1-5: rm -rf *

黒田くろださん」

 黒田くろだ あゆむが自分の机で公開鍵暗号と奮闘している時、後ろから声がかけられた。黒田 歩は本から顔を上げ、その声の方へと椅子を回した。

「あの……」

 なにやら不安げな顔をした後輩が、そこに立っていた。

「なに?」

「消しちゃったファイルを元に戻せます?」

「できると思うけど」

「あの、お願いします」

 黒田 歩は椅子から立ち上がり、ワークステーションが置かれている部屋に入ると、入り口のすぐ横にある戸棚から最新のバックアップのテープを取り出した。

 ワークステーションの一台をシャット・ダウンし、テープドライブのIDを確認すると接続し、ワークステーションを再起動した。

「一ヶ月に一回バックアップしてるから……、半月くらい前のになるけど。それでかまわない?」

「一ヶ月前のでもいいです」

「どういうこと?」

「それが…… 全部消してしまって」

「え? それだと……」

 歩は後輩が使っていた席に向かい、ディスプレイを覗きこんだ。

「あぁ、やっぱりそれか。だけど、ドットを入れてなかったぶん、まだましだったかな」

 歩はテープドライブを繋いだワークステーションへと戻った。テープを変え、巻き戻し、そしてまた読んだ。

「君のディレクトリの内容がバックアップできてないんだけど。ちょっと確認させてもらえる?」

 後輩は、自分がログインしているワークステーションの椅子に黒田 歩を座らせた。

「あぁ、これは……。これじゃぁ、ここでは復元できないよ」

「え? でも、黒田さんがバックアップして……」

「うん、そうなんだけど。ほら、ここ」黒田 歩はディレクトリの内容を示している画面を指差した。「“700”。自分以外は読み書きできないようになってる」

「でも、黒田さんは研究室のスーパー・ユーザですよね」

「そうなんだけど。ここの学科は、ユーザのホーム・ディレクトリは学科のサーバにあるから。ここからはバックアップしようとしても、アクセスが拒否される」

「なんでですか?」

「ここの学科だと、研究室がグループとして設定されているから、グループに対して読み書きのパーミッションがあれば、ここからでもバックアップできるんだけど。これ、君が自分で、自分しかアクセスできないように設定したでしょ?」

「はい、しました。でも、そういうものじゃぁ……」

「それでいい時もあるんだけど。この学科の場合だとなぁ。あるいはホーム・ディレクトリじゃなく、研究室のワークステーションに置いてあったなら、その分は復元できるけど。そうしておいた部分はある?」

「いえ、ないですけど。でも、消えちゃったら困るんですけど」

「困るのはわかるけど。ともかくここだとどうにもできないよ。どれくらいの期間でバックアップを取っているかは知らないけど、技官さんに聞かないと。その条件でもバックアップを取れるのは、学科のサーバの権限を持っている人だから」

「黒田さん、頼りにならないですね」

「そう言われてもなぁ。ともかく学科の技官さんに聞きに行ってみて。ここにあるバックアップには、君の分のデータは含まれていないから、どうしようもないんだ」

「わかりました。今、行っても大丈夫ですかね?」

「技官さんの都合はともかく、君のデータが戻らないと困るだろ? ともかく行ってみて」

 その後輩はお辞儀をしたが、顔には納得できないという表情が浮かんでいた。

 十分かそこらが経った頃だった。黒田 歩はテープを巻き戻し、ドライブをワークステーションから外し、それらを入り口近くの戸棚に戻していた。

「黒田君、聞いたんだけど彼のデータをバックアップしてなかったって?」

 入り口を開けた指導教授が声をかけた。

「えぇ。パーミッションを自分だけ読み書き可能にしていたので」

「でも、スーパーユーザならバックアップできるだろう?」

「そこが問題で。僕は研究室のスーパーユーザですけど、ホーム・ディレクトリがあるサーバーのスーパーユーザではないので」

「それで?」

「彼には技官さんに頼むように言いましたけど。最近のバックアップはなかったんですか?」

「いや、それは聞いていないが」

「そちらに頼むしか方法はありませんけど」

「黒田君にはどうにもできない?」

「どうにもできませんね。今後、グループの読み書きのパーミッションを許可する設定にしておいてもらう以外は」

「そうか。彼は困っているんだが」

「困っているのはわかります。ですがシステムの設計上、研究室からはどうにも」

「わかった。他の後輩にも、そのあたりを指導しておいてくれないかな」

「はい、やっておきます」

「頼んだよ」

 そう言って、指導教授は向かいの居室へと戻って行った。


* * * *


 その日、夕食を食べに出ようとしていた時だった。

「黒田君、気にするなよ」

 後ろから声をかけられた。

「え? あ、はい」

 指導教授ではない、それもさして面識があるというわけでもない教授だった。

「後輩のデータのバックアップを取ってなかったっていう話だけど。聞けば君の責任じゃないだろ?」

「まぁ、研究室からでは手が出せない設定になっていたので」

「だよなぁ。だからさ、気にするなよ。それにとりあえずなんとかなったってことじゃないか」

「はい、ありがとうございます」

 どういうことなのか、黒田 歩には想像するしかなかった。だが、こう言ってくれる人がいることは助けでもあった。

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