カフカ的なことが起きた我が家

 ある日、息子が卵になった。


 カルシウムで出来た硬質的な外郭。なだらかな曲線で構成された直径170㎝ほどで、横幅2m超の楕円。肌触りはなめらかで、ほんのりと人肌の温度を有している。


 卵。とても馴染み深く、メインからサブまでカバーできる万能な食材。個性がないことが個性とも言える普遍的な存在。そういったものに息子がなってしまった。


 こんな文学的な表現を出来るなら余裕だと思われるだろう。しかし、ここへ至るまでにひと月はかかったと弁明しておく。


 最初は妻と「息子が消えた!」と騒ぎ立て、警察や探偵に捜索をしてもらった。もちろん息子のベットに鎮座する卵は知っていたが、それが息子だなんて思うわけはない。


 息子が消えて3週間後に事件が起きた。私財の大半を費やしても息子は見つからない。私達は大学受験に失敗した心痛で家出をしたと考えており、お互いの教育方針を責め合った。


 私への怒りと失望を抱えた妻が、強引に口喧嘩を切り上げ、2階にある息子の部屋に行った時だ。リビングまで響く絶叫が聞こえた。


 私が慌てて駆けつけると、妻が腰を抜かして床にへばりこんでいた。卵に触れながら息子の名を呟いたら動いたというのだ。


 長年連れ添っている妻が心痛でとうとう気が触れてしまった。支えきれない夫としての不甲斐なさが芽生えながら、妻に正気になれ、気を強く持てと励ます。しかし、妻は頑として主張を曲げない。


 私は現実を見せようと、妻がやった通りに、卵に触れながら息子の名を呟く。



 ―――卵の中で、何者かが存在を主張するように大きく動いた。



 息子の行方を明らかにするには、単純に卵を割ればよい。警察や探偵に依るまでもない。しかし、卵という体をなしているということが問題だ。


 もし叩き割って白身と黄身だけだったら? 息子は確実に死んでしまうだろう。


 では、孵化するのを待つか? 


 息子は18歳。いつ孵るか分からないまま徒に時を待っていては、社会に出るべく一番大事な時期を息子から奪ってしまうことになる。それはあまりにも忍びない。出来るだけ早く、卵から出してあげなくては。





 ―――以降、私達夫妻の苦悩が始まった。






「あなた。お医者さんに見せましょうよ」

「ムリだ。どうやってここから出すんだ? マンションを壊してしまう」

「来てもらえばいいのよ」

「息子が卵になってしまったなんて、人に言えることじゃない。そんなことが噂になってみろ。 どんな顔で会社に行けばいい」

「みんな同情してくれるわ」

「気が触れたと思われる。積み上げたキャリアが台無しだ」

「自分の子供と仕事、どっちが大事なのよ!」

「両方だ! 解決法は私が考える。お前は黙っていろ!」


 妻は口汚い罵り言葉を吐き捨て、息子の部屋に向かった。こんな言い争いが始まり、かれこれ3カ月目を迎える。


 ため息を尽きながら、ウイスキーの瓶を掴み、中身を口の中に流し込む。今の私の血管は、この琥珀色の液体が流れているだろう。脳を酩酊させ、不安や悩みを解消してくれるはずの強い酒は、今や喉をうるわすだけの水へと成り下がった。


「何故卵なんだ。家出やヒステリーの方がまだマシだ。ショックなのは分かるが、文字通り殻に籠もることはないじゃないか」


 頭を抱えながら、そうひとりごちる。息子よ、挫折なんていくらでもある。私だってそうだ。社会に飛び出て20年を超え、地位を得ても毎日が挫折の連続だ。


 お前には、挫折を乗り越えて成功を掴む経験を積んでほしかった。そのための協力を惜しまない。親の務めというより、男の先輩として、後輩のお前を導いてやりたかったのだ。


「もうないのか……」


 私はコートを羽織り部屋を出る。酒なんて飲まなくてもいい。しかしここにはいたくない。理由をつけて家を出ることが増えた。それは妻も同じだ。私はゴミ箱に空になったウィスキーの瓶を捨て、買い出しへと外へ出た。



 こうして、我が家は変わってしまった。



 悲鳴とともに終わりは訪れる。ある日の夕べ、妻が日課となってしまった卵を拭くべく、息子の部屋に入ってしばらくした後に「きゃあああああああ!!!!!」という悲鳴が響いた。


 私が駆けつけると、妻は床に転がった卵を必死にさすっている。まるで、小さな子供の怪我を心配するかのような母の顔をしながら。そして、それは間違いではなかった。卵にヒビが入り、隙間から透明な液が漏れ出しているからだ。



 妻は手にしたタオルを殻に押し付け、必死な形相をしながら液を押し止めようとしている。しかし、無情にも、直径170㎝ほどで横幅2m超の楕円が内包する液は、経年劣化で穴の空いた水道管のように勢いよく噴出する。


 卵の側に転がっているボディーオイルが、事故の原因だろう。卵の全面をボディーオイルで吹いてやろうという母性が招いた悲劇なのだ。


 結果として、卵の中身は肉も骨も成しておらず、それどころか人格すらなかったことが露呈した。妻が半泣きでタオルを押し付けている。私の足に絡みつく、生ぬるく粘り気のある液体は、やがて冷たくなった。唐突な結果は理解できても、思考が追いつかない。



 ―――息子が死んだ。



 後処理は淡々としたものだった。殻を砕き中身を確認すると、胎児らしきものが出てきた。18年間ともに過ごした息子とは似ても似つかない体を成していたおかげか、私達夫婦はさほどショックを受けなかった。


 事務的な火葬処理をし、形ばかりの位牌をこしらえる。先祖の墓に埋葬すべきかと思ったが、到底息子とは思えなかったため、今も茶筒ほどの大きさの骨壷は我が家にある。


 ―――全ての始末が終わった日。私は久しぶりに妻と晩酌を交わしていた。


「あなた。あれは本当にあの子だったのかしら?」


 妻は右手でワイングラスを揺すりながら尋ねる。グラスの中で揺れる赤い液体は、まるで生き血のようだ。


 私が「分からない」と返すと、妻はグラスを揺するのをやめた。


「私はね、いつかひょっこり帰ってくると思っているの。ただいまーって」

「同感だ。 いきなり卵が現れたんだ。それにくらべたら可能性は高いと思うよ」


 妻が少しだけ微笑んだ。グラスの側面にへばりついていた液体が、粘り気を持っているかのようにゆっくりと底へと引いていく。今になっても、ふとした時にそのシーンを思い出す。

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