雲を追い越す
葛城は、三十歳になる歳、飛鳥に新たに宮を造った。新帝の即位を記念して、新帝の名でそれを発布したのだが、これには狙いがあった。
「民は、どう思っているのであろう。俺の新しい世は、受け入れられているのだろうか」
そう思い、それを計ることをした。
それが、宮の造営。
実は、都の中にある昔の天皇の宮というのは、たびたび火災に遭っている。葛城が生まれたときは、葛城の父が天皇であった。それが作った飛鳥の岡本宮という宮も火災に遭っていて、その後造られた板葺宮という葛城の母の宮殿も、火災で焼失している。だから、新しい宮殿を造る必要があったのだ。
宮殿というのは当然ながら造営には大変な労力を要するため、民が徴発される。その不満から、民が放火するのだ。実際のところどうであったのかは諸説あってよく分からぬが、もしかすると権力というものに慣れていない当時の人々なりの、アンチテーゼとアナーキズムであるのかもしれない。
しかし、葛城が王となる国では、そのようなことは許されない。力を持つべきものがそれを持ち、人を正しく導く。まずそのことがあり、その結果生まれ、旋回するのが国であるべきなのだ。
それが、どの程度染み渡っているのか