おにぎり弁当と乱闘事件

翌日の日曜日も、昼食は工藤家で、工藤浩一くどうこういち工藤宏香くどうひろか藤舞美朱里ふじまいみしゅり八上慧一やがみけいいち鷹取真理香たかとりまりかの五人と共に食べることになった。


今日のメニューは、スパゲティカルボナーラである。


日曜日は毎週、土曜日は都合がつけば適宜、工藤家に集まってこうして子供達が料理の練習をするのが習慣になっていた。この習慣も既に一年半以上になる。最初はホットケーキ作りから始まって徐々にいろいろな料理に挑戦するようになっていった。


これは本来、美朱里の為に始まった習慣である。あまり良い形での出会いではなかった美朱里と宏香だったが、美朱里が自らの本当の願い、<優しいお姉ちゃんやお母さんが欲しい>に気付いたことで慧一をめぐっての嫉妬が意味を失い、二人の間に入って仲をとりもとうとしていた慧一自身の働き掛けもあって、本質的には陽気で人懐っこい性格だった美朱里がいつしか、大人しくてあまり他人に対して積極的でない宏香の面倒を見るようになったことで親しくなり、より親交を深める為に始まったのがこの集まりであった。


当時、美朱里は母親や姉二人から虐待を受けており、たまに上の姉の美久里みくりがホットケーキを焼いてくれることがあっても自分にはいつも焦げて失敗したものしかくれなかったことを嘆いていた美朱里に、宏香がホットケーキを振る舞い、かつ美朱里自身もホットケーキを作れるようになることでいつでも好きな時に美味しいホットケーキを食べられるようになればという願いも込められたものでもあった。


その甲斐もあってか美朱里のホットケーキを作る腕は見る間に上がり、姉がなぜホットケーキを焦がしてしまうのかその原因を悟ったことである種の優越感が生まれ、それまで力尽くで抑えられてきた関係性にくさびを打ち込むことになったという経緯もある。


そしてホットケーキを始め、ハンバーグ、カレー、餃子、パスタ、オムライス、果ては肉じゃがに至るまで、様々な料理を作れるようになるに至って、美朱里の姉二人も母親さえも彼女の料理を当てにするようになり、藤舞家の台所を牛耳った彼女に姉も母親も頭が上がらなくなったことで虐待は収まったのである。


なお、今日もここに来る前に、姉二人の為に昼食としてオムライスを作ってきている。昨日の練習の成果をさっそく発揮したという訳だ。しかも昨日の夕食もオムライスだった。その美味さに姉二人からリクエストされ、今日また昼食として作ったということになる。


こうして美朱里は、自らの力によって虐待から抜け出したのだ。この事実は彼女に大きな自信を与え、本来の朗らかさを取り戻すことになったのだった。そう、美朱里の朗らかさは、自らの苦境を乗り越えた強さの証でもあったのである。


そしてそんな美朱里を支えたのが、彼女が『リカお姉ちゃん』と呼ぶ鷹取真理香だった。


リカは元々、慧一の姉の同級生であり、同級生として家に遊びに来た時に慧一と出会って一目惚れして、押しかけ女房ならぬ押しかけ家庭教師として彼の家に出入りするようになり、現在に至っている。難関国立大学の法学部を目指し、既に合格間違いなしのお墨付きをもらっている才女であるが、六歳も年下の慧一のことを本気で異性として愛しており、彼の家庭教師を買って出たのも、彼を自分に相応しい男性に育て上げた上で夫として迎えようという魂胆があってのことだった。


そのこと自体は慧一がなにも嫌がっていないのでもはや彼の親公認の間柄ではあるが、現時点では彼の方にリカを異性として認識するという段階になく、リカの恋が成就するかどうかは予断を許さない状況だった。それでも彼女は決して諦めることなく不断の努力を続けている真っ最中でもある。


ちなみに、普段は背筋を真っ直ぐに伸ばし抜け目なく周囲に注意を払う強キャラ感漂う彼女ではあるが、慧一が何か愛らしい仕草でも見せようものなら途端に骨抜きのデレデレの姿となり、頬にキスでもされた日には感激のあまり気を失うという意外な一面も見せることがある。だがさすがにそれは特に親しい人間の前でしか見せないように注意はしているようだ。


ただここでややこしいことに、慧一はリカのことを姉の友達の優しいお姉ちゃん程度にしか思っていないのに対し、美朱里はリカに対して<姉>以上の情を抱いていた。


決して同性愛者という訳ではない筈なのだが、美朱里のリカに対するそれはもはや恋愛感情にも近いものだった。男性の慧一をリカと美朱里が取り合っているのではなく、慧一に恋慕しているリカに美朱里が恋慕しているという奇妙な状況に至っていたのだ。


さりとて、宏香も含めて四人の関係は非常に良好である。これから先、美朱里らが本格的に思春期に突入することでまた状況が変わったりするかも知れないが、現状では諍いを生むようなものではない。


