逼迫と解放

工藤宏香くどうひろかに抱き締められて泣いたほの姫は、部屋に戻るとどこかさっぱりした印象になっていた。なにか重いものを抱えていたのを下ろしたかのような軽さも感じられる。その様子に、将成しょうせいは内心、戸惑っていた。


『なんだ? こいつなんで泣いてたのにすっきりした顔してんだ?』


将成はまだそういう風に誰かに甘えて受け止めてもらったことがないから理解できなかったのだろう。泣いて泣いて気分が落ち着くという経験がなく、知らなかったのだと思われる。


大人と言えども人間だし、重いものをずっと背負い続けていては心が疲れてしまうこともある。そういう時に受け止めてもらうことでリセットされて、また頑張れるようになるというのは普通のことなのだ。


ほの姫は、ずっと頑張ってきた。たまに両親に会うとその度に重いものを下ろすことができたが、それもここしばらく実家にも顔を出せていなかったことで本人も気付かないうちに疲れていたのだ。それを宏香が癒してくれたのである。


こういうことは、できれば一緒に暮らしている者にしてもらえれば手っ取り早く効率が良いのだが、なかなかそう上手くいかないのも現実ではある。夫婦であっても親子であってもそういうことができない場合は多いだろう。そうして疲れ切ってしまって追い詰められる事例が後を絶たないのだ。


だが、工藤家ではそういうことはなかった。何か辛いことがあれば互いに支え合い、受け止め合い、家族内で癒すことができていた。だからこんなに穏やかでいられる。別々に暮らさなければいけないという辛い状況であっても。


宏香にしてみれば当たり前の行動だった。辛そうにしているほの姫を抱き締める程度のことは。そう、宏香には見えていたのだ。ほの姫の辛さが。明るく朗らかな表情の奥に隠された苦しみが。宏香はそういうことに敏感な少女であった。自分に向けられる感情を察知し、怒られないように、暴力を受けないようにと身を守る術を身に着けていったことの副産物なのだろう。便利ではあるが、悲しい能力とも言えた。


しかし今では、家族や親しい相手を気遣う為に役立てられている。そんな宏香自身も皆が受け止めてくれるから、彼女も穏やかでいられるのだ。将成もこういうことができるようになれば、ほの姫も報われるのだが。


さりとて、現状ではそれができないというか、そんなことがあるということすら理解できていない将成にそれを求めても詮無い話だと言える。まずは彼に成長してもらうことを考えるのが先決だった。そして彼は目の前でそういう実例を見ている。これがいずれ彼の中で結び付けば、いろいろなことを理解してくれるはずだ。だから彼に見てもらうのが必要なのである。


だが、その前に……。


「将成、私、あなたのことが好きよ」


「…はぁ!?」


唐突にそんなことを言われて、将成は面食らった。部屋に帰ってきて第一声がそれか? 工藤の部屋にいた時でもそんな話の流れだったか? と彼は混乱していた。だがそれは彼にはピンとこないものだっただけで、ほの姫にとっては自然な流れだった。工藤家で感じた空気そのものが言葉になっただけなのだから。


「あなたが大人を信用してないのは私も分かってるつもりだった。だけどそれは、『つもり』でしかなかったんだね。さっき、宏香ちゃんに抱き締められてはっきり感じたんだ。私、あなたのことを受け止めてなかったんだって。一緒にはいるけど、受け入れてるつもりだったけど、受け止めてはなかった。一緒にいるのに、将成は今でも一人ぼっちだったんだなって分かっちゃった。


…ごめんね、将成。一人ぼっちにしててごめんね…」


そう言ったほの姫の目に、また涙が浮かんでいた。


『なんだよ、わけ分かんねーよ…!』


分からなくて当然である。これはあくまでほの姫自身が得た彼女自身の答えなのだから。彼女は将成の面倒を見てきた。それだけでも十分、普通の人間ではできなかったことと言える。しかし同じ空間にいて面倒は見ていたが、彼女は将成の<家族>とは言い切れなかった。


