第64話 昭和20年8月15日

 とうとう運命の8月15日が来た。


 昨日まわってきた隣組回覧板かいらんばんに、「至急」の文字があり、なんでも今日の正午に天皇陛下自ら重大な発表をされると予告があった。疎開学童組も村人と一緒に分校の校庭に集合することになっている。


 青木先生を先頭に、子供たちが2列に並んで分校に向かっている。その一番後ろに私たち寮母と恵海さんたち、そして小さな子供たちがついていた。


 夏まっさかりで、きれいに晴れた空が青い。遠くには入道雲が浮かんでいた。

 村道の土はすっかり乾いていて白っぽくなっている。あちこちで蝉が鳴いていた。


 こんな風に全員が一斉に集められ、重大発表があるなんて、初めてのことじゃないだろうか。

 恵海さんが、

「一体なんでしょうな」

とつぶやくと、安恵さんがひたいの汗をぬぐいながら、

「ソ連が中立条約を破って宣戦布告してきたし、西の方で新型爆弾が落とされたみたいですから、きっと最後まで頑張れってお言葉をいただけるんじゃないですかね」

と言う。


 どれだけ空襲を受けようと日本は戦争を止めようとしなかった。

 6月下旬には義勇兵役法などという法律が制定され、とうとう兵役の年齢が15歳以上となり、さらに17歳以上の女子までも兵役につくことになってしまった。


 8月6日には広島、そして9日には長崎に原子爆弾が落とされた。報道では新型爆弾とあり、村のみんなは何やらすごい爆弾くらいにしか思っていなかったようだけれど……。原子爆弾の惨状が詳細に伝わってくるのは、これからなのだろう。

 この2日は原爆投下の日と知ってはいても、私は何もできず、気まずい思いでただ流されるように過ごしていた。


 原爆のことを考えていたせいか、恵海さんが、

「なにやら原子爆弾というらしいですな」

と話し出した。私もそこに口を挟む。


「――ええ。大変に恐ろしい爆弾ですよ。たった1発で15万人以上を殺す爆弾です。

 閃光せんこうとともに熱と衝撃しょうげきが広がって、爆心ばくしんに近い人は骨すら残らずに蒸発するように殺され、何キロも爆風が街を駆け抜けて建物も人も吹き飛ばす爆弾です」


 タイムリープ前。もう遥かな過去の記憶だけれど、広島の原爆資料館に行ったことがある。8時15分を指して止まった時計。多くの悲惨な写真に戦慄せんりつした覚えがある。


「御仏使さま?」といぶかしげに私を呼ぶ恵海さんに気づかず、足元の道を見つめたままで話し続ける。


「信じられますか? シミのような影しか残らないんです、光を浴びた人は。生きていた痕跡こんせきなんか何も残らないんですよ。

 夜には黒い雨が降り、放射能によって何年も、いや何十年も人々を苦しめる最悪の爆弾です。あんなもの。開発しちゃいけなかったんだ」


 私の手を恵海さんが握った。はっと気がついて顔を上げると、心配そうに見つめる恵海さんと美子さんがいた。

「御仏使さま。大丈夫ですか」

「……ええ」


 しまった。しゃべりすぎた。心配させてしまったみたいだ。……いや、不審がらせもしただろうか。


 何と言っていいかわからずに口をつぐむけれど、その時、菜々子ちゃんが、

「ね。行こう」

と私の手を引っ張った。そのつぶらな瞳を見て、そっと微笑む。「――そうだね」


 いずれにしろ今は分校に急ごう。


 校庭には、すでに多くの村人たちが集まっていた。地元の子供たちの姿もある。

 うちの子供たちの中に知り合いを見つけたのだろう。気安く手を挙げて互いに挨拶をしていた。


 時間は11時57分。――終戦の詔勅しょうちょくまであと3分。


 学童たちは先生の指示で整列をはじめた。

 村の人はなんとなくバラバラに立って、校庭のスピーカーを見上げている。


 やがてスピーカーから君が代が流れはじめた。幸いに松守村は電波の状態が良かったのか、思いのほか明瞭に聞こえる。


 姿勢を正す人々。そして歌が終わり、男の人の声が流れてきた。

 ……はじめて聞く天皇陛下のお声。私だけかもしれないけれど、どこか固く、本当のお心をどこか奥深くに隠しておられるようにも感じる。


ちん 深く世界の大勢たいせいと帝国の現状とにかんがみ、非常の措置そちもって時局を収拾せと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ――」


