236話 温もりを求めて
「ハァ~ぁ、ン~……でさぁ、どうしてくれるワケ? このまま無事に済むと思ってんの~?」
「ヒ……ぁ……」
右肩を手で抑えられ、鋭い眼光で睨まれている翡翠は体を動かすことが出来ず、その場でブルブルと震える。
ロクに体を洗わずに出て来たためか、居住区の廊下に効かせてある冷房も合わさってなのか、体中がやけに冷える感じがした。
「そんじゃぁ……落としマエをツけてもらおうカナッ!!」
「──っひ!」
そのまま、空いたもう片方の手を振りかぶって、翡翠へ振り下ろそうとし──。
「ダメだよ、みぃちゃん」
その拳を、背後から止める者がいた。
「あァ?」
「ぁ……」
「ひーちゃん、怖がってるでしょ?」
止めたのは、翡翠と同じくバスタオルを体に巻いただけの姿の美沙だった。
美衣菜は訝しげに背後の美沙を睨もうと顔を向けるが、彼女の口が不意に黒い何かで塞がれた。
それは、美衣菜の顔の下半分を覆う程の大きなマスクだった。
マスクを付けられた彼女は、その動きをピタリと止め、虚空を見つめるようにボーっとし出した。
「ひーちゃんとぶつかった拍子にマスクが取れちゃったんだねえ~。ほら、着け直したから、後は深呼吸、深呼吸」
「……すぅー、はぁー……すぅー、はぁー……」
美沙が美衣菜の背中を優しく擦りながら深呼吸を促すと、美衣菜はそれに従って大きく息を吸って吐くを繰り返す。
「──ぁあ?」
「落ち着いた?」
「ん……なんか、悪かったね……」
「え……?」
すると、美衣菜の眼に宿っていた狂気が、熱を冷ましたかのようにスゥッと消え失せた。
先程とは打って変わって、気怠げな目を翡翠に向けて謝罪の言葉を口にする。
彼女の変わり様に、翡翠はキョトンと呆けるのがやっとだった。
別人に変わったような雰囲気を漂わせる彼女は、翡翠を抑え付けていた手を離す。
「ひーちゃん、痛いところは無い?」
「う、うん……」
翡翠を気遣うように手を差し伸べられたが、それを取るのは何だか気恥ずかしかったため、その手を取らずに自力で立ち上がった。
美沙は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべるが、すぐに笑顔を取り繕って美衣菜の肩をポンポンと叩く。
「ひーちゃん、この子は蔵木美衣菜ちゃんっていうの」
「……ソイツ、知ってるよ。名乗ったし」
「あ、そうなんだ。えっと、こうやってマスクを着けてる時は大人しいけど、取れたらさっきみたいにすぐに人に暴力を振るうから、気を付けてね」
美衣菜のことを簡潔に語る美沙は、翡翠に怖い思いをさせたことで申し訳なさそうにしていた。
そんな危険人物がいるのなら早めに教えてほしかった、と翡翠は内心不満を浮かべるが、助けてもらったこともあって黙るだけだった。
美沙の紹介に、美衣菜は訝しげな眼を向ける。
「オマエがこの時間にフロに来いって言ってたじゃん……」
「だってみぃちゃんったら、私と同い年なのに一人でお風呂にも入れないでしょ? マスク取れちゃった時のことを警戒して誰も近付かないから、私がみぃちゃん係になってるんだもん」
「その通りじゃん」
「何回教えてもみぃちゃんが覚えないからでしょ!? 私、支部長にまでみぃちゃん係って認識されてるんだから、もっとしっかりしてよ!」
「料理とか、めんどくせぇ……人にやってもらった方が楽……」
「もーっ!!」
美衣菜の他力本願な態度に、美沙は悩まし気に頭を抱える。
一連のやり取りで、彼女達の互いを知るが故の気軽さがある姿に、翡翠は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
その後、美衣菜も含めた三人で大浴場に戻って入浴し直したのだが、この蔵木美衣菜という少女は幼い翡翠ですら〝おかしい〟と確信出来る程に、普通ではなかった。
まず、自分の着ている服すら脱げず、体を洗うのも髪を洗うのも濡れた体をタオルで拭くことも、自力で行おうとすることなく、全て美沙に頼り切りだった。
湯船に浸かっている際にも、家事や掃除等も美沙が手助けすることでどうにかなっているレベルであると聞き、翡翠は自分よりも子供っぽいと感じていた。
食事に関しても、普段はフォークかスプーンが主で、最近になって箸を使うことを覚えたばかりだと言う。