いや、本来ならそれは彼女の役目ではない。将成の母親や父親がするべきことだった。だが現実問題として、今、彼にその母親も父親もいない。自分だけが唯一、彼の家族になりえたのに、ほの姫は無意識にそれを避けてきたのだった。


何故か? それは、いつか来るかもしれない<別れ>が怖かったからである。


将成はほの姫の子供ではない。肉親でもない。親戚ですらない。本当にただの赤の他人だ。いずれ彼の母親などが迎えに来たら彼は引き取られてしまう。だからそれが怖くて無意識に距離を取ってしまっていた。壁を作ってしまっていた。他人であるということを忘れないようにしてきたのだ。


自分は両親に愛されて育った。実家に帰れば温かく迎えてくれる人がいる。だけど彼にはそういう人はいない。実の母親も父親も、彼を見捨てた。母親と付き合った男達も、誰一人彼の父親になろうとはしなかった。都合のいい女にくっついている邪魔なコブとして疎んでいただけだった。将成にもそれが分かってしまっていたから、彼は誰も信じられなかった。そんな大人を間近で見てきたから、大人は信用できないクズばかりだと彼は思い込んできた。


確かに、信用できない大人は多いだろう。自分のことしか考えず、他人を追い落とし、蔑み、見下し、愚弄し、力でねじ伏せて自分に従わせようとする人間は決して少なくない。表向きは美辞麗句を並べながら裏ではそれと正反対のことをしている大人も確かにいる。だが、それは決して全てではないのだ。そうではない大人だっているのだ。完全無欠の聖人君子ではなくても、少なくとも彼にとって信用に値する人間だっているのだ。この、嶌村ほの姫のように。


彼女も決して聖人ではない。自分の感情に振り回されて失敗もする、抜けたところもあるただのお人好しだ。だが、親に見捨てられた赤の他人の子供をここまで面倒見るなどという、誰でもができるわけじゃないことをやってこれる人間でもあるのだ。彼女は確かに誠実な人間だった。将成にとっても。


ただそんな彼女でも、いずれは来るであろう別れを恐れて一歩が踏み出せなかった。将成を家族として受け止める勇気が出せなかった。彼女もやはり普通の人間だからだ。怖いことを前にしたら怯えて足が踏み出せなくなる、か弱い人間の一人でしかなかったからだ。だがそれは彼女の責任ではない。彼女が人間に生まれついたことは彼女の責任が及ぶところではない。


しかし彼女は、自分のことをまるで家族に対してするように抱きしめてくれた宏香の姿を見て自分が将成に対してそうしてこなかったことに気付いた。それに気付き、認めることができる人間だった。その器を持った人間だった。


そしてほの姫は、将成を抱き締めた。大きく、柔らかく、包み込むように抱きしめた。母親が我が子を抱くように。


「将成…、今さらだけど、私と家族になってくれる…? 私、あなたのお母さんになりたい……」


突然の申し出に、彼はとにかく混乱するしかできなかった。『家族になってくれる?』とは? じゃあ、今まで家族じゃなかったのか…? あ、いや、確かに自分はほの姫のことを家族だとか認めたことはなかった。だから家族ではなかったのは事実なのだろう。でも、だからといってどうして今さら急に……!?


「ば、バカヤロウ!! 何だよそれ! なんで急にそんなこと言い出すんだよ! 意味分かんねーよ!!」


ほの姫の手を振りほどき、将成はトイレに閉じこもってしまったのだった。




しかし、勢いでトイレに閉じこもってはみたものの、これからどうするかということは何も考えていなかった。


『どうすりゃいいんだ…?』


そんなことを考えてただトイレに腰掛けてただけだった。ほの姫は急に抱き付いてくるし『あなたのお母さんになりたい』とか言ってくるし、何が何だかさっぱり分からなかった。だがそうやって結論も出せずにしばらくこもっていると、不意にトイレのドアがノックされた。


「ごめん、将成、トイレ入りたいんだけど…」


控えめな声でドアの向こうからほの姫がそう訴えかけてきた。声は小さいが、それは既に結構切実なものが込められているのが感じ取れた。


将成が自分から出てくるのを待っていたのだが一行に出てくる気配がないので、止むに止まれず声を掛けたのである。しかし彼はそれを無視した。が、それでどうなるものでもない。ほの姫の声が更に切羽詰まったものになっただけだった。


「将成、お願い、トイレに行かせて。マジでヤバいの…!」


ドアの向こうでは、ほの姫が両足を擦り合わせて懸命に尿意に耐えていた。


『そんなこと言われても……』


とは言え将成としてもこの状況で出て行くのはさすがに気まずくてどうしていいのか分からなくて思考停止に陥っていた。


「あ、やばい、やばいかも」


そう声を出したかをと思うとほの姫は慌てて部屋から出て行った。『まさか外でするつもりか!?』と将成は焦ったが、そのすぐ後で、


「先輩! 先輩!」


とほの姫の声が外から聞こえてきて、別の部屋のドアをノックしている気配が伝わってきた。なるほど、工藤家にトイレを借りに行ったのだろう。将成もこれで解決だと胸を撫で下ろした。だが、


「先輩!!」


切羽詰まったほの姫の声が止まず、ノックも続けられているのに気付き、将成は、工藤家の二人がこの時間によくどこかへ出かけていたことを思い出した。ということは、留守なのか。


ほの姫の声が聞こえなくなったかと思うと今度は外の階段を駆け上がる音がして、


「ごめんなさい! トイレ貸してください!!」


という声と共にどこか別の部屋に入っていく気配がしたのだった。でも、どこに?


「なにやってんだ、あいつ…?」


さすがに彼も気になってトイレから出て来た。そして外の様子に聞き耳を立てていると、


「本当に急にごめんなさい。でもおかげで助かりました」


などという、ホッとした感じのほの姫の声が聞こえてきたのだった。どうやら間に合ったらしい。まあそれはいいのだが、一体、誰にトイレを借りたというのか。


『大人のクセに何やってんだあいつは…!』


と、自分がトイレを占拠してたからだというのを棚に上げて将成は胸の中で毒づいていた。けれど同時に、いい歳をした女が外で小便を漏らすなどという醜態だけは回避できたことについては安堵もしていたのだが。


この時、ほの姫がトイレを借りたのは、十号室の林貝弘徳りんかいこうとくであった。何やら騒々しいので何事かと外の様子を窺いに出た時にほの姫と鉢合わせ、いよいよ切羽詰まった彼女が恥も外聞もなくトイレを貸してほしいと泣き付いたのだった。この辺りはほの姫の性格の為せる業だろう。誰にでも当たりよく接することができるという。


しかし林貝弘徳にとってはこれは衝撃的な出来事だった。せいぜい挨拶を交わす程度だった同じアパートの住人の女性が半泣きで切羽詰まった表情で『トイレを貸してください!』と自分の部屋に飛び込んでくるなど。普段は面倒臭いと思っていたトイレ掃除をたまたまこの日の午前中にしていて本当に良かったと彼は思った。


そして、逼迫した状況から解放された後の彼女の表情。心からの感謝の言葉。女性に慣れていない彼がほの姫を意識するには十分すぎる条件が揃っていたのかも知れない。だがそれがまさかあんな事件に繋がってしまうとは……


さりとてこの時には事なきを得て、ほの姫は緩み切った表情で部屋へと戻ってきた。


人によっては風呂場で用を足せばよかったのにと思うかも知れないが、ほの姫も追い詰められて思考停止に陥っていたということだろう。こればかりは仕方がない。


将成がトイレに閉じこもっていたことについては彼女はもう何も言わなかった。さすがに思春期に入った男子にいきなり抱きついて『お母さんになりたい』などと言い出せば混乱して当然だと少し反省もしていたのだ。それよりは無事にやり過ごせただけでもう良かった。


この日はもう、お風呂に入って寛ぐだけだった。将成もこの騒ぎでほの姫の突然の申し出についてはそれどころではなくなっていたのだった。


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