 頭を垂れる人々。まるで林に並ぶ木になったように立ち尽くしていて、その間を陛下のお声が風のように通り過ぎていく。


「朕は帝国政府をして米英 四国に対し、の共同宣言を受諾じゅだくする旨、通告せしめたり」


 知らず、熱くこみ上げてくるものがある。これでようやく戦争は終わったんだ。

 夏樹が出征してから3年の日々、そして真珠湾からの4年の日々が脳裏をよぎる。やっと……。


「――さきに米英2国に宣戦せる所以ゆえんも、また 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しょきするにいでて、他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず。


 然るに交戦すで四歳しさいけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司ひゃくりょうゆうし励精れいせい、朕が一億衆庶しゅうしょの奉公、各々おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず。


 世界の大勢たいせい、亦われに利あらず、加之しかのみならず 敵は新たに残虐ざんぎゃくなる爆弾を使用して、しきりに無辜むこを殺傷し惨害さんがいの及ぶ所、まことはかるべからざるに至る」


 誰かがすすり泣きをしている。ぐっと拳を握っている人もいるようだ。

 夫を、子供を軍隊に送り出し、増産だ、貯蓄ちょちくだ、報国だと圧迫されながらも勝利を信じてきた暮らし。

 それが遂に果たせなかった。それも力に負けたのだ。あらかじめ歴史を知っていた私でさえ、やるせない思いがあふれてくる。



「――帝国臣民にして」

 唐突に、ほんのわずかだけど、お声がゆっくりとなられた。

 マイクに向かわれる陛下が、涙をこらえて、声に震えがでないように耐えておられる姿が目に浮かぶ。


「戦陣に死し、職域にじゅんじ、非命ひめいたおれたる者、及びの遺族におもいを致せば――」


 そうか。陛下のお辛い気持ちがここに……。

 多くの命が失われたこの戦争。万の後悔を一身に感じられているだろう。それが、淡々とつづく詔勅の、ほんのわずかな変化に出ているのだ。

 悔恨だけではない。その失われた命をも御一身に背負われようと、そう思われているのだろうか。


 この陛下のお言葉を聞いて、何人かの村人が地面に崩れ落ちるようにうずくまった。おそらく子供や夫が戦死した家だろう。

 香織ちゃんも地面にうずくまり、地面にぬかずいて両のこぶしを握りしめていた。その背中が震えている。


おもふに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常じんじょうにあらず。

 なんじ 臣民の衷情ちゅうじょうも、朕れを知る。しかれども、朕は時運じうんおもむく所、がたきを堪、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かと欲す。


 朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠に信倚しんいし、常になんじ臣民と共にり」


 耐えがたきの所で、遂に感情を抑えられなかったのだろう。一拍、ほんのわずかにお言葉が止まる。


 これから日本は敗戦国として苦難の道を歩むことになるだろう。進駐軍が来て、沖縄はアメリカに支配され、まさしく多くの耐えがたい事件が何年も、そして幾度も発生する。


 他国からは批難され、搾取さくしゅされ、援助を顧みられることなく、要求を受け続けるかもしれない。フェアな条件は与えられず、文句も言えずに難局に直面することもあるだろう。


 何十年も、世代をも超えて、その苦難の道はつづくかもしれない。けれど陛下は、その苦難の道を国民とともに歩いて行こうと決意されているのだ。


「――よろしく挙国一家、子孫あいかたく神州の不滅を信じ、にん重くして道遠きを念ひおもい、総力を将来の建設に傾け、道義をあつくし志操しそうかたくし、誓って国体の精華を発揚はつようし、世界の進運におくれざらことをすべし。

 なんじ臣民、く朕が意をたいせよ」


 どんなに不遇の目にあおうとも、日本の不滅を信じ、復興の道の遠きを思ってなお、国家建設に向かって行くように、か。


 初めて聞いた終戦の詔勅。だけど、それは単に戦争が終わったことを宣言するだけではなかった。

 敗戦国となった日本が歩む苦難の未来を思い、それでもなお復活を信じて国家建設に向かって、共々ともどもに歩もうという陛下の決意でもあったんだ。


 自分たちが戦争を始めたくせに何を言っているんだと思う人もいるだろう。

 戦争にうんざりしていて、ああ、終わった終わったという人もいるだろう。

 愛する家族を亡くして、ふざけるな、自分はまだ生きているぞ、戦えるぞという人もいるだろう。

 そして、ただただ哀しくて、頭がからっぽになっている人もいるだろう。


 色んな思いはあるだろうけど、ただ1つはっきりしていることがある。


 ――長らく続いた戦争は、今ようやく終わったのだ。


 万感の思いを込めて見上げた空は、どこまでも青かった。




 詔勅を聞いた誰もが、何をする気も起きないようで、なんとなくその場が解散となる。


 香織ちゃんの傍に行き、うずくまっている彼女の背中にそっと手を添えた。ゆっくり顔を上げた彼女の顔は涙と砂にまみれていた。


「奥様……」

「もう、終わったのよ」

「はい」

「あなたには和くんがいる。ほら、心配しているわ」


 石川の奥さんと手をつないでいる和くんが、すぐそばに立っていた。振り向いた香織ちゃんが、「ああ……」と言って和くんを抱きしめる。

 小さな手で香織ちゃんに抱きついていた。そのぬくもりを感じているのだろうか。涙に濡れた目を閉じて、そっと微笑んでいる。


 その様子を見てひと安心し、視線を感じて顔を上げると、石川の奥さんが頭を下げていた。……これ以上はお邪魔になるだろう。私はそっと立ち上がる。


 周りは、ほとんど無言のままに家路につく人たち。その向こうに立ち尽くす子供たちと、呆然ぼうぜんとしている青木先生の姿が見えた。


 ともかくお寺に戻りましょうと言うも、先生からは返事がないので勝手に子供たちにそのように指示をした。


 子供たちは言葉が難しすぎてわからなかったようだけれど、素直にお寺に向かって歩いている。先生もその後ろをのろのろと付いてきていた。


 校庭を去り際に、もう一度香織ちゃんを見ると、石川の奥さんに連れられて帰って行くところだった。


 いつの間にか隣に来ていた安恵さんが、

「これからどうなるんですかね」

と心配げにつぶやく。

「みんな捕まって、アメリカやイギリスで売られちゃうのか……」


 私は首を横に振ってそれを否定する。

「それはないよ」

「米英の奴隷になっちゃったり、植民地になるんでしょうか」

「それもないよ」


 そうは返事したものの、昔ならあっただろうし、沖縄は統治されてしまうから、植民地と言えばそうなのかもしれない。


「まあ、もしそうなっても、こんな田舎の村までは捕まえに来ないですよね」

「う~ん。村には来るかもしれないけど、何もしないでいて捕まることはないよ。……ただね」

「ただ?」

「若い子は乱暴される可能性はあるから、もしアメリカ軍が来た時には安恵さんは隠れていた方がいいかも」

「……そうですか」


 温泉も何もない村だから、視察にやって来てもすぐに別の村に行っちゃうとは思うけど。

 ……そう思うと、以前、夏樹と話していた温泉を掘る話は実行しなくて良かったと思ったり。

 GHQ時代が終われば、掘っても大丈夫だとは思うけど。……どっちにしろ、夏樹が帰ってこないと無理か。


 そう。夏樹だ。

 戦争が終わったんだから、いよいよ帰ってこられる時期になるはず。いつになるんだろう?

 子供たちもいつまで清玄寺にいられるのかな?


 ……うん。こうしてみると、まだまだ気が抜けないというか、確認すべきことが多くて忙しくなりそうだ。


「あれ? どうしたんです?」

と安恵さんに言われて、初めて自分が微笑んでいることに気がついた。こんな時に不謹慎ふきんしんだったか。

 でもさ――。


「うん。これで夏樹が帰ってこられるんだなって思ってさ」

「……あ~。うん。そうですか」


 歯切れが悪いなぁ。もう。どうせ戦死したと思ってるんでしょ。


 そうは思いつつ、結局、私も他の人のことより自分のことが一番なんだよなとも思う。だって戦争に負けたと聞いても、これで夏樹が帰ってくると思うと嬉しくなるもの。


 南の方角にある山の稜線りょうせんを見つめた。

 晴れ渡った空に白い雲。強い陽射しに火照る体。俺は生きてるぞと言わんばかりに鳴いている蝉。

 ……人の世界がいかに乱れようと、戦争でボロボロになっても、自然は変わらずにそこにある。


 日本も同じじゃないだろうか。


 敗戦国となっても日本が無くなるわけじゃない。

 この大地に広がる自然のように、国土に刻まれた戦争の爪痕つめあともいつか必ず元のようになる。


 ろくに歴史の知識がないせいもあるだろうけど、もう戦闘はない。戦闘機も爆撃機も爆弾を落とすことはない。これから平和な時代がやってくる。

 今はまだ負けたショックが大きいだろうけど、それでも時は流れていくもの。必死で生きつづけていうるうちに、いつしか悲しみも薄れていくことだろう。


「道の遠きをおもい、か」

 ふとつぶやきが漏れた。


 まあ、どんなに社会が移りかわろうと、私のすることは変わらない。ただ待ち続けるだけ。――愛する夏樹あなたの帰りを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る