある?」
カレンは喉がつっかえて咳き込んだ。変な顔でそれを見るアリーチェ。
「な、ないわよ! 全然ないない!」
「聖剣の主って、渋いナイスミドルだっていう話じゃない? 既婚者かどうか調べておいてちょうだい。聖剣の主なら、出自がどうであれ問題はないわ」
帝都から見ればド田舎のニア村のことは正しく伝わらないものらしい。以前、執筆者や歴史家と名乗る人々が詣でていたが、それも今はすっかりおさまっている。
聖剣の主が少年と少女であれば、もっと噂がたってもよさそうなものだ。が、ナイスミドルの男にすりかわっているのは奇妙だった。
(――もしかして、皇帝のおかげかしら?)
カレンが以前“参拝者”について愚痴を漏らしたことがあったので、煩わされないようにと働きかけてくれたのかもしれない。
そのぐらい気がきけばリグラーナも悩むことはないだろう、と余計なことをカレンは考えた。
「私……遺跡の研究をしてるの」
そう言うと、アリーチェはほんの少しうらやましそうな顔をした。貴族の姫君であるアリーチェは、気軽に旅をすることもままならないのだろう。ましてやそれが大好きな考古学であるならば。
「私も、近々発掘に同行するかもしれないの。ムッカシーノ古墳群に匹敵する時代の古墳が発見されたから」
暗に負けないわよ、と言っているのだろう。
カレンは微笑んだ。
「私も、もっと頑張る」
アリーチェは一瞬目を見張り、そしてふふんと笑った。
「せいぜい頑張ることね──また帝都に来るときは、先に報せてちょうだい。よくって?」
「ところで、アリーチェ。あなたこそこんなところで何してるの? すっかり聞きそびれてたけど」
アリーチェはシャンタルの店を指さした。
「決まってるじゃない!」
この店のスイーツをカレンの祖父が手みやげに持参してからというもの、ご贔屓らしかった。
ごきげんよう、とアリーチェはシャンタルの店に向かって数歩歩き、足を止めた。
「キリク・リーダだけど」
「キリクが、なに?」
「私に遠慮せず交際してよいのよ」
がくっ、とカレンは歩道から道路へ足を踏み外した。アリーチェは平然として続ける。
「庶民のカレンは気にならないでしょうけど、私たち貴族は難しい条件があるのよ。彼は貴族だけど残念ながら候補外なんだもの。惜しいわ、顔もよくって話も合うのに」
「候補外?」
「お家の、格の、問題」
カレンはキリクの名誉のために応戦しようと思ったが、アリーチェはさっさと店に入ってしまった。
ドアを見つめながら、カレンは唇を尖らせた。
「貴族貴族って、身分を鼻にかけるところは相変わらずね!」
でも、心配してくれてた。独りじゃない。そう思うと心が満たされる。
セイントにいる仲間たちの顔が次々と浮かぶ。一番最後によぎったのは――常に前を見ているトウマの姿。だが、トウマの視線はカレンではなく、別の方向に向けられていた。
突如、強い風がカレンの髪を乱す。心の中に、風が吹き込んだような気がした。
冷たい風。
カレンは肩をぶるっと震わせ、溜息をついた。
「……行かなくちゃ。キリクが待ってるわ」
なんともいえない寂しさを堪えながら、カレンは歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます