No.3 僕はモノになる

 頬をなでる冷気に目を開けると、薄暗い空気の中にぼんやりと浮かぶ白い天井が映る。白樺を模倣して掘り込まれた、綺麗な木目調だ。

 窓からはまだ日が差し込んでこない。閉ざされたカーテンの隙間からも、黄色く光る太陽の恵みはやってこない。

 身じろぎもせずベッドで待っていると、ノックもなしに扉が開く。キイのいう軽い音と同時に、僕は目を閉じた。

「おはよう、可愛いエルネスタ。起きなさい」

 毛の短い絨毯にスカートを擦らせながら、静かに足音が近づいてくる。

「……はい、お姉様」

 僕はいま目が覚めたふりをして、静かに起き上がる。


 僕はこの国の元王子エルネスだ。王子と言っても、国王に手を出された下女の子供だけど。

 醜い後継者争いに巻き込まれたくなかった母上に、女の子として育てられた、元王子だ。

 今は、辺境のベラスケス子爵に養子として飛ばされた、子爵となってる。

 使用人にも本当の性別を知らされていない、存在しない、してはいけない〝〟だ。

「さぁ、着替えましょ」

 義理の姉が、クローゼットを漁ってワンピースを探している。今日はどれがいいかしら、なんて楽しそうにしているのがベラスケス子爵イレーナ嬢、十四歳。僕よりも二歳年上だ。

 僕が十六歳で人知れず成人したときに、彼女が婚約者になり、この子爵家を継ぐことになってる。その頃には僕の存在なんか忘れ去られてるから問題ない、らしい。

 子爵家としても王家に貸を作れることもあって二つ返事だった、とイレーナが嬉しそうに言っていた。

 彼女は一人娘で、誰かを婿に迎え入れないといけなくて。それが僕になったことに異論はないようだった。

 自慢じゃないけど、僕の顔はいい。端的に美形だ。

 国王は中年になっても精悍な顔つきで国民に人気があって、下女だった母も顔がいいから雇われたってこともあり、僕の顔面偏差値はずば抜けて高い。結婚後に見せびらかすことを考えれば、イレーナの喜びも理解できる。

「今日はこれね!」

 ニコニコ顔のイレーナが両手で広げているのは、白いワンピース。フリルをふんだんにあしらったかわいいデザインで、袖は手首まである。なるべく素肌を露出させない配慮だ。

 僕と一緒にかなりの額の金が動いたはずで、辺境の貧乏子爵の領地がまるまる買えるくらいは、渡ったはずだ。このワンピースも僕を受け入れるための身代金で作られたものだ。

「エルネスタは羨ましいくらい肌が白いから、これが似合うのよね」

 イレーナの、まだそばかすが残ってる幼顔が、嬉しそうに僕を見てくる。

 彼女は、それほど器量よしではない。僕の方が良いくらいだ。

 そんな彼女は僕をお人形さんみたいに扱う。綺麗で、必ず言うことを聞く僕を。

「じゃ、脱いで」

「はい、お姉様」

 僕は命じられるままにベッドから降り、肩に手をかけ夜着のシュミーズを脱ぐ。リネンで作られたシュミーズは、肌を滑り落ちて床に白い花を咲かせた。

 イレーナから「陶器のようね」とうっとりとした目で見られる僕の肌は、自慢だ。彼女よりもきめ細やかで、撫でやかに描かれる曲線は、まだ僕が子供のあかしだ。

 大きくなるにつれて、きっとゴツゴツと骨ばってくるのだろう。その時に、イレーナは今のように僕を扱ってくれるだろうか。

「ふふ、やっぱり綺麗ね」

 イレーナの嫋やかな指が僕の鎖骨にふれる。くすぐったい刺激に、身体がピクリと動いてしまう。それを合図に彼女の指が僕の首から顎へと滑っていく。

「私のエルネスタ」

 暗がりでも分かるくらいに頬を紅潮させたイレーナが、僕の名を呼ぶ。だが、僕の名はエルネスだ。

 彼女の親指が僕の唇を端から端まで蹂躙していく。ゾゾゾっと背筋に何かが走る。イレーナの熱い吐息が僕の顔に降りかかる。

「イレーナお姉様」

「はぁぁぁ」

 僕がイレーナの名を呼ぶと、その小さなピンクの唇から喘ぎを漏らす。彼女の指は僕の顔を離れ、何もつけていない、平たい胸を征服していく。ぺったりと掌を押し付け、僕の心臓の鼓動を確かめるように、その頬を僕の胸に当ててくるのだ。

 これは、毎日の儀式だ。

 イレーナは僕という極上のおもちゃを手に入れ、悦に浸っている。思う存分僕の肌を堪能し、その時間だけ、少女から女へと羽化する。

 僕は黙って受け入れるだけだ。

 彼女を変態だとは思わない。男なのに女として生きている僕の方が余程変態だ。

 脈打つ鼓動を感じとったのか、彼女は僕のその鼓動のあたりに唇を落とす。チュッと音がして、彼女の顔は僕の正面に来る。

 イレーナの背丈は僕と変わらない。そばかすが目立つその顔が、蕩けそうな女の顔で、僕を見つめてくる。

「ふふ、風邪を引いてしまうわね」

 イレーナはベッドに置いた着替えのうち、ビスチェを手に取った。胸から腰までの肌着だ。絹は高いから綿ではあるが、花の刺繍が施され、胸を覆うふくらみは向こうが透けて見える。

 彼女は僕の後ろに回る。僕が両腕をあげると、彼女の腕が脇をかすめて突き出された。前からビスチェを当てられ、後ろで縛られる。あるはずのない胸部は、スカスカだ。十二歳の女の子でもこれが埋まることはないだろう。

 僕がつけているビスチェは大人用だ。子供といえども骨格は男子だからか、女の子用だと胴回りが合わない。

 背後からそのスカスカの胸部に手が差し込まれる。揉むものがないそこで、イレーナの手は僕の平ら胸にぺたりと吸い付いている。

「あっ」

 指がいやらしく蠢き、僕の口から吐息が漏れた。

「エルネスタは、ここが好きなんでしょう?」

 背後からイレーナのねっとりとした声が耳に絡みつく。息遣いもあらく、僕の腰まである僕の髪が揺れている。

「……そこが好きなのはお姉様では?」

「ふふ、そうかもね」

 僕が声で制すれば、イレーナはするりと手を引き抜く。彼女は僕を自由にするが、僕に嫌われることを恐れている。矛盾するが、そうみたいだ。

 一度、僕がむすっとしたら彼女が泣きそうな顔になってしまったことがある。そばかすの顔を歪め、ごめんなさいと泣く顔は、僕の胸を騒がせるには十分だった。

 ざわつく胸を抑えるために、今にも涙がこぼれてしまいそうな彼女のために、僕はイレーナをぎゅっと抱き寄せた。髪につけている香料の良い匂いが漂い、僕は酔った。彼女に酔った。

「下もはき替えるのよ」

「はい、イレーナお姉様」

 彼女は僕の返事など聞かずに、既に下着に手をかけている。紐で結ばれたそれを、しゅっとほどき、はらりと取り去ってしまう。朝の冷えた空気に触れ、僕は委縮する。

「寒いものね」

「は、い」

 耳元で彼女が笑うように囁くと、僕の身体がカッと熱を持つ。

 僕は全て彼女のものだ。

 使用人とは入ることのできない湯浴みも、彼女と一緒に入る。僕のすべてと、彼女のすべては、お互いが知っている。

 十四歳にしては大きめな乳房も、ちょっとポッコリしているお腹も。全部だ。

 その身体を思い出し、心臓が跳ね、さらに身体は熱くなる。


 そんなことは、彼女にはお見通しだ。

 イレーナは不敵な嗤いをこぼし、わざと僕にふれながら新しい下着をつけていく。手の甲で舐めるようにふれ、内股で手首を返し、腰の横まで僕の肌を滑っていく。

 痺れるれるような快感が這うそこを、僕は拳を握ることで耐える。今の僕は女でなければいけない。表に出れば僕はエルネストではなくエルネスタだ。女性でなければいけない。

 この国に無用な後継者争いを起こさないためにも。


 腰の横で紐を結ばれ、僕は透けそうな程薄い布で隠された。背後から「ふふ」という彼女の満足げな声が漏れ聞こえる。僕を好きに扱うことができて、イレーナはご機嫌だ。

「隠すのはもったいないけど、エルネスタを見て良いのは私だけだから、仕方ないわよね」

 彼女は僕の耳元で、艶やかな声でそう囁く。僕に聞かせたいのだ。自分のものなのだと。そう、僕は彼女の〝モノ〟さ。

 新しいシュミーズを頭からかぶる。絹で作られたそれは纏わりつくことなく、僕の身体を包み込む。レースで飾られたスカートは踝まで届き、緩やかな曲線で僕の男を隠すのだ。

 そして彼女が選んだ今日のワンピースに袖を通す。袖は手首まで覆い、女の子との道をたがえ、骨ばってきた僕の腕を人目から隠す。胸元は鎖骨に沿うようにぴったりと作られて、やっぱり僕の男を隠す。

 踝を過ぎ床をさらうスカートは程良くふくらみを持ち、靴から露出する足の甲を潜ませる。

 腰の高い位置にベルトを着け、女性らしさを強調する曲線を描かせる。まだ十歳とはいえ、女を主張するのは当然の嗜みだ。

 喉が出てきたら、首にスカーフでも巻くのだろうか。僕は女の子でなければならない。

「本当に、綺麗な肌」

 彼女の指が僕の髪をかきあげ、うなじを登っていく。さわられるのも、髪を梳かれるのも、イレーナだったら、嫌じゃない。彼女にも同じことをしてあげたい。

「お姉様の肌も綺麗です」

「ふふ、ありがとう。でもエルネスタには勝てないわ」

 イレーナはこれ見よがしに僕の髪を掬い、口づける。

 それは男性がとるべき行動であり、本来は僕がイレーナにするはずのもの。女として生きなきゃならない僕ができないことだ。

 悔しいけど、まだ時じゃない。僕が十六歳の成人になるまでの我慢だ。

 成人したら僕が僕であることを隠さなくても良くなるはずだ。そうなってくれないと、僕は困る。

「そんなに怖い顔してはだめよ」

 いつの間に僕の正面に回っていたのか、イレーナが口をとがらせていた。まだ化粧もしていない、そのとがらせた唇は薄い桃色で、その桃色がうねって僕を誘う。

 僕の右手は彼女の頬を捉え、左手は彼女のうなじを捕まえる。驚いた彼女の開いた瞳を優しく見つめる。

「僕はイレーナお姉様が好きです。大好きです」

 にこっと頬を緩めれば、彼女は耳まで赤くなる。恥らって視線をそらすその仕草も愛おしい。でも僕は逃がさない。

「んん」

 彼女に唇を押し当てれば、すぐに嗚咽が漏れる。まだふれるだけの、軽いキス。その先は、僕が大きくなってからだ。

 唇を離し、彼女を顔を窺う。潤んで歪んだ瞳が、僕を非難するように細まる。

 首筋を舐められるような快感が這いまわり、うなじが逆立つのがよくわかる。

 イレーナの頬を、掌で味うようにゆっくり撫でる。耳元から唇へ。指先を彼女の唇に差し込む。

「僕はイレーナお姉様のモノだけど、イレーナお姉様も僕のモノだからね。誰にも渡さないよ」

 彼女は返事の代わりに僕の指先に舌を絡めてくる。ちゅぷっとぬめる音が部屋に響く。

 性別すらも手から零れ、落ち何も残らなかった僕にとって、唯一必ず残ってくれる。それがイレーナだ。

 僕はイレーナが大好きだ。

 絶対に離さない。絶対に。


 化粧を施し、口に紅をさした僕は、女の子になっていた。誰もが可愛らしいと思うに違いない、そんな女の子が、鏡の向こうで微笑んでいる。

 僕はこの瞬間にエルネストからエルネスタに変わる。身も心も変わる。変わらなければいけない、

 僕が僕であるためには。

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