とは言え、慧一に対して熱い視線を送っているリカを見て微妙な表情をする美朱里の姿が、よく注意して見ていれば分かったりもする。しかしそれで彼女達の関係が壊れるのかと言えば、そうでもなさそうではある。彼女達の結び付きはもっと深いものであって、苦しさを乗り越えた果てに成立したものだったからだろう。互いに必要としあっているのだ。目先の感情で失ってしまいたくないほどに。


リカ自身、父親は大手家電メーカーの重役で、母親は全国にチェーン展開するエステサロンのオーナーという、世間一般で見れば恵まれた家庭に生まれ育ち、幼い頃から何不自由なく育ってきてはいるものの、両親の仕事があまりに忙しかった為に娘の世話はベビーシッターに任せきりという時期があったことで、小学校に上がる前後の頃の彼女は、『自分はこの家庭には要らない存在なのではないか?』という不安に苛まれたことがあった。


もちろんそれは彼女の誤解であり思い過ごしだったのだが、両親があまりに娘の為に時間を割いてやれてないことに気付いてそれを改めるまで、幼いリカはずっと不安の中で過ごしたのだった。だがそれは逆に、両親に自分のことを認めさせ必要と思わせるという意欲を駆り立てるモチベーションにもなり、結果として彼女は難関国立大の法学部に合格間違いなしと評されるほどの才女になった訳で、ある意味では怪我の功名ではあっただろう。


ただ、彼女の場合はたまたま上手く働いただけというのも事実でもある。現に、彼女のように恵まれた家庭に育っても道を踏み外す者がいるというのは、世間が思う恵まれた環境というのはあくまで一面から見たものでしかないという現実も表しているとも言えた。


故に、リカにとっても、慧一や美朱里やそして宏香のことも含めて必要であり欠かすことのできない存在になっていたのである。なにしろ、高校一年の時にリカが行き過ぎた正義感から過ちを犯しそうになった時、引きとめてくれたのは慧一の姉の美咲みさきであり、その時に出会った友人達だったのだ。その出会いがなければ、リカもまた、取り返しのつかないことになっていたかも知れなかったということだ。そこに加えて慧一や美朱里や宏香に出会ったことで、彼女は己を顧みることができるようになったのだった。


彼女らは皆、どこかが欠けていて、それを埋め合わせる何かを必要としていた。この関係はその為のものだった。そしてそれは、将成しょうせいにとっても大いに参考になることでもある。彼は、彼女らの姿から多くのことを学び取る必要があったのだった。




宏香と美朱里と慧一の三人で作ったスパゲティカルボナーラも美味しかった。何かよく分からないもののなんだか悔しかったが美味かった。


しかしそれはほの姫も同じだったようで、


「凹むわ~、マジ凹むわ~。小学生の子に負けてるとか泣けてくるわ~」


と、部屋に戻ってから一人落ち込んでいた。だが、将成は知っている。ほの姫は大らかすぎる性格が災いして手順がいい加減なだけで、料理の腕そのものは決して悪くない。当たり外れはあっても当たりの時はちゃんと美味いのだ。要は宏香達と同じように丁寧に作るようにすればいいだけなのだ。


なのに将成はそれをほの姫には告げなかった。


『メンドくせえ…』


と思っていたからだ。


ただ、その時、将成はあることを思い出していた。二年生の時に同級生の男子数人とケンカになった時のことだった。あの時も確か、きっかけはほの姫の料理のことだった気がする。


そうだ。弁当だ。将成が遠足の時に持っていった弁当のことでケンカになったのだ。あの時、ほの姫は締め切りか何かに追われて忙しくて弁当にまで気が回らず、朝になって遠足当日だと気付いてそれで慌てておにぎりだけの弁当を作ったのだった。海苔すら巻かれてない、本当の塩むすびだけの弁当だった。それを、クラスの男子数人がからかったのだ。


この時、彼がキレたのはしつこくからかわれたからであって、別に『ほの姫が忙しい合間を縫ってせっかく作ってくれた弁当をバカにされたから』などという美談仕立てになりそうな理由ではなかったのだが、少なくとも将成の方から仕掛けたケンカでなかったことだけは確かである。


結局、このケンカでは将成を含む六人がケガをし、実はこの時もやはり一番の重傷は、左の瞼を四針縫い、右手小指を骨折した将成だったのだが、相手の生徒も鼻血を出したりすりむいたりで結構派手な流血騒ぎとなり、校内で問題となったりもしたのだった。そして将成に<凶獣>という二つ名を付けたのは、当時、ケンカを止めに入った教師だった。地面に倒され何人もの生徒に蹴られ踏まれしているにも拘らず全く怯んだ様子も見せず一人の生徒の靴に食らいつき、それを食いちぎろうとでもするかのように、


「ガァッ、ガッ、グァアアアアッッ!!」


と唸り声を上げながら頭を振り回していた彼の姿が、まさしく凶相の獣のようにも見えたからということだった。


将成に責任が無いとは言わない。ただ、他人の弁当をしつこくバカにして、しかもまだ残っているそれを地面にはたき落とすような真似をした他の生徒の責任も大きかった筈だ。にも拘らずこの件でも学校側は元々問題児との認識だった将成に責任があるとして厳しく叱責、怪我をした生徒に一方的に謝らせようとしたのである。


