言葉にはせぬこと
葛城や鎌は、忙しい。当時、国と言えば現在の我が国の領土のうち、北海道と東北と南西諸島を除いた地域を指す。特に北方に対して葛城らが打ち立てた政権は度々兵を発し、「えみし」と彼らが呼ぶ異民族の鎮撫を行った。
単なる侵略と見ることもできるが、これまで政権がそこに手を伸ばしてこなかったのは、当時の統治機構がまだ後の世のものほど強靭ではなく、あまり遠くにまで勢力を伸ばしても、そこからもたらされる租も庸も調も輸送経路が整っておらず、人足の負担などを考えると明らかに割に合わないから、統治を維持できないという背景があった。今回、北伐を実行するにあたり、結局、租税の輸送費はそれを輸送する者あるいは定めた国司の自己負担としたわけであるが、そのように反発を招くようなことをしてでも北方に手を伸ばさなければならなかった理由がある。
かねてから膨張政策を取って領土を広げていた唐が
それを捨て置き、大陸と、葛城や鎌が我が国と呼ぶ大地とを繋ぐ橋のようになっている半島が唐に支配されれば、当たり前のようにして海を渡ってくることは明白である。
当時の人の大陸に対する心理的距離は飛行機で一時間もかけず移動できる現代の我々のそれよりも遥かに近い。そこで起きる変事は、我々に置き換えればたとえばアメリカの株価の話題くらいには身近であった。だから、
「都を、遷した方が良いのかもしれぬな」
と、葛城は言う。葛城というのはほんとうに遷都が好きな男で、無論彼の一存だけで決まったことではないにせよ、これまでで既に飛鳥、難波、また飛鳥と遷都をしている。それを、またさらに遷すというのである。
「それは、得策ではありませぬ」
鎌はただちに止めた。先ごろ造営した雷岡の宮殿は、案の定、不満を爆発させた民によって焼き払われている。北の鎮撫や過酷な賦役や税のこともあり、このままではこの国そのものがひっくり返りかねない。葛城とてそのことは分からぬわけではないだろうが、どういうわけか庭の瓜の実の出来を見るような目で、それを見ている。
またひっそりと忍んだ芦那の閨で、葛城はそのことを言った。
「あまり、無理を通されますな」
と二十代の半ばになっているであろう芦那は困った顔をした。
「
葛城は
「はい、あにさまの血を受けておられるだけあり、たいそう聡くあられます。ゆくすえは、どなたの
遠い未来のことを想像するように、芦那は言った。讃良はまだ九歳である。将来が楽しみだと言うわけであろう。
それを聞いた葛城の目が光った。
「決まっているだろう」
芦那が、小首を傾げた。
「どなたの妃になさるのです」
「言わぬ」
葛城は、そっぽを向いてしまった。
「では、聞きませぬ」
「なんだ、聞かぬのか」
いつもの芦那なら教えろ教えろとせがみ、葛城は結局胸のうちを明かしてしまうものだが、このときはいたずらっぽく笑い、聞かぬと言う。
「なんだ、聞かぬのか」
もう一度、今度は拍子抜けしたように言う。こうなると、言いたくなるものである。
「いや、実はな」
と言う葛城の唇を、し、と押さえ、芦那が微笑む。
「駄目。わたしに言わぬ方がよいと思うのは、今わたしに言えば、わたしがそれに背くようなことを言い、お考えを覆すとお思いになるから」
「どうしたのだ、芦那」
「なんにも。ただ、たまには、あにさまの可愛い芦那でいたいと思ったのです」
くくと喉を鳴らして笑い、白い腕を葛城の首に巻き付けた。
芦那は、分かっている。葛城が、讃良を誰の妻にするつもりなのかを。しかし、それは、まだ言葉にせぬ方がよいことなのだ。葛城という男は単純だから、ひとたび口に出してしまえば、もうそのことを推し進めるほかなくなってしまう。
今は、それよりも先に、しなければならぬことが多くあるのだ。讃良のことは、それが終わってからでよい。
芦那は、そのつもりで、讃良の側にいる。讃良は、いわば、芦那の分身であった。
葛城が今後天皇となり、死した後にその座に就くのは嫡子である伊賀だろう。しかし、葛城は、自らの弟とした猫に後を襲ってほしがっている。もし、伊賀が為政者としての才を持たぬまま長じれば、猫が伊賀を滅ぼすことになるのだ。
讃良は、そのときの切り札。
おそらく、鎌ですらも考えぬほど先のことを、葛城は考えている。具体的な政策や統治のことではなく、この国に継がれるべきもののことを。自らの後に立つであろう全ての王が歩むことのできる道を。
それが分かるから、芦那はこのときは何も言わなかった。葛城の口からそれが言葉になって発せられるのは、もっと後でよい。
鎌が見せ、葛城が歩んできたあらたな国は、大化のとき産声を上げた。それから十年余り。今、葛城は、国が這い歩くようになっているのを感じている。もう少しで、なにかに掴まり、立つだろう。
歩きだすまで。
歩きだすまで、導いてやらねばならない。そのために使えるものは、何でも使う。葛城の母がまた再び天皇となるとき、葛城は鎌に問うた。これは人の道として正しいかどうか。鎌は、人の道でなくとも、王の道というものがあると答えた。あれから、その通りに歩んでいる。
あらたな宮殿の造営は、天皇の名のもとに。
北の鎮撫や征伐も、遠国に課した租税も。それについて民がどれほど不満を募らせても、葛城は痛くも痒くもない。
我が母でありながら。それができる場所にありながら自ら天皇にはならず、彼女を再び天皇に据えたのは、そういうことである。
国が国として歩くことができるようになるのを導いてやるため、葛城は、我が母を贄として差し出したのである。
