191話 ルシェアの葛藤


「な、何故だ!? 貴様の記憶は消されたはずでは……!?」


 殴られた頬を抑えながら、叔父様はリンドウ様が拘束を解いただけでなくルシェアが消したはずの記憶も無事なままでいることに、狼狽していました。


 その驚きはワタクシも同じでした。

 この目で確かにルシェアが術式を発動させたところを見たのですから。


 驚く叔父様に対し、リンドウ様は左手で頭をトントンと突きながら答えました。


「『陰詠唱』を使ったアンタを騙すための演出だよ。御覧の通りゆず達のことはもちろん、アンタの耳が腐りそうな悪行の数々もきっちり覚えてんぞ」

 

 一秒でも早く忘れたいけど、と叔父様の問いに対してリンドウ様は皮肉めいた返しをしました。

 陰詠唱……口で発している言葉の裏に術式発動のキーワードを隠す対人技術のことです。

 

 ですが、男性であるリンドウ様には術式は扱えないはず……。

 愕然としたままだった叔父様はハッとしてリンドウ様の後方にいるルシェアを睨みつけました。


「ルシェア・セニエぇっ!! 裏切ったな小娘があっ!!?」

「っ!」


 そう、考えられるとしたら……先程リンドウ様に記憶処理術式を掛けたルシェアだけです。


 彼女はリンドウ様と協力していて、陰詠唱で記憶処理術式を掛けたと思わせ、実際には彼を気絶から復帰させる治癒術式を掛けたのでしょう。


 ですがそれは、普通では考えられないことです。

 ルシェアが叔父様の脅迫に屈して、本当に記憶処理術式を掛けられてもおかしくないはずですのに、リンドウ様は彼女なら大丈夫だと全幅の信頼を寄せていたことになります。


 ルシェアは……叔父様の脅迫に逆らうことよりも、リンドウ様の信頼を裏切りたくないと思ったのでしょう。


 あれだけ心を傷付けられながらも、彼女は屈することなく耐えて、リンドウ様の手を取ったのだと、ワタクシには分かりました。


 一方、絶対服従を信じて疑わなかった叔父様は、ルシェアの行動に大きく憤慨しました。

 その怒りをぶつけられたルシェアは、肩をビクッと震わせますが、反対に叔父様に軽蔑の視線を向けながら口を開きました。


「裏切るも何も……先にボク達を裏切ったのは支部長の方じゃないですか!」

「な、この……っ!」


 ルシェアの尤もな言い分に、叔父様はたじろぎました。

 彼女の言う通り、最初にワタクシ達を裏切ったのは他でもない叔父様自身です。

 裏切った方が裏切りを糾弾するなど、それこそ筋違いというものですわ。


 ですが、叔父様は何故か嗜虐的な笑みを浮かべて、スマホを取り出しました。


「そうか……そういう態度を取るなら、コレをばら撒かれても文句はないなぁ?」

「っ!」


 その一言で、叔父様が何を企んでいるのかがわかりました。

 恐らく、スマホのボタン一つでいつでもルシェアを襲った写真を散布する腹積もりなのだと。


 唾棄すべき行いに吐き気を覚えますが、これではルシェア自身が人質にされているのと変わりありません。


 リンドウ様はどうなさるおつもりなのでしょうか……?


「リンドウ・ツカサ……その小娘は君が危険を冒してでも助ける価値のあると思っているのか? そいつはなぁ、自分の夢と記憶のために敬愛していたアリエルを誘拐するという悪の片棒を担いでいるのだぞ?」

「……」

「っ、ぁ……」


 叔父様自身がそうさせたのにも関わらず、ルシェアを見捨てていいのかと脅す叔父様に対し、リンドウ様は睨むだけで何も仰られませんでした。

 

 その反応でリンドウ様に何も策がないと踏んだのか、叔父様は嘲笑を上げてさらに続けました。


「ルシェア・セニエ! 今度こそ小僧の記憶を消せ! 最早魔導と唖喰に関するものだけとは言わん! リミッターを外して全ての記憶を消さねば私の怒りは収まらん!!」

「そ、そんなの、だめです!」

「君のあられもない姿が社会に曝されてもいいのかぁ!? それとも自らの保身のために今度は小僧相手に股でも開くつもりなのかぁい!? あぁ、なんと卑しい売女だろうか、お前を助ける価値などどこにありはしな――『知ってるよ』――ぃ――は?」


 嬉々高々と己の優位を語る叔父様の言葉に割り込むようにしてリンドウ様はたった一言だけ発すると、途端に静寂に包まれました。


 その言葉を聞いて、ワタクシも叔父様もただ茫然とするしかありませんでした。


 知っている?

