178話 想いの逃げ道
「は、話って……どういうつもりなの?」
ベッドに膝を抱えて座りながら戸惑いがちに慌てる菜々美さんの表情は、たった四日間だけ顔を合わせなかったのに酷く憔悴していた。
栗色の髪はボサボサに乱れ、余程の涙を流したのか眼は赤く腫れていて、涙の後も暗闇の中でもはっきりと見えた。
人はこうなるほど自問自答で自らを傷付けられるのかと思うと、心にズキリと痛みが走った。
「そんなに難しいことじゃないですよ。ただ菜々美さんにいつものように笑っていてほしいだけです」
「え……」
俺の目的を告げると、彼女はポカンと呆けたような表情になった。
俺としては単純な……菜々美さんにとっては不可解な答えにしばらく沈黙が漂う。
「な、なにそれ……今更私が笑っていてほしいって……私、君を守れなくて死なせかけたんだよ!?」
「菜々美さんははぐれをすぐに倒して俺の怪我を治してくれたじゃないですか。なら俺が菜々美さんを恨むことも責めることもないですよ」
むしろ感謝をしているくらいだ。
いくら魔導士といえど常に不意打ちから守れと言われているわけではないし、なにより命の恩人を恨むのは筋違いだろう。
ポーラが言ったような常に警戒を怠らない姿勢は確かに理想的だ。
だがそれは戦士としての理想であって、人としての理想ではない。
常に唖喰の襲撃に警戒をするなんて疲れるに決まってる。
俺と出会う前のゆずですら適度な休息をしていた程だ。
仮にポーラが菜々美さんの立ち位置になっていたとしたら、それこそ開き直りと責任転嫁の連続だっただろう。
逆に菜々美さんは自分の責任をしっかりと受け止めている。
だからこそ、塞ぎ込んでしまう程に自分の弱さを責めている。
そんな心から優しい人が目を腫らして泣く必要なんかない。
涙を流す原因が俺にもあると理解している分、さらに心が痛んだ。
「そ、そんなわけない……私といたら……また司くんが怪我をしちゃう……ゆずちゃんも皆も……私なんかを庇って今度こそ死んじゃうかもしれないのに……私なんていない方がいいに決まってる……」
首を振って酷く弱々しい声音で自らの存在価値を否定する菜々美さんは、どうしようもなく心が弱り切っているのが解った。
それはもう自ら死を
このまま放っておけば自殺してもおかしくないくらいだ。
今このタイミングで菜々美さんの部屋に来て良かったと安堵しつつ、自分を唾棄しようとする彼女に伝えようと思っていた言葉と想いを告げるために口を開く。
「少なくとも、俺は菜々美さんがいなかったら六回は死んでるか日常指導係を辞めてるかでここに立っていられない瞬間がありましたよ」
「え……?」
意味が分からないといった顔をする彼女に、当時の会話を思い返しながら続ける。
どれもこれもとても懐かしく感じるが、実際に経過した時間はまだ半年も経っていない。
それは間違いなく竜胆司という人間が生きて来た十七年の中でも最も濃密な時間だ。
「まずはゆずが唖喰と戦うところを見たいって言った時です」
「そ、それは先輩が許可したからで……」
「まぁ、菜々美さんの言う通り実際に許可を出してくれたのは工藤さんですけど、きっと工藤さん一人だったら魔導銃を持っていなかった俺を戦場に連れて行くなんてしなかったと思います……今にして思えば、菜々美さんがいたから工藤さんは俺を守ることに専念出来たってことじゃないですか?」
「……」
菜々美さんは何も答えなかった。
反論がないというより、その考えに至っていなかったというべきかもしれない。
これ幸いにと、俺は続ける。
「次はゆずが俺に対する気持ちに戸惑って避けていた時ですね。あの時、菜々美さんが相談に乗ってくれたから、俺は焦らずにゆずが自分の気持ちに整理を付けるまでの余裕を持てたんです」
「そ、相談なら私じゃなくて他の誰にでも出来たことだよ?」
「でもあの時に俺の悩みをしっかりと聞いて答えを示してくれたのは菜々美さんだけでした。他の誰かだったらなんてたらればは関係ないですよ」
「……」
当時はゆずがどうして避けるのか分からなかった。
ゆず本人はもちろん、鈴花や季奈に翡翠、初咲さんも工藤さんも誰もそっとしておけというだけで答えてくれなかった。
そんな中で菜々美さんが相談に乗って答えを示してくれたことにどれほど救われたか、彼女に知ってほしかった。
「三回目は修学旅行の肝試しでゆずにストーカーがいたのに菜々美さんを悲しませたくなくてどっちつかずな俺を叱ってくれた時です。正直あの時のビンタは心身共にめっちゃくちゃ効きました」
「あんな偉そうなこと言ったのに?」
「あの時の俺にはあれが丁度良かったくらいですよ。そうじゃなきゃ、ゆずはストーカーの良いようにされていたかもしれませんから」
まさかクラスメイトで、よりにもよってゆずとペアを組んだ奴がストーカーだとは思わなかった。