今少し。もう少しで、それは成る。
芦那とじゃれ合いながら、その瞳に映る自らの姿を見た。それはひどく歪んでいるようにも見えたし、とても澄み切っているようにも見えた。どちらにしろ、次にすべきことは決まっている。
様々なことを天皇の名において行ってきた葛城と鎌であるが、こんどは葛城の名において行うことがある。
そのことを、鎌と猫を交えて話した。夜を通して話は続き、朝になり、昼を迎える頃にようやく定まった。葛城の自室から出てきた三人は、目の下に隈を張り付かせ、ひどい有様であった。
これから彼らがするのは、それほどの大事である。
有馬皇子。葛城と敵対し、その意を受けた猫により葬り去られた
それを、待っていた。まだ前の天皇が存命のころ、葛城は有馬をいつか殺すつもりで、猫にその姿を見せてもいる。
それを実行するときが、来たのだ。
「こんどは、猫。お前の出番はない」
話の中で、鎌が言った。前の天皇のように、影に屠るというような手段は用いないらしい。
「こんどは、太子の御名において、正面から」
「戦いか」
「それは、避けた方がよろしかろう」
当然である。百済がどうなるかと冷や冷やしている中、国内で戦いを起こすわけにはいかない。
「ならば、鎌どの」
猫は、かつて見た有馬皇子の聡明そうで清潔な容貌を思い出しながら、眼を光らせた。
鎌は、それに応えて頷いた。
暗殺でもなく、戦いでもない。それならば、方法は一つということになる。鎌はよほどこの方法が好きだったのか、葛城という男を
もし、これが上手くいけば。民の不満の依り代のようにして有馬皇子が担ぎ上げられて牙を剥いてくることもなくなるし、葛城がそれを行うことによって、葛城が権力の代執行者であり、天皇に次いでこの国で尊いものだということを明らかにし、正道を敷くものであるということを明らかにできる。
そして、国は、葛城を中心にして団結を見せる。その地盤が強固であればあるほど、唐も手を出しにくくなる。
それが、基本的な眼目。彼らが夜通し、昼まで話し合ったのは、その具体的な手段。
くどいようだが、古代というのはひょっとして、現代よりもなお「世界」という概念が緩やかで、近しかったように思う。無論それは限られた統治階級の者の間に留まり、民はたとえば弥生時代の終わり頃と大きくは変わらぬほどの社会水準しか持たなかった。だが、この物語に登場する彼らの少し前くらいから、いわゆるヤマト王権あるいは朝廷は、国際社会の中の我が国というものを明らかに意識して統治を行っていた。
聖徳太子の頃に興った、天皇中心の国作り。蘇我氏の台頭。都の造営。そしてあの日、槻の下で鎌の差し出した王の道を歩むための
葛城や鎌がこれまで
だからこそ、彼らは等しく獣になることができた。いや、時代がそれを求めたからこそ、彼らは獣としてこの世に遣わされたと言うこともできよう。
語りが長くなった。葛城たちに目を戻す。
葛城は鎌と猫との話を終えると、疲れて眠りこけ、夜になってむくりと起き上がり、芦那のもとをまた訪ねた。
「まあ、ひどいお顔」
芦那は驚いた素振りを見せたが、つい先ごろ訪ねてきた我が兄が今また来たというのが、自分を求めてのことではないと分かっていた。だから、何も言わず、葛城が口を開くのをただ待った。こんどは、葛城に、言わせようというわけである。
葛城は、
やがて、葛城は言った。
「紀の湯は、たいへんによいそうだな」
何の話か、と思った。思って、はっとした。
先ごろまで有間皇子が隠棲していた地。そこからあの清潔で聡明な若者が戻ったとき、天皇はとても喜んだという話が人の噂にのぼっている。天皇にしてみれば、先帝の子である有間がこの飛鳥に戻ることで長年のしがらみや今後の憂いが無くなったように思え、それをこそ喜んだものであろうが、人はどう思うか。
「我が母も、有間よりその話を聴き、是非にも紀の湯に浸かってみたいと言ったとか」
事実である。芦那は蒼白になりかけている顔に力を入れて色を取り戻し、にっこりと笑った。
「あにさまのははさまも、もうすっかり良いお歳。きっと、湯で休まれれば、そのお疲れも癒えましょう」
その返答を聞いて、葛城は満足そうにした。そして、ちょっと芦那の顔色を窺うようにして、言った。
「もし、今俺の考えていることが成ったとしても、お前は俺を蔑みはせぬか」
それに、芦那は笑って答えた。
「鎌や猫などにとれば、あにさまは、この国の王たるべき人」
そこで、言葉を切った。
「お、お前は、違うのか」
葛城が急に不安そうな顔をするものだから、芦那は思わず吹き出した。そして、
「わたしにとってのあにさまは、ただのあにさま。いつまでも、そう」
と葛城のよく通った鼻筋を、ひとつ突いた。
葛城に言葉を出させたり出させなかったりするように、芦那もまた言葉にしたりしなかったりする思いというものがあるらしい。
だが、それが何であるにせよ、この妹というのは自らの意思でもって葛城を助ける最も強力な賛同者であることは疑いようがない。
斉明天皇四年十月十五日、六十五歳になる葛城の母である現天皇は、有間皇子からその湯のよいことを聞いた紀の湯に自らの湯治に赴く。日頃のお疲れを癒すため、として芦那の勧めがあったものであろう。
それが、葛城と鎌と猫が立てた企ての第一段階。変事は、その天皇の不在中に起こる。
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