 何を?


 自ずと浮かんだ疑問にリンドウ様は答えました。



「ここに連れて来られる前から全部知ってるよ。ルシェアが何をして何をされたのか、全部な」


 リンドウ様の表情は、この切迫した状況に似つかわしくない程穏やかなものでした。


 ~~~~~


「ごめんなさい」



「――ぇ」



 何故彼女が謝るのか分からず司が振り返った瞬間、右手に持っていた角材を振りかぶるルシェアの姿が視界に入り、すぐに暗転した。








「――ってぇ……」

「えっ!?」


 頭部を殴られた痛みで一瞬だけ目を瞑ったことで暗転した視界が即座に光を取り戻し、仰向けになって倒れそうになった体を支えるために右足を後ろに引いて踏ん張って堪えた。

 

 司が耐えるとは思っていなかったのか、ルシェアは戸惑いを隠せず狼狽した。

 その一瞬の隙を見逃す程、司は甘くない。


 ルシェアが振りかぶって地面に着いていた角材を足で蹴飛ばし、その角材に釣られるようにして持ち上がった彼女の左腕を掴んで足払いをして体の重心を崩し、反転、彼女を背中から地面に叩きつけた。


「――らぁっ!」

「あうっ!?」


 完膚なきまでに決まった一本背負いによって、司は一旦窮地を凌いだ。

 顔見知りの少女を自己防衛のためとはいえ、怪我をさせてしまったことに少なくない罪悪感を覚えつつ、司はルシェアの右手の人差し指に着けられいた指輪型の魔導器を取り上げる。

 

 これにより、身体強化術式を発動出来なくなったルシェアには年相応の少女の腕力しかなくなった。

 かつて季奈と共に河川敷で上位クラスの唖喰に襲われた事件の反省から始めたトレーニングにより、司の腕力は同年代の男子高校生では高水準の域に達している。


 そもそも男女の腕力差でも敵わないため、ルシェアは完全に無力化されたのだった。


「……どう、して……?」

「……」


 何故気絶しなかったのかと問うルシェアに対し、司は何も答えなかった。


 というのも、司が気絶しなかったことには三つの要因が重なっていた。

 

 一つ目はアリエルを捜しに行く前にクロエによって掛けられた身体強化術式である。

 それによって肉体も頑強になっている司の体は、小石をぶつけられても掠り傷一つ負うことはない。 

 

 二つ目は何とも皮肉な話だが、菜々美を庇ってイーターの攻撃を受けたことである。

 あの話ははぐれ唖喰が悪いということで片付けたものの、司自身にも反省点はいくつかあった。

 同じ過ちを犯さないように、司なりに周囲への警戒を強めることにしたのだ。


 とはいっても日常的に警戒するにはあまりも脆い付け焼き刃であるため、これがルシェアと普通に出かけた時なら危うかった。


 そうならなかったのはアリエルが誘拐されたという、非常時における不幸中の幸いが理由だった。

 故に、司は顔見知りであるルシェアの奇襲にも咄嗟に身を引くことで急所を逸らしたのだった。 


 そうして三つ目……司自身はこちらが一番重要度が高いと感じていた。

 どれも司自身が為したというより、奇跡ともいえるレベルで偶然が重なった結果であるため、自分自身の成果として到底誇ることは出来ないと思っていた。


 だからこそ、ルシェアの問いにどう答えたものか戸惑ったのである。

 しかし、目の前の暗い表情をしている少女の問いに答えなければならないとも感じていた。


「――あの一撃……手加減してただろ?」  

「っ!?」

「多分、無意識の手加減だと思う。もし本気だったら身体強化術式で多少頑丈になったぐらいじゃ簡単に気絶してたし、なによりルシェちゃんは自分から進んで他人を傷付けるような子じゃないだろ?」

「で、でも、ボクは現にツカサさんを……」


 自分は司を殴ったではないか。

 暗にそう訴えかけるが、司は首を横に振ってその訴えを否定した。


「何か理由があったんだろ? そうじゃなきゃ、君はそんなことをしないって出会ってまだ三週間ぐらいだけど、それぐらいは俺でも分かるよ」

「――っ、ぁ、ぇぅ……」


 何故そこまで信頼しているのか分からなかった。

 だが、それ以上に司の言葉が暖かく、ルシェアの心は震わされた。


