天皇が、死んだ。

 その知らせは外征のために筑紫に集っていた朝廷のうちに、文字通り雷電の如く走った。

 しかし、大規模な土木事業やいくつもの宮殿の建設などにより民の不満を買っていた天皇の死が国の歩みを止めることはなかった。ただ、天皇その人を知る者だけが、生前の心優しさやあの穏やかな微笑みを思い返し、涙した。


 葛城とは、今なお人に簒奪者とは言われていない。むしろ、英雄のような扱いを受けている。誰かの築いたものを奪うことなく、彼は、王になるべくしてなった。自らを王たるべき者であると思い定めておきながら、幾度もそうなる機会があったにも関わらず、いつまでものままでいたのは、鎌がかつて彼に施した教育による。王となるべきときでないときに王となったら、人はそれを認めぬ。必ずその正当性に非を鳴らす者があらわれ、自らがそれに取って代わろうとする。それを避け、まことの王になるべく、彼はじっと身をひそめていたのだ。

 無論、この獣がただ大人しくしていたわけはない。専横はなはだしいとして蘇我を討ち、無駄であるとして豪壮な墳墓を取りやめ、税の仕組みを改め、各地の通行のために街道を拓き、人の日々の過ごし方にまで眼をやり、天体の運行を観測する知識を持たぬ者でも時間というものの中で生きることができるようにし、我が国が諸外国の中で生きてゆくことができるための道を模索し、交誼のあった百済を救って唐を打ち滅ぼさんとして国力を結集したように、度々彼はその牙のきことを示してきている。この時点になれば、なろうと思えば王になれる彼が王とならず、太子の位置に甘んじているということこそが、彼が純粋に国のことを考え、そのためだけに我が生を費やそうとしているのだという人の評の裏打ちになっていた。

 やはり、彼は、癖のようになっているのか、天皇が死んでもなお天皇にはならなかった。

 ──唐のことが、済んでからだ。俺が王になっても、国が亡いのでは、意味がない。

 と思い定めていた。そのため、彼は、天皇の座には就かずにまつりごとを主体的に取り仕切る称制という形で、国内の実権をおおっぴらに握った。


 その彼は、今、天皇の亡骸と共に、船の上にある。

 彼が鎌らに託した不在の間のことというのは、このことである。

 名実ともにこの国の最高権力者の右腕となった鎌が、遥か海の向こうにはもう百済や高句麗のある陸地がある浦に集まった百官の前に立った。大海人おおあまととして猫もその隣にいる。控えて、芦那と讃良も。

 時は八月の頭。まだなお暑い。人々を蒸らすような海風が吹き付けている。その風を少し聴き、鎌は口を開いた。

「この風は、百済から来た」

 後れ毛が額にかかり、それが暴れている。

「我々は今、かつてない危機に瀕している。百済は亡く、唐は高句麗を平らげようとし、頼みである天皇も隠れられた」

 風が押し流す白雲に、天皇の顔を重ねるようにして目を細めた。

「天皇は、突如として訪れた死の淵で、太子に語られた」

 無論、でっちあげである。だが、これは悪ではない。善悪がどうのというような場所に、既にこの獣どもはいない。これは、人を導くことのできる国を作る作業なのである。そのためには、ささいなでっち上げなど、何ほどのこともない。

「いよいよ豊璋も百済に帰り、かの地でその血に連なる福信将軍と意を合わせ、唐の背後を突かんとしている。わたしは道半ばで死ぬが、あなたはわたしの死に涙し、足元の土をその目に映してはならない」

 風が吹いているにも関わらず、静かであった。誰もが、その風の中の鎌の声に、耳を澄ませているからであろうか。

「映すのは、海を。その向こうを。そして、我が国を。民を。それを導く、光を」

 誰かが、鼻を啜った。こんな季節だから、寒いはずもない。

「ねえ」

 讃良が、歩を進ませて口を開いた。ねえ、という呼びかけの語は、「」というものが長音化して生まれたものであるということは分かっている。しかし、それがいつから用いられているのか、筆者がいくら調べても分からぬままである。古語などでは「なう」とされることがあるように思うが、それを「ねえ」と訓じてよいものか、あるいは全く別の語であるのかもよく分からぬ。だが、このとき、讃良は、そう人に呼びかけた。まだ若い娘である彼女が進み出てこのような場で発現をするのは、べつに不自然なことではない。例は少ないとはいえ、女性が王になる世なのだ。無論、儒教などが輸入されるには遥かな時を待たなければならないから、この当時というのはこのようにして女性が男性の言葉を遮ってその前に立つということは後の時代ほどの違和感はない。