だが彼は頑としてそれを聞き入れず、遠足から戻ってすぐ学校から呼び出しを受けたほの姫が将成の頭を抑え付け強引に謝らせたものの、その時点では彼の怪我の方が大きかったということに気付いていなかったこと、その上、複数の生徒に踏まれて蹴られてという暴行の詳細も知らないまま、さらにはケンカの原因が自分の作った弁当にあったことも知らずに無理矢理頭を下げさせたことをほの姫は後になって大いに後悔し、


「ごめん…! 本当にごめん、将成…!!」


と、彼の前で泣き崩れたりもした。


そのことが六年生になる直前の事件で一方的に謝罪を求められたことへの反発にも繋がったのだとも思われた。


同時にこれによってほの姫は、彼がするケンカは大抵、相手の方から仕掛けられたものであり、彼の方から積極的に仕掛けることはないというのも知ることになったのだった。


その後、ほの姫はどんなに忙しくても弁当だけは冷凍食品などを利用しつつもちゃんと作るようになった。


しかし、本来はそれぞれ家庭に事情もあったりするのだから、他人の弁当をバカにし、ましてやそれをはたき落として食べられなくするような行為がそもそもおかしいということを学校側は指導するべきだったにも拘わらず、ケンカでの怪我についてだけで判断し、将成を悪と断じてしまったのだった。


ちなみに、将成の弁当をからかった生徒の何人かはこの数年後、集団で一人をイジメたという非行事実で補導されたりという経過をたどることになる。


他人の弁当をからかい、何人もで一人を地面に引き倒して蹴るなどというのが<悪いこと>だと教わらなかった為に、再度それを行ってしまったということだろう。その時その時、良くないことをした子供にはそれが良くないことだと理解させるべきだったとも考えられる。


なのにこの時は、それを諭すどころか、教師達が将成を一方的に責めたことで、『自分達こそが正しい、正義である』と誤った認識を与えてしまった可能性すらあるかもしれない。さらには、複数で一人を攻撃することさえ正しいことだと思わせてしまったのではなかっただろうか。


教師を始めとした大人は、分かりやすい悪役を見付けてそれを糾弾するだけで安心するのではなく、そこでいったい何が行われ、どのような問題があったのかということを冷静かつ客観的に調べるという意識を持つべきなのだろう。単なる『誰が悪い』で完結していては駄目なのだ。そこで行われた好ましくない行為については等しく諫められなければならないということを肝に銘じておくべきだと思われた。


この事件で学校にいられなくなってほの姫の郷里の学校に転校することになった将成だったが、彼は彼で教師達のいい加減さを目の当たりにすることになり、大人への不信感をさらに募らせていったという影響もあったのだった。


それでもほの姫は彼を見捨てなかった。遠足での乱闘事件は自分の手抜き弁当が原因であり自分の責任だと感じたのも理由の一つだが、弁当を作った自分の為に将成が怒ってくれたと感じたこともまた、理由の一つだっただろう。ただしこれについては完全な誤解である。将成は決して織姫の為に怒ったのではなかったのだから。


さりとてそういう誤解もありつつもいっそう彼のことを守っていきたいと考えたほの姫は、ますます将成に対して肯定的に見るようになっていったということだった。しかも、彼女が彼のことをそういう風に思えば思うほど将成にとっても彼女の存在が大きくなり、ストッパーとしての役目も確実なものになっていたというのもある。


ただし、若干余談かもしれないが、このほの姫と将成の関係は、<大人と子供>だからまだいい意味で成立しているとも言えるだろう。もしこれが二人とも大人で、ほの姫が彼のことを異性として捉えていると、たやすく<都合のいい女とヒモ男>の関係に成り下がる可能性も高い。なので将成は、完全に大人になる前に彼女の下を巣立っていくべきだとも言えるかも知れない。ほの姫の相手は、しっかりした真面目な男性でなければ彼女はきっと不幸になる。


まあそれはさて置いて、そんなことを思い出していた将成に対し、ほの姫は、


「ねえ? 私ってやっぱりダメな女かなあ? だからいい人が見付からないのかなあ?」


と涙目で訊いてきたのだった。


「知るかおデブ!」


と容赦ない悪態を将成が吐くとほの姫も、


「デブじゃない! 私は断じてデブじゃない! 私はぽっちゃり!!」


と間髪入れずに返し、やはり息の合ったところを見せたりもした。


危ういバランスとは言え、彼女と彼は概ねいい関係だとも言えるだろう。万能ではなくとも将成にとってほの姫は必要な存在だったのだ。そのおかげで彼はここまでやってこれたし、これから必要になってくるものをもたらしてくれるであろう人間達との縁も出来た。彼にとって大切な人だというのは間違いない。彼がいつかそれを自覚してくれることがあった時、ほの姫は本当に報われることになると言えるのだった。


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