菜々美さんの叱責で背中を押されなかったら、ゆずのピンチに永久に気付かなかったかもしれない。
「その後で、森の中で唖喰に襲われていた俺を助けに駆け付けてくれた時。あの時になって初めて菜々美さんが戦う姿を見ましたけど、今でもよく思いだせますよ」
「それは、偶々私だっただけで……」
「そりゃゆずに付いて来てもらえばよかったとは思いましたけど、直接助けてくれたのは菜々美さんですし、鈴花だったら喧嘩して時間を浪費してたと思いますんで、やっぱり菜々美さんが駆け付けてくれたことが一番ですよ」
今でこそある程度割り切っているものの、それまでトラウマを抱えていて戦わなかった鈴花が助けに来ていた場合、『何してんだ』とか『戻ったらそのまま大人しくしてろ』とか、いらぬことを言っていた可能性は高い。
ゆずというあの場での最大戦力を俺と気絶していたストーカーの護衛に割り当てていたら唖喰の討伐が遅れていた。
その点、菜々美さんだったからこそ余計な時間も戦力も割くこともなく済ませることが出来た。
偶然とはいえ最高の采配だったと思う。
「今度は俺がベルブブゼラルに意識を奪われていたことで、身も心も削っていたゆずを説得した時です」
「……」
最早菜々美さんからの反論はなく、俺の言葉に耳を傾けるだけになっていた。
一々否定しても無駄だと思ったのだろう。
なら丁度いいと言わんばかりに続ける。
「菜々美さんが必死にゆずを説得したからこそ、ゆずがいつもの調子を取り戻して、ベルブブゼラルを倒すことが出来たって聞いた時は、菜々美さんは強くなったんだなって何様な気持ちになったくらいです」
聞きかじりではあるが、ベルブブゼラル相手に二度目の敗北を喫したゆずはそれはもう目も当てられない状態だったらしい。
そんな状態のゆずを相手に模擬戦を挑んで勝利をもぎ取り、立ち直らせた菜々美さんの度胸には感嘆するしかなかった。
その行動がなければ俺は今も眠っていたままかもしれなかった。
目覚めてすぐに会ったゆずはもちろんだが、菜々美さんにも命を救われていた。
この事実こそ、菜々美さん以外の誰にも出来ないことだと思う。
「そして最後……はぐれ唖喰に下半身を嚙み潰されていた俺に治癒術式を施してくれた時です。全部菜々美さんがいたからこそ乗り越えられたんですよ」
一体これでどうして彼女を恨めるのだろうか?
ゆずが俺に日常指導係でいてくれてよかったというように、菜々美さんが手を差し伸べてくれたことで俺が今こうしていられる。
これだけのことをしてきた菜々美さんが居なくていいわけがない。
もう彼女の存在は切っても切り離せないくらい、俺の日常に深く根付いているのだから。
「……そ、そんなの、全部偶然で偶々上手くいっただけで、私の実力なんかこれぽっちも関係ない!! 私はもっと弱くて情けないんだよ!?」
「運も実力の内ってことじゃダメなんですか? そもそも、運だけで乗り切れるほど唖喰は生ぬるい相手じゃないでしょう。菜々美さん自身にちゃんと実力があるからこそ、俺はこうしていられるってことが分からないんですか?」
「さっきからなんなの!? どうして司くんは私のことを持ち上げようとするの!?」
見捨てて欲しいのに一向にそうしない俺に煮えを切らしたのか、信じられないという風に憤慨する菜々美さんの怒声が部屋の中で木霊する。
元々彼女の中で住み着いていたマイナスの自尊心が爆発したせいだろう。
とことんまで自分で自分を貶めようとする彼女には、俺の救われたという言葉は優しいのに怖くて仕方ないように思えるのだろう。
優しさは毒だと聞いたことがあるが、俺は何も無神経に彼女を持ち上げているわけじゃない。
「『柏木さんが自分の嫌いなところを一つ言うなら、俺はあなたの良いところを一つ言います』」
「――っ!」
一度彼女の前で口にしたことのある言葉を一言一句違えずに再度口にする。
今のように自分を卑下する彼女に言った言葉だ。
それを聞いた彼女は目を見開いて驚いていた。
「『一人で難しいのなら、俺や工藤さんも手伝います。そうしたいって思えるくらい柏木さんは魅力的な人だって、俺は知っていますよ』……相談に乗ってもらった時、こんな風に言ったこと覚えてますよね?」
「……」
菜々美さんは目を見開いたまま無言で頷いた。
覚えていて当然だろう。
何せ、まだ十六歳だった俺に二十歳の彼女が明確な恋愛感情を抱いた切っ掛けの言葉だからだ。
俺としては菜々美さんをどうこうするつもりはなくて、彼女を励まそうとして言った言葉だ。
それが結果として彼女に好意を向けられることになるなんて予想出来るわけがない。
そんな人を好きになる切っ掛けの言葉を忘れているはずはないだろうという、突け込むような狡い手段ではあるが、菜々美さんの目に淡い望みが宿ったように感じた。
「……覚えて、いたの?」
「はい。幸か不幸か自分の発言に責任を持てるようになれと両親に教育されたので」
言ってることは凄くまともなのに、言った人物があれなのが非常に残念だが、おかげでかなり精度の高い記憶力を持つに至ったので、一概に文句が言えない複雑な気分だ。
俺が覚えていると思っていなかったのだろう。
菜々美さんの暗い表情が少し和らいだように見えた。
「……司くんは、私を見捨てないの?」
「限りなくゼロに等しいですね。仮に見捨てたら工藤さんに呪われそうですし、俺自身も居たたまれませんよ」
「……ぅ、ひく、うぅ……」
途端、菜々美さんは涙を流してすすり泣き始めた。
哀しみではなく、喜びの感情からだろう。
ようやく彼女に俺の気持ちが届いたような気がした。
工藤さんには何度も菜々美さんを泣かせるな傷付けるなと口酸っぱく苦言を貰っていた。
それほどまでに大事に想っていた菜々美さんを見捨てる等選択肢に挙げることすら、工藤さんの対する裏切りに等しいだろう。
工藤さんへの義理抜きにしても菜々美さんを見捨てることなど決して有り得ない。
やがて泣き止んだ菜々美さんが顔を上げ、俺の目をまっすぐに据えて口を開いた。
「あのね、私……司くんが私を見捨てないって言ってくれて、本当に嬉しいの……」
ゆっくりと一言一言を選ぶように彼女は告げる。
「司くんは私には勿体ないくらい、とっても優しくしてくれて……一緒にいるだけでどんどん幸せな気分になっていくの」
宝物を抱き締めるように自分の胸元に手を添える菜々美さんの表情は、思わず見惚れる程綺麗に見えた。
そうして一度菜々美さんは言葉を区切り、意を決したように俺と視線を交わす。
「好きです」
「――っ」
頬を赤く染め、瞳を潤わせながら自らの想いを告白した。
ゆずの時と同様、菜々美さんが俺に恋愛感情を向けていることは知っている。
だからと言って実際に告白を受けて動揺しないかといえばそれはまた別の話だ。
飾り気がなくとも、淀みのない純粋な想いを乗せた真摯な言葉は、確かに俺の心を揺さぶった。
「これが初恋だけど、これから先一生を懸けても、司くん以上に好きになれる人はないって確信出来るくらい、私はあなたが好きです」
菜々美さんの告白を受けて、心臓がバクバクとけたたましく大きな音を発していて、全身が茹で上がったように熱い感覚がした。
ゆずの時とはまた違った緊張に、俺は平静を保つのに必死だった。
それこそ、ゆずからの好意や告白が無ければ了承してしまう程に。
我ながら流され過ぎやしないかと若干不安に思うものの、菜々美さんやゆずのように突出した容姿の女性に告白されて意識するなという方が無茶だろう。
「な、菜々美さん……」
「あ、えと、その、い、今どうしても言わなきゃって思っちゃって……えと、迷惑……だった?」
「そ、そんなまさか!? めちゃくちゃ嬉しいに決まってますよ!」
「ぁ、そ、そう、なんだ……」
お互いに顔を真っ赤にして慌てながら言葉を交わす。
ゆずの時もそうだったが、これは落ち着くまで時間が掛かるぞ……。
「それじゃ、どこに行こうっか?」
「え、次のデートですか? 個人的には交流演習が終わってからの方がいいと思うんですが……」
突如振られた会話に答えるが、菜々美さんは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「デートじゃなくて、司くんはどこに行く方がいいと思うって意味で聞いたんだけど?」
「で、デートじゃないのに? いきなり言われても……」
「あ、そうだよね。じゃあ最初は私が決めてもいいかな?」
「え、ああ、はい……」
「どこがいいかな~? あ、お金は心配しないで。私が今まで魔導士として戦って来た分のお金が沢山あるからね。場所は……東北か四国とか……あ、いっそ外国もいいかも――」
「な、菜々美さん? さっきから何の話をしてるんですか?」
デートでもないなら旅行かと思ったが、それなら東北とか四国とか大まかな分布ではなく、もっと有名な観光名所を口にするはずだ。
そしてやけに楽しそうな菜々美さんの様子に妙な違和感を抱いた俺は、戸惑いを隠せずに彼女にどういう意図なのかを尋ねた。
「うん? 今から行く場所の話だけど?」
「いや、旅行なら今すぐじゃなくても……」
「ううん、旅行じゃないよ?」
「ぇ、それじゃ――」
旅行という言葉を即座に否定した菜々美さんは、拗ねるように眉をしかめて答えた。
「司くんは私を見捨てないんでしょ? だから、
「――え……」
さも当然のように逃避行の計画を口にする菜々美さんの言葉は、かつて彼女と観に行った映画の内容をなぞった問い掛けを彷彿とさせるものだった。
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