「頼むルシェちゃん、アリエルさんの居場所を教えて欲しい。それで彼女を助け出す手伝いをしてくれたら、殴られたことぐらい水に流すよ」

「――っ!」


 司から出された提案は、ルシェアにとってこれ以上ない希望だった。

 だが、すぐにそれでは駄目だと思い直す。


 何故なら、自分の手は汚れてしまっている。

 自分の夢と記憶のためにダヴィドに体を許して襲われ、行為中の様子を撮られて脅され、抵抗も出来ずにアリエル誘拐の片棒を担いだのだ。


 きっと司に願えば、彼は今までのように自分を助けてくれるだろう。

 だが、そんなことは他ならないルシェア自身が許せない。

 アリエルを貶め、司を傷付けようとした自分が、今も危機に瀕しているアリエルを差し置いて救われるなど、烏滸がましいにも程がある。 


「お願いだ! 今唖喰と戦ってるゆず達を助けるには、あの人の力が必要なんだよ!」

「――っ」


 無理だと首を横に振る。

 自分がそんなことをしたと知られれば、きっと司に嫌われてしまう。

 元々叶うかも怪しかった夢をあんなに真摯に応援してくれて、叶うところまで届いた時にはまるで自分のことのように喜んでくれた彼に嫌われてたくない一心で口を閉ざす。


 そこまで考えたところで、ルシェアは内心自嘲する。

 なんて浅ましいのだろうか。

 自分の保身ために体を許した挙句、司に嫌われたくないなどという意地を張り、彼の頼みを無視し続けているではないか。


 これではダヴィドが行為中に何度も口にした〝卑しい女〟そのものだと自虐する。

 だが、それでも司にだけは知られたくないという想いから、ただ黙るしかなかった。

 そんなルシェアの態度に、司は何かに気付いたかのようにハッとして……。


「もしかして……アリエルさんを誘拐した奴か、フランス支部の元魔導士達を妊娠させた奴のどっちか……いや、どっちもやった犯人に脅されてるのか?」

「――っ!!?」


 的確に核心を突いてきた司の言葉に、ルシェアは目の色を変えて驚いた。

 その反応を見て、無言の肯定として受け取った司は、その目に煮えたぎる程の怒りを顕わにした。


 あぁ、彼はポーラに殴られた時と同じように、今も自分のために怒ってくれていると解った。

 その優しさに心を震わせながらも、やはり自分のしたことを知られたくないと思ってしまう。 


「マジかよ……なら早くアリエルさんを見つけないと……ルシェちゃん……」

「っ」


 無言で首を横に振る。

 最早ルシェアの心は何もかも考えることを放棄していた。

 アリエルへの敬愛も司への信頼も、ダヴィドへの恐怖が押し寄せ、四面楚歌の板挟みになっているのだ。


(怖い……アリエル様を裏切ったことも、ツカサさんに嫌われるのも……ダヴィド支部長のことも……)


 立ち竦んでどこへも歩みだせない袋小路に立ったルシェアは、どうしようとも降りかかる恐怖に身を震わせる。

 

「っ、どうしても言ってくれないのか……?」

「ぁ……」


 頼みの綱が引けないことに痺れを切らしたのか、司がそう呟いた。

 その声を聞いたルシェアは、彼が強硬手段に出ようとしていると察した。


 だがそれが相応しいとも感じた。

 愚かな自分とは違って、危険だと解っていてもアリエルを助けたいという意思は、誰にでも誇れることだ。


 ゆずがどうして彼に恋心を抱くのか、その理由を見せつけられた。

  

 そんな彼から与えられる罰なら甘んじて受け入れよう。

 少なくとも、ダヴィドからされたことよりはマシだと、諦念に身を委ねる。


 もう自分のことなどどうでもいいと思ってしまう程に彼女の心は弱り切っていた。


「……言わない、か……それなら……」


 司はそう言ってルシェアと目を合わせる。

 絶望に心を閉ざすように、ルシェアはゆっくりと目を伏せて――。 








「――無理には聞かないよ」

「――え?」


 先の焦燥感が打って変わって、穏やかな口調でそう告げられた司の一言によって、諦念も絶望もその浸食をピタリと止められた。

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