52話 面白くないと感じる心
目覚まし時計が設定した時間となって、眠りについていた少女の耳に入ってきたのは朝の六時だった。
ゆっくりと体を起こし、寝起きでぼうっとする頭を働かせながら少女は部屋に備え付けられている洗面台で顔を洗った。
土曜日である今日は学校は休みだが、少女は生活リズムを崩さないように毎日夜十時過ぎに就寝し、朝六時に起床するのは変わらない。
顔を洗い終わった少女は鏡をじっと見つめる。
幼い頃に少女の母が教えてくれたクウォーターの血の影響で日本人離れした黄色の髪と緑の瞳。
それが少女――並木ゆずの特徴である。
彼女が自分の他人から注目され安い理由だと思っていたこれらのほかに、自身の顔立ちが同性である他の女性達からも一際綺麗に見えると知ったのはつい最近のことだった。
ふとゆずが視線を落として髪ブラシを置いてある場所を見ると、自身の日常指導係である彼からもらった少女の髪と目と同じ色で編みこまれたミサンガが置いてあった。
それは唖喰との闘いで怪我が絶えないゆずに彼がお守りとして渡したものだった。
「――え?」
ゆずがミサンガを右手首に巻き付け、顔を上げると少し驚いたような声を漏らした。
何故なら鏡に写っている自分の表情に驚いたからだった。
頬は紅潮していて、口元はとても嬉しそうなものになっており、一言で表すなら……幸せそうであった。
ゴールデンウィーク最終日に起きた港での戦いにおいて、自身が無傷で戦いを終えることが出来たのは、司からもらったお守りのおかげだと認識してから最近はずっとこの調子だった。
胸がドキドキして、幸せなはずなのにどこか切なくなる……そんな気持ちになることが増えていた。
以来、日常指導係であり、唯一の異性の友人である司に今までのように接することが出来なくなってしまった。
司から話掛けられる――いや、声を聴くだけで心臓が飛び跳ねているのかと錯覚するほど動悸が強くなり、まともに目を合わすことも出来ないでいた。
なら司から距離を取れば落ち着くのかと思えば、そうはならなかった。
むしろ離れたことで今度は隣にいつも感じていた温もりが消えたような寂しさを感じるようになった。
近づくとドキドキして落ち着かないから距離を置いたのに、今度は寂しくて気持ちが上がらない。
自分で自分のことが分からなくなったゆずは、この感情がなんなのか頭を悩ませ続けていた。
そうしているうちに、朝食の時間になっていることに気付いたゆずは、白色のTシャツに黒色のスラックスを履き、部屋を出て食堂へと向かった。
食堂では既に組織の構成員の何人かが席について食事をしていた。
ゆずは自分の分の朝食をお皿に乗せ、どこか適当なところに座ろうかと辺りを見渡していると……。
「あ、ゆっちゃん! おはようございますです!」
「おはようございます、天坂さん」
サイズの大きいジャージを羽織り、薄緑の髪をツインテールにしている少女――天坂翡翠が挨拶をして来た。
彼女はゆずによく懐いているが、ゆずとしては同じ魔導少女の一人という認識だった……司が自分の日常指導係となる前までは。
この人懐っこい少女は一見して誰にでも同じように接しているが、その内面では懐く人とそうでない人を的確に見極めている。
具体的には好感を向ける人には懐き、劣情や悪感情を向ける人には素っ気なかったり辛辣な物言いをする。
恐らく無意識的ではあるが相手が自分に向ける感情を察しているとゆずは推測している。
それゆえに彼女が懐く人物は信じるに値するという見方もある。
そう考えると人となりを聞いただけで懐かれた司はかなり珍しい例であった。
「ゆっちゃん、せっかくなので一緒に食べようです!」
「ええ、私が一緒で良いのでしたら」
翡翠の提案にゆずは快諾した。
すると、何故か翡翠はゆずの方をじっと見つめていた。
「天坂さん?」
「つっちーは凄いです!」
「え?」
自分を見つめる翡翠にどうしたのかと思い、ゆずが声を掛けると唐突にこの場にいない司を称賛し始めたため、ゆずは何が何だか分からなくなった。
「つっちーに会う前のゆっちゃんはひーちゃんがご飯に誘っても「一人でいい」って言って断っていたです! でもさっきのゆっちゃんは一緒に食べてもいいって言ってくれたので、ゆっちゃんを変えたつっちーは凄いなって思ったです!」
ゆずの戸惑いに気付いた翡翠がそう答えた。
「え、私……断っていましたか?」
「ハイです! それこそひーちゃんなんて眼中になかったです!」
「そ、そんなに冷淡な態度を取っていなかったはずなのですが……」
確かにあまり周りに関心を抱いていなかったが、どうやら翡翠と他の魔導士達にはそう見えていたようだった。
もう少し周りと積極的に関わろうと決めたゆずは、翡翠と向かい合うように席に着いた。
ゆずの朝食は青野菜の味噌汁に白米、焼き鮭という和風定食のようなもので、翡翠はレーズンパンを二つとコンソメスープという洋風なものだった。
しばらく朝食を味わっていると、翡翠から話しかけられた。
「あ、そういえば今日もつっちーは射撃訓練に来るです!」
「っ、そ、そう、ですか……」
翡翠から司の名前を聞いてさっきとは違う動揺が胸に起きた。
危うくお米を噴き出してしまうところだったが、そこはなんとか堪えた。
(どうして、天坂さんは司君の予定を知っていることに
動揺した理由はそこだった。
自分は司と話せなくて悩んでいるのに、何故か
それがゆずにとって何だか面白くなく、ふと鈴花以外の人物で司がどのような会話をしているのか知らないことに気付いた。
教室で石谷を始めとした同性の友人と会話をしているところは見ているものの、ゆずがいない間に翡翠や菜々美と仲が良いと、鈴花から聞いたことがあった。
しかし、実際どんな会話をしているのかはよく知らないでいたため、丁度いい機会だと思い、まずは翡翠に尋ねてみることにした。
「天坂さんは司君と仲が良いみたいですね。普段はどのような会話をしているのですか?」
出来るだけ、そう出来るだけ自然に尋ねてみた。
「はい、いつもひーちゃんの学校の話とか、つっちーの訓練の話とかしているです!」
「……そうですか」
翡翠はゆずの問いになんてことのないというふうに答えた。
「ひーちゃんがつっちーに甘えたくて
「……抱き着く?」
とびっきりの爆弾を投げ放って。
(抱き着く……つまり
「ゆっちゃん? なんだか目が怖いです……?」
「――っは、あ、すみません……少し考え事をしていました……」
「?」
翡翠の人懐っこさが成せるのか、司の防御が甘いのか、とにかくゆずにしてみれば全く面白くない話だった。
それどころか司がこんなに悩んでいる自分を放っておきながら、翡翠に抱き着かれて喜んでいるのかと思うと、非常に気に入らない。
もっと簡単に言えばイラっとした。
しかし、それを翡翠に言うのは八つ当たりになるだけだというのは、ゆずにもわかっていた。
だからこそ、翡翠の指摘になんでもないと答えたのだが……。
「仲が良いと言えば、つっちーとなっちゃんも仲が良いです!」
「なっちゃん?」
翡翠が挙げた司と仲が良い人物が聞きなれない名前だったため、ゆずはそう聞き返した。
とはいっても翡翠は懐いた人の下の名前の噛むため、相手を独特なあだ名で呼ぶ。
そのため〝なっちゃん〟なる人物が男性の可能性がある。
「なっちゃんは、柏木にゃにゃみゅ――」
「柏木菜々美さんですね?」
「はいです!」
ゆずの訂正に翡翠が快く返事をした。
なっちゃんが菜々美だったことに、ゆずは頭を抱えたくなった。
(確かにゴールデンウィーク前に司君が偽ラブレターで屋上に呼び出された際、お二人が映画を見に行ったと聞いたことがありましたが……いまさらですがどうしてそのようなことに?)
「……そうですか」
色々
「わ、今のゆっちゃんの声、すごく怖かったです……」
「……そんなことはありませんよ。ええ、ありませんとも」
自分に言い聞かすようにそんなことはないと言い続けるゆずと距離を開けつつ、翡翠は朝食を一目散に食べ終えて食堂を去った。
午前九時。
朝食を食べ終えたゆずは地下五階の第三訓練場で運動前のストレッチをしていた。
今日もここで鈴花と訓練をする予定であった。
「四十八……四十九……五十……こんなところですね」
最後に屈伸運動でストレッチは終了し、一息ついたところで訓練場の入り口が開いた。
「おっはよ~ゆず」
「おはようございます、鈴花ちゃ――ん?」
挨拶をして来た鈴花は赤色掛かった茶髪をポニーテールにしているのはいつも通りであり、グレー色にゆずが挨拶を返そうとすると、鈴花の隣にはある人物がいた。
栗色の髪を頭頂部で編みこんだシニヨンという髪型にし、グレーの訓練着に身を包んだ女性だった。
「おはよう並木ちゃん」
「……柏木さん?」
鈴花の隣に居たのは、朝食の時にも名前が出ていた柏木菜々美本人である。
まさに噂をすればなんとやら……。
奇妙な巡り合わせにゆずは呆けるしかなかった。
「日本支部の入り口でバッタリ会って、菜々美さんも訓練するって言うから、じゃあ一緒にどうですかって誘ったんだ」
「お邪魔だったかな?」
「いえ……訓練に支障はありませんので、大丈夫です……」
訓練着を着て準備万端の二人に今更やめましょうとは言えるはずもなく、ゆずは菜々美の参加を許可した。
しかも鈴花は訓練場に来るまでの間に、菜々美を下の名前で呼ぶほど親しくなったようだった。
「ありがとう、並木ちゃん。最高序列第一位の人と一緒ならきっといい訓練になるよ」
「おお、なんだかやる気満々だね、菜々美さん」
「うん、ちょっとでも自分に自信を持てるように頑張ろうって決めたんだ」
そう語る菜々美の表情は普段の自信の無い様子でも、無理をしている様子でもなく、心に抱えていた不安を払ってスッキリとしたものだった。
それはまるで一言で言い表せない感情を向ける誰かに勇気づけられたかのようであり、何故かゆずはそのことが非常に気になった。
「あの、柏木さん……差支えが無ければ、お聞きしたいことがあります」
「えと、何かな?」
「ゴールデンウィーク前の土曜日に司君と映画に行ったそうですね。どうでしたか?」
「ええええ!!?」
鈴花が「うわぁ、ぶっ込んで来たなぁ……」と小さく呟くほどの質問をゆずがぶつけると、菜々美は何やらやましいことがあるのか、顔を真っ赤にして羞恥に
((怪しい……))
ゆずと鈴花は菜々美の反応だけで何かあると察した。
女の勘を頼るまでもなく、菜々美が分かりやすいだけだが。
「どど、どうって!?」
「言葉通りの意味です」
「う、うぅ……」
相手の心情を無視して自身の疑問をぶつけるゆずさんモードで追究するゆずの気迫に、菜々美は根負けして司との映画デートの一部始終を語るのに時間は掛からなかった。
「――以上があの日の出来事です……」
「なるほど……」
何故か菜々美はその場で正座をして説明していた。
対するゆずは腕を組んで熟考していた。
(というか今の話からすると、やっぱり菜々美さんって司に惚れたのか~)
その話を近くで一緒に聞いていた鈴花は、菜々美の心情を正確に察していた。
初めて見かけたころから何となくそんな雰囲気はあったため、鈴花にはわかっていた。
「……私は今まで司君と行ったスポットは水族館ぐらいなのに……」
「え、なにそれ羨ましい……私はまだ一回なのに並木ちゃんは二回も竜胆君とデートに行ったなんて……」
(隣の芝生は青く見えるを体現してる……)
菜々美はまだゆずが司の家に泊まったことを話していないが、もし菜々美が知ったらどんな反応が返ってくるのか分からないため、ゆずがいつ口を滑らさないかヒヤヒヤして見物していた鈴花は、凄く面白いと同時に凄く怖い状況に黙ってみることしか出来なかった。
ゆずと菜々美はお互いに〝むむむ〟と見つめ合ったまま、思考を巡らせる。
(どうしてでしょう……柏木さんと隣り合って笑い合う司君を想像しただけで、切なくて仕方ありません……)
(やっぱり竜胆君は並木ちゃんの日常指導係だから仕方ないけど、この子が自分の気持ちを自覚したら私は負けちゃうかもしれない……)
あるのは不安。
お互いの中心にいる司の存在が相手にとってどれだけの影響を及ぼすのか未知数であることから、どうしても決定的な一言が聞けないでいた。
――竜胆司のことをどう思っているのか。
菜々美の方ははっきりと好意を抱いていると言える。
だがそれは司との距離を測りかねているゆずの悩みに答えを齎し、余計な混乱を招くことを危惧しているため、不用意に言える状況ではなかった。
しかし、大学生である菜々美では高校生の司といられる時間が限られるのに対し、司がゆずの日常指導係であるため、必然的にゆずと司は一緒に居る時間が多くなる。
菜々美はそのことが非常に羨ましいと感じていた。
対するゆずは、無自覚な嫉妬から菜々美が司にどのような感情を向けているのか気になっていた。
以前は同じ組織の一員くらいにしか認識していなかった菜々美が何故か気になっていることに、ゆずは心が落ち着かないでいた。
このまま自分が司と距離を置いたまま、菜々美が司と過ごすと考えると、菜々美に対して良くない気持ちが浮かんでくる。
別段、ゆずは菜々美を嫌っているわけではないため、そんな人に後ろ暗い気持ちを向けることが落ち着かないため、そうそうに解消も兼ねてゆずは思い切って尋ねることにした。
「菜々美さ――」
ビィーッ! ビィーッ!
「「「!!」」」
ゆずが菜々美には話を切り出そうとした時、唖喰の出現を知らせる警報が鳴り響いた。
ゆずが警報を鳴らす携帯を手に取って電話に出た。
『ゆず、季奈が魔導結界を展開したわ。観測室のレーダーで場所は羽根牧河川敷、敵ははぐれ唖喰三体と断定。すぐに救援に向かって頂戴!』
初咲からの連絡で、唖喰の戦力と出現場所を聞かされた。
唖喰が三体なら和良望さん一人でも……とゆずは思ったが、昨晩に聞いた話を思い出していた。
それは三日前に巡回に出ていた魔導士二人が死亡したという話だ。
亡くなる前の二人から、はぐれと遭遇したと連絡があった。
となればその唖喰は上位クラスであり、二人が遭遇したはぐれ唖喰と同じ個体である可能性が高かった。
そんな危険な個体が三体もいるとなれば、いくら季奈でも一人では討伐が難しいと思い、ゆずも現場へ向かおうと決めたとき、初咲から続けて言われた言葉に彼女は動揺を隠せなかった。
『はぐれを閉じ込めている結界の中に竜胆君もいるのよ!! 急いで!!』
「――え?」
その一報を聞いた時、今までに感じたことの無い寒気がゆずの背中に走った。
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