それでも、めんどくさくなると手掴みで食べ出すという、野生児染みた摂取方法を行うようで、美沙は半ば呆れながら説明していた。
入浴後、美衣菜と別れた翡翠は再び美沙の部屋に戻る。
だが、ここでもまた一悶着があった。
それは……。
「ねぇひーちゃん、いいでしょ?」
「いやっ!」
美沙が翡翠と添い寝をすると言って来たのだ。
確かにベッドが一つしかないとはいえ、先程入浴中にされたことを思えば、少女が拒否するのは当然であった。
「でもほらほら、ベッドは一つだけだし、予備の布団も明日にならないと運ばれないから、今日だけだから……」
「うー……」
「えっとね、お風呂のことはちゃんと謝るからね? もうひーちゃんの許可をもらう前に抱き付いたりしないからね? 今夜だけ、同じベッドで寝ようよ?」
「……」
美沙自身もやり過ぎだったと、反省の言葉を口にする。
それでも、翡翠は一向に目を合わせないままであった。
「……本当に、ごめんね? それじゃ、私は床でも大丈夫だから、ベッドはひーちゃんが使ってね」
「……っ」
翡翠が自分に心許さないと思った美沙は、そう結論を出してクローゼットから毛布を取りだして、自らの体に羽織らせた。
「心配しなくても、私は魔導士だから雑魚寝でも大丈夫だよ」
「し、心配、なんて、してない……」
幼い自分を気遣う美沙に、翡翠は彼女への警戒心から強がりな言葉を発する。
「そっか……それじゃ、おやすみ」
「…………」
気遣いを無下にされたのにも関わらず、美沙は苦笑を浮かべるだけで怒りもせずに、ゆっくりとベッド下に寄り添うように横になった。
「……」
色々と釈然としない気持ちがあったものの、翡翠は美沙に勧められた通り、彼女が使っていたベッドに横になって毛布を被った。
今日という一日の中で起こった出来事は、一言では言い表せない程に、濃い一日となった。
母親の死だけでも一生の傷を作られたというのに、その母親を殺した怪物と戦う魔導士という役目を担う少女の一人である、舞川美沙とこうして同じ部屋で過ごすことになった。
舞川美沙という少女はとにかくお節介焼きだ。
翡翠を見捨てることなく、彼女は蔵木美衣菜のような関わりを避けたい人間にも世話を焼く程に。
初咲が美沙の提案に条件を付けた上で、自身の面倒を見ることを許可したのはもちろん、工藤静や蔵木美衣菜にも大なり小なり好かれている証拠だろう。
だが、その優しさが翡翠には心苦しかった。
死にたくはないと思ってはいるが、同時に生きたいとも思っていないからだ。
酷く矛盾している少女の心に、土足で入り込んで来る美沙の存在は煩わしく、命を救ってもらった感謝こそあれど、必要以上に踏み込んでほしくない。
そんな彼女は多くの人に囲まれていた。
自分が数時間前に失った絆を持っていた。
「──ママ……っ!」
形容出来ない焦燥感と不安から、翡翠は亡き母を望む弱々しい懇願を口にする。
そして、その母が死んでしまったことを改めて認識した翡翠の心に、一層の不安が募る。
目からどうしようもなく涙が溢れて来て、ヒクヒクと嗚咽も止まらない。
「パパ……おにーちゃん……」
さらに、離れてしまった父と兄をも求める。
だが、いくら翡翠がか細い声で呼ぼうとも、求めた人物が来るはずも無く、心の悲しみは癒えるどころか一層虚しくなるだけであった。
──これからどうなるんだろう。
──ママとパパとおにーちゃんに会いたい。
──ひとりぼっちはイヤだ。
「──っ!!」
遂に辛抱堪らなくなった翡翠は、ベッドから跳び上がるように起きて、部屋の外へ出る。
家族で一緒に暮らしていた頃の情景を胸に、少女の小さな足はどんどん駆け足になっていき、やがて建物の外へと出ていた。
「はっ……はっ……」
しかし、当時は魔導少女でない上に九歳だった翡翠の体力は早々に尽き、気付けば辺りは既に陽が沈んで暗くなっていた。
日本支部の建物がある周辺は放棄された廃ビル群であるため、そこ以外のライフラインは断たれている。
故に、街灯があっても電気が通っていないことから、月明かり以外の光源が何一つ無い状態だった。
さらに、翡翠は美沙に連れられるままに日本支部の建物にまで来ていたため、ここが羽根牧区のどこかなどの知識は持ち合わせていない。
そうなれば、少女が迷子になるのも当然の結果であった。
「ママ……っ! パパぁ……おにー、ちゃん……っ! どこぉ? ヒクッ、やだぁ……ひとりぼっちは、いやだぁ……うええええん、うあああああああっ!」
