誰が攻めるか
大和に急行した高市と仲麻呂は、散り散りになってしまった
讃良は、作戦については何も言わぬ。
ただ、近江方をそのまま西に追いやってしまうという史の立てた計は塗り替えられている。
決戦に持ち込む。勝ち、そののち光を隠す葉を繁らせる幹が伸びぬよう、その芽すら芽吹かぬよう、種から潰す。
この期に及んで、近江方は大友こそが先帝に名指しされた正当な後継者であり、大海人はそれをないがしろにする叛乱者であると思っていた。いや、そう思うのは勝手であるが、彼らは、だから近江が勝つと確信していた。
大和のことは、そういう近江方にはじめて焦りと脅威をもたらした。もしかすると、まずいのではないか、というような気風である。
正当であるから勝つということはない。世がどう判ずるかによって、正当であるか不当であるかは決まる。どのような場合においても、それを決めるのは当事者ではない。
実際、大海人は東からの兵を瞬く間に吸収して四万数千の軍を作り上げたし、動員可能兵力という意味ではもしかすると現時点での近江方を凌いでいるかもしれない。
そうなると、西である。
案の定、西に救援を求めようということに決まったが、それも不和に終わっている。誰がどう見ても近江方は後手に回っており、それにわざわざ力を貸そうという奇特な者は現れぬ。
「いよいよ、こちらに攻めて来るだろうか」
大海人は、いつもと変わらぬ調子で史に問うた。
「は。おそらく、今ごろはもうそれ以外の術はないとして、この美濃に向けて兵を発すべしと大友どのが議を決している頃でしょう」
雨が、上がった。
この小さな盆地は雲が溜まるのか、いつも曇っていて雨が降る。それが上がると、時間によっては
濡れて薄暗くなった緑をそのひとひらが通り過ぎるのを遠望し、大海人は少し笑んだ。
「よかろう。迎え撃て」
ここにきて、決戦をためらう大海人ではない。来るというなら迎え撃ち、ことごとく潰すのみだという気概を見せた。
「高市と仲麻呂がおらぬが」
「それについては、大事ありません」
「兵の指揮をする者は、他にもいるか」
「おります。小さく戦い、小さく勝つ。それならば、あの二人でなくとも」
そこで、
「ほう、ほう」
と妙な声を上げたのは、
「なにか思うところがあるなら、申せ」
大海人は、この妙に明るい男が好きである。品治は鎧も着ぬままの姿で衣の袖に両手を差し入れ、それを差し上げるようにして大陸式の礼をほどこしてから存念を述べた。
「こちらから、攻め進んではいかがでしょう」
「近江に?」
「手勢のうち、一万ほどはここに残しましょう。残る兵を引き連れ、我が君自らが近江に足を向けられませ」
「品治どの。それでは、この不破に拠った意味が――」
「あちらこちらに道の続く、この不破ではございます」
弾むような品治の言葉の調子に、史も、たじたじという様子である。
「しかしながら、この不破にまで近江方を迎え入れれば、戦いに勝ってもまだ近江は近江のまま。負ければ、この不破は我が君を殺す刃そのものともなるのです」
史は、黙った。思考を巡らせているのだ。
どのようにして勝つか。
讃良が、言ったこと。
この戦いにおいての勝ちとは、大友率いる朝廷勢力を近江から追い出すことではない。その壊滅と、大友の死である。
それをしなければならないと、史も考えを改めている。この品治は、はじめからそのつもりであったとでも言うように平然と、こちらから攻めよと言う。
品治の言うことは、もっともである。攻めてくる敵を不破で迎え撃ったとて、その背後に守るべきものなどない。その背後はほとんど全てが、大海人のものなのだ。その事実が覆ることがあるとすれば、大海人が劣勢になることである。
東国や北国にあってこの戦いのゆくすえを見守っているあらゆる豪族どもは、いざ大海人が勝てばその創業を助けたとしてよい目を見るだろうし、劣勢だとなればたちどころにこの不破を越えて大海人軍の背後を突き、とどめを刺しに来るだろう。
つまり、ここにいては、かえって危険なのだ。
その危険を排除するには、こちらから近江に攻め入り、北から順に近江国を大海人のものにしてゆくのが最もよい。
「史どの。攻めているのは、我らなのです。お間違いなきよう」
この物言いが、高市と仲麻呂に悪感情を抱かせ、二人をかえって結束させた。
史はとても冷静な性質である、いや、つとめてそうあろうとしているから、品治の言うことがそのまま彼の思考を染めた。
「兵を」
いちど、目を閉じた。それを再び開き、鋭い声を上げた。
「
「わかった。おれがゆく。明日、すぐに。どうすればよいのか、細かく言ってくれ」
大海人は、立ち上がった。陣幕の中で露を凌いでいる讃良にも、このことを伝えるのだろう。
「さらに」
その背を、史は呼び止めた。これには品治も、おや、という顔を向けた。
「もう一手。これは近江と伊賀の境の山を縫い、大和へ向けます。高市どのと仲麻呂どのはただちに立ち戻り、我が君の軍に参じていただきます」
「それでは」
品治が、口を挟んだ。
「私は、伊勢にでも赴きましょうかな」
「伊勢に?」
「ええ、ええ、伊勢に。我らがこの不破を発ったと近江方が知れば、必ず攻め寄せてくる前に兵を発し、伊賀の山を横切って伊勢の北の端まで出、大回りに背後を突こうとしてくるでしょう」
「それを、お前が押さえるというのか」
大海人は品治がとても好きであったし高市と仲麻呂のために軍事の最高指揮権を与えはしたが、品治自身に軍才があるとは思っていない。だが、
「押さえまする」
と平然と言ってのける品治には何か考えがあるのかもしれぬと思い、
「分かった。兵は、どれくらい要る」
と容れた。
「三千もあれば。山道に大軍を入れても、動かしようがありませぬゆえ」
三千の軍で、何をしようと言うのか。たしかに山深い伊勢北部(のちの時代に伊賀となっている山岳地帯で、当時伊勢国であった地域がある)に大軍を入れてもどうにもならぬが、近江方が背後を突こうと大回りしてくるなら、相応の兵力を向けてくるはずである。
「もうお一方、どなたか兵のことをよくする人にも人数を率いていただき、お付けいただきたい。よろしいですかな」
「わかった。
大海人には、こういうところが多分にあった。品治がそうだと言えば、そうなのである。史に対しても、その歳の若いことなど気にせず、ほとんど言うままのことを取り入れた。
それは、大海人に思慮がないからではない。紛れもない王の器であるからこそ、それができた。
だから彼は品治自らが指揮をするという突拍子もない案をあっさりと容れ、軍の指揮をすることができる者の中でも若く、柔軟な者を選んで付けてやった。
これが、七月二日のこと。
不破の地には一万弱の守りの兵のみを置いて、四万近い軍勢が東へと向かった。途中で二手に分かれ、一手はそのまま東へ直進。もう一手は、南へと折れて伊賀との境の山に入り、大和を目指した。馬を飛ばし、高市と仲麻呂に即時帰還を命じもした。
品治は田中足麻呂と共に数千の兵だけを連れて、伊勢北端の地へと向かった。
はじまるのだ。
攻めるのは、大海人。
勝つというのは、近江朝廷を滅ぼし、大友を殺すこと。
今、獣はその牙を薄靄が鈍らせる夏の朝の陽の下に剥き出しにし、唸り声を上げた。
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