第一章、英雄は終わらない
聖剣の英雄
地の底から這い上がる巨大な、黒い翼。
空は禍々しい朱に染まり、
黒い雨が大地を汚し、
闇の眷属が跳梁跋扈する。
地上にすむあらゆる種族は、
この世の終わりを覚悟した。
6日が終わり、7日目の朝。
空は割れ、黒い翼は光に包まれくだけていった。
長い長い夜が明け、太陽が現れた。
それから1年後。時は春――
うららかな日差しが、天窓を通して薄暗い部屋に落ちている。壁や、大きな棚が全て本で埋め尽くされた部屋に、少女が大きな机に向かっている。
天窓からの自然光が、金髪の髪を、細身の白いコートドレスの姿を、ほの白く浮き上がらせていた。細いフレームの銀メガネがよく似合う。一見冷たくみえるほど端正な顔立ち。氷の美しさを思わせる少女だ。冷たい印象を与えるのは、空色の瞳も、きびきびとした動きもいかにも賢そうに見えるからだろう。
少女の前には黒い犬が行儀よく座っている。犬のなりをしているが、高い知性を思わせる冷静な瞳と、滑らかな黒い毛皮に走る朱色の不思議な紋様は、犬のものではない。彼らの間、机の上にはノートと、白色の小さく柔らかな猫の毛並み。コロコロと良く動き、なにやら独りで喋っている。これもまた、黒犬同様、不思議な生き物だった。
少女の手は迷い、止まり、考えながらノートに文字を綴っている。時々、黒犬に意見を求め、黒犬が冷静な言葉を紡ぐ。奇妙な光景だが、この場所――この城ではごく当たり前の光景だった。
――こうして、聖剣は一つになり、贄神を打ち果たすことができた。
ペンが止まった。
「めでたし、めでたし」
自分で言っておいて、少女はくすっと笑った。
「これじゃあカリヴァの好きな歴史冒険小説みたいね」
「あーあ、退屈ぅ~」
「まだまだ検証が必要だ、マスター・カレン。なぜあのとき、二つの聖剣が一つになったのか。未だかつて為し得なかった事だからこそ、必ず記録に留めておかねばならない」
「ヒマヒマヒマ~!」
「あっ、ダメよ、ノートの上で暴れないで、レイ! 書いたばかりだからインクが……あーあ……」
少女――カレンの言葉尻は溜息に包まれた。両手に白猫、もとい、レイをぶらーんとぶらさげて、情けない顔でノートを見つめる。乾ききってないインクがにじんでメモ書きのようになってしまった。当のレイはというと、腹を汚しながらも楽しそうだ。カレンの手の中でじたばたしている。
「レイ。マスター・カレンの邪魔をしてはいけない」
咎める風でもなく、淡々と黒犬――名をゼロという――が言った。
「邪魔してないもん! さっきだって本を運ぶの手伝ったじゃない。それよりカレンー、少し休もうよー、疲れたでしょ、ねっ? ティアが焼いたクッキーがあるよ」
レイはまるで子供のようだ。わがまま気ままだが、なぜか憎めない。それにカレンも少々、煮詰まっていた。ポットを手に取り、カップに注ぐ。仲間の一人であるティアがお茶のセットを持ってきてくれたのは小一時間前のことだが、カップの中の紅茶はあつあつの湯気を立てている。
カレンたちの済んでいる城塞――セイントの備品は不思議なものが多い。この、いつまでも暖かいお茶が飲めるポットもその一つだった。レイとゼロにもそれぞれ、カップを用意して紅茶を淹れた。
カップを見つめながら、ゼロが淡々とした口調で言う。
「不思議なものだ。マスター・カレンたちと共に過ごすようになってから、不必要な行動が増えた」
「どういう意味?」
カレンに、レイがゼロに代わって答えた。
「うーんとね。ゼロはお茶が嫌いだけど、好きになったってことなのよ」
「それは全く正確ではない、レイ。私には……君にもだが……飲食という行為は生命維持に必要でないため、これまで行ってこなかったのだ」
この疑似生命体たちとつきあいが始まってから二年近くになるが、初めて知る事実にカレンは驚いた。
「そうだったの!? だって、レイはガツガツ食べるのに」
「レイは特殊だ。例外、といってもいい」
相変わらず淡々とした口調でゼロは答えた。
「ちょっとぉ! ゼロに特殊とか例外扱いされたくないわよ!」
一人、きゃんきゃん喚くレイを見ながら、カレンはカップを口元に運んだ。
(おいしい! ティアはお茶を淹れることも上手だわ。今度、お湯の温度とか煮出す正確な時間をまとめなくっちゃ)
まとめなくっちゃ、と言えば、である。
「あれから一年も経つのにね。全然まとまらないわ。私、何やってるんだろ」
カレンは自嘲気味に、ノートに目を落とした。
目を閉じれば浮かんでくる。一年前の決戦の時が。世界が闇に包まれ、それが晴れた日のこと。カレンの手を握る手の力。
「カレン、忙しかったもんね。トウマも」
レイは訳知り顔で言うと、器用にカップを両手で持ちあげ、紅茶を飲む。