夜の闇と孤独の寂しさから、翡翠は遂にその場で立ち止まって泣き出してしまう。
独りになるくらいなら、いっそ助けられることなく死にたかった。
そう悲観する程に、少女の心は弱り切っていた。
戻ろうにも道が分からないため、翡翠にはどうすることも出来ず、その場で立ち尽くすだけであった。
その時、ザッと背後から何かが近付く音が聞こえた。
「──っ」
──きっと美沙だ。
翡翠はそう直感する。
恐る恐る音のした方へ顔を向けると……。
「シャアアアアッ!」
「──ヒッ!?」
だが、その視線の先にいたのは美沙ではなく、白い体表と至る所に赤い線が走っているずんぐりとした丸い体の生物で、頭頂部にあたる部分にはウサギのロップイヤーのような、垂れた耳のと思える部位があった。
一見可愛らしくも、どこか悍ましい雰囲気を漂わせるこの生物は、姿形は違えど自分の母親を殺した怪物──唖喰だと、翡翠は悟った。
「ぁ、うぇぅ……あ……」
すぐに逃げなくてはと思うも、翡翠の両足は地面に縫い付けられたように動かせなかった。
彼女は別の個体とはいえ、母親が母親で無くなる瞬間を見ていたのだ。
加えて、翡翠自身も食われようとしていた時の恐怖がフラッシュバックしている。
これでは逃げろという方が無茶であった。
「シャアアアア」
動かない翡翠を獲物として捉えたラビイヤーが、じりじりと少女との距離を詰める。
少しづつ縮まる間合いは、刻々と幼い命の終わりを数えていくようであった。
「や、ぁ……」
それでも翡翠の足は一歩も動くことなく、むしろ腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
最早逃げることは不可能と察した瞬間、ラビイヤーが獲物を捕食しようと体積からは予想出来ない大きな口を開けて飛び掛かった。
「こん、のぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「──ぇ」
必死さで満ちた掛け声が遠くの方で聞こえたかと思うと、今まさに翡翠に襲い掛かろうとしていたラビイヤーに、二本の光の剣が突き刺さった。
剣で貫かれたラビイヤーは塵となって消滅し、必然的に翡翠は命を失うことなく無事に済んだ。
そして、そのきっかけとなった光の剣を放ったのは……。
「良かった、ひーちゃん……間に合ったっ!」
「あっ……」
深緑のフィットスーツと白のプリーツスカートを着た、美沙だった。
またも彼女に助けられたと理解した翡翠は、咄嗟に言葉を詰まらせる。
何せ、黙って出て行った上に唖喰に襲われていたのだ。
素直に感謝出来る立場で無いと自らを責め、何も言わない翡翠に対して、美沙も何も言葉を発しなかった。
美沙からすれば、翡翠は自分と一緒に居るのが嫌で逃げたのだと思っているためである。
翡翠の命の危機に駆け付けはしたが、ひょっとしたら自分に助けられるのが嫌だったのかもしれないと思い、何を言おうか迷っているのだ。
「グルルルァ!」
「ゲギャアッ!」
「っ!」
そうこうしてる内に、敵の増援が湧いて来た。
犬のような四足歩行でありながら、体積の八十パーセントが口腔という〝イーター〟と呼称されるものと、体にムササビのような風受けが着いたトカゲの姿をした〝リザーガ〟が、美沙と翡翠を喰らおうと複数で群れを成してやって来た。
それを見た美沙は身の丈はある棒型の魔導武装を握る手に力を籠める。
──次の瞬間、何体かのイーターの頭上に細長い影が突き刺さり、塵に姿を変えて消滅した。
「──えっ!?」
次いで降り立った人物に、翡翠はさらに驚愕した。
その人物は、血のようなスカーレットのショートヘアはそのままで、髪より赤に染まったコートは背中部分が肩甲骨辺りから二つに分かれており、ボロボロの裾も相まって蝙蝠の羽のようにも見える。
黒を基調としたフィットスーツには、バツの字の白いラインが刺繍されていた。
「オイオイオイオ~~イッ! 敵さんがジャンジャン湧いてるじゃぁ~んッ! あたしも混ぜろよ!! あはハハはハはははッ!」
狂笑を浮かべる彼女──蔵木美衣菜も、美沙と同様に翡翠の捜索にあてられていた。
そうして、二人の魔導士と百を越える唖喰との戦いが幕を開ける。
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