「ねえ、あなたたち。我が祖母は、この筑紫からこれからまさに海の向こうのことを為そうとするとき、隠れてしまった。我が父が、海の向こうのことを託し置くというその遺命に背き、ここにおらぬのは、何故と思いますか。我が父が、己が母を敬わぬからか。天皇を蔑むからか。いや、違う」

 この場にいる誰もが、これまで大人しく人の影に隠れるようにして過ごしていたこの貴人の娘がこれほどまでに強い言葉と声と眼を持っているということに呆気に取られているが、おそらく、最も驚いているのは、芦那であろう。

 彼女は、讃良がまだ幼い頃からその側にあり、ずっとその成長を見守ってきた。むしろ、彼女が養育したようなものである。その彼女すら知らぬ間に、讃良はひとりでに獣になっていた。

 間近で、葛城を、鎌を、猫を、その為すところを見てきたからか。

 いや、芦那とて、ここで驚くことのできる立場ではないはずである。彼女は讃良などよりももっと、葛城の人格を作り上げてきたではないか。その意味での獣の母は、讃良の言うことを、讃良の姿をした何か別のものが発するもののようにして目を丸くしながら聴いている。

「我が父もまた、子であるからです。天皇の遺命よりもなお、子として母を思う心の方が強い。だからこそ、我が父は、ここを一時ひととき去った。この国で長じ、家を持ち、生きていた豊璋が己の血の求めに従って海を越えたように。同じなのです。彼も、我が父も」

 そして、と彼女は継ぐ。

「あなた方も。皆、人の子なのです。だから、我が父がここにおらぬことを、責めないでほしいのです」

 はじめ、鼻を啜る音だけがあちらこちらで聞こえていたものが、はっきりと目に見える涙になった。

「高句麗は今、攻められている。唐がその次に求めるのは、我々」

 鎌が、讃良の言葉を引き取って続けた。

「それを、守るのだ。人が、人であることのできる国を。我らが主は、誰よりも人であるのだ。それが、人を導くことのできる国を創り、守らんとしているのだ。皆、よいか。我らは皆等しく、そういう国に生きているのだ」

 涙が、こんどは声になった。はじめ、風の音に吹き消されるほどに弱く。しかし、誰かから漏れ出るそれはやがて寄り集まり、風をも押し流すほどの勢いとなり、この浦に満ちた。

「私は、長くあのお方に仕え、その心が透けて通っていることを知っている。皆も知ってのとおりのあのご気性。ときにいかづちのように激しきあのお方は今、自らもまた人の子であるということに従い、天皇の遺された言い付けを破ってまで、その喪に従っておられる。その激しさこそが、我らが拠るべき大樹。その雷こそが、我らを導く光」

 異様な空気が充満している。それは、いくら風が激しく吹きつけようとも、この浦から流れ去りはしない。

「待とう。この鎌は、太子のお戻りを待つ。その間に唐が攻め寄せてくるようなことがあろうとも、この鎌の身体をこの砂に打ち付けてでも、それを止める。ここにある大海人どのも、讃良さまも、同じ気持ちである」

 皆、いかに。

 そう鎌が切った言葉が、浦に響いた。

 彼らは、悲壮な覚悟で、声を発した。鎌や讃良、芦那からは、それぞれが何を言っているのかは分からない。しかし、誰もが涙を流し、腕を振り上げ、目を血走らせていた。

 それを見て、確信した。

 ここに、はじめて、国が生まれたと。

 芦那は、思った。

 これを、あの人は、求めていたのだと。

 この天地の間に生きる誰とも違う、あの激しすぎる愛おしい兄は、これを求めていたのだと。

 そのために獣となり、創業の功臣や自らの血に連なる者を葬り去り、そして今この危急の状況において我が母をも葬ることで、人に自らが立つべくして立ったことを認めさせた。

 そうして人はひとつになり、国となる。

 それがひとりでに回転し、人を導く。

 やはり、あの人だったのだ、と思った。

 ずっと昔からそばにいてその耳元で囁き、ときに離れて過ごし、そしてまた共に過ごすようになり、その間には多くのが流れていて、そのぶんだけ自分は年長け、それでも変わらず自分を愛で続ける兄。

 芦那は、葛城によって我が母を殺された。手を下したのは、猫。鎌も賛同し、積極的に推し進めた。讃良ですら、その意味を理解し、むしろ我が力でもってこの光景を作った。

 たすけよう。

 そう思った。

 彼らを佐けることこそ、己が生。

 芦那は、今まさにここに誕生したほんとうの国というものを通し、己の生そのものを見た。それは肌に粟が立つほどに激しく、悲しく、狂おしく、そして美しかった。

 やがてそれは滲み、頬を伝って流れた。

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