「ほーんと! 贄神を倒した後のほうが慌ただしくって」
軽い口調でカレンは言った。それで終わるかと思えば、レイはさらに続ける。
「トウマ、ちゃんとやってるのかな。今度の天空船の欠片はおっきいし、強キモ・モンスターがうじゃうじゃいるって話だったじゃない」
一年前のあの日、贄神という主を失った天空船は、分解しながら世界各地に落下した。大半が落下する間に燃えたり、地上に衝突して砕けたりしたが、大きなブロックは原型を留めていた。
贄神は消滅したものの、その巣であった天空船は部分的に生き残っている。そして未だなお、異形のモンスターを吐き出し続けているのだ。エルドスムス帝国、フィンゲヘナは無益な戦争で国力も人材も消耗してしまった。そこで、聖剣の主であるカレンとトウマが代わって討伐しているわけだが、戦いの経緯をまとめて研究したいカレンはセイントに居残り、遠征はトウマに任せるというのがいつしか決まった役割となっていた。
なんという強靭な生命力だろう。贄神に取り込まれたカレンは、あの何ともいえ
ないおぞましさを身をもって知っている。体の震えをおさえるように、カップを両手で包んだ。
「トウマ、大丈夫かなあ」
言いながら、レイはちらちらとカレンを見る。レイはお子様だが、その一方で人の心の動きに聡い。理性的だが感情の起伏が乏しいゼロとは、両極に立っている。レイの視線がむず痒くて、カレンは肩をすくめた。
「大丈夫よ。腐っても聖剣の主で、贄神を倒したんだから」
「とがってるぅ……」
レイが呟いたが、カレンは知らん顔をして紅茶を飲むふりをした。レイには、こうやっていらいらさせられるときがある。苛立つのは、つまり、レイの言葉が直感的に物事を射抜くことが多いから、ということにカレン自身は気づいていない。
「マスター・カレン」
ゼロが言った。
「倦怠期か?」
ぶぼわぁっ。あろうことか、口に含んだ紅茶をカレンはゼロに吹きかけてしまった。
「うわぁ……カレン、それはないんじゃない、キャラ的に」
レイが呟いた。
「うっ、うるさいわよ、レイ!」
慌てて、カレンはナフキンでゼロを拭く。
「マスター・カレン。挙動がマスター・トウマに似てきたようだ……」
「ごっ、ごめんなさい、ゼロ。でもその、倦怠期って言葉が悪いのよ! なんでそういう発言が出るわけ? 倦怠期って意味分かってる?」
「男女間、主に夫婦間でお互いに飽きがきて嫌になる現象、と言語辞書にはある」
紅茶を拭くカレンの手付きが荒っぽくなるが、ゼロは無言で耐えた。
「それを私に言うのがおかしいっていってるの!」
「そーよ、ゼロ。カレンはトウマと手もつないでない間柄なんだから。それ以前の問題なのよ、問題外なのよ」
酷い言われようである。
「レ、イ! 手は繋いだことはあっ……そうじゃなくて! ヘンなこと言わないでよね、なんでみんなそういう風に物事を捉えるのかしら! 別にトウマと私が、その、そんな風になるのが当たり前っておかしくない? 贄神を倒すために協力したけど……けど…」
カレンは感情的になると言葉数が多くなる。そのくせ、内容はめちゃくちゃだ。
「照れてる? 照れてる?」
レイが茶化す。こうなるとカレンもムキになる。
「あのね! そうじゃないの、これは……たまたま聖剣の主が男女だったからって、すぐそんな風に考えるのがおかしいって言ってるの!」
「そんな風ってどんなふ……きゃっ!」
図に乗るレイの上に、ゼロは別のナフキンをかぶせた。話がこじれると判断したのだろう。
「すまない。先ほどの発言はその場をなごませる軽い冗談だったのだ。忘れてほしい」
「もう遅いわよ……」
ゼロの冗談はシャレにならない。なごむどころか、むしろ荒れる。カレンは溜息をついた。
「マスター・カレン。贄神を倒したこと、聖剣がひとつの力となったことについてまとめるのは、もう少し時間をかけたほうがいいかもしれない」
ゼロにまで変に気を遣われたようで、カレンは反論しようとした。だが、ゼロが急に立ち上がり耳をピンと立てたので思い留まった。警報が図書室に響きわたる。
「セイント付近に接近している物体がある。複数だ」
カレンは目を丸くした。
「襲撃? また?」
カレンは立ち上がると、机の上に置いてあった本を抱えた。カレンの顔よりも大きいが、持っている分には重さを感じない不思議な本なのだ。大きめの青い本に、金の鎖が束ねられていた。
「数は分かる?」
「質量からすると相当数。人間が混じっているようだ。」
「人間? 盗賊かしら」
カレンたちは小走りに図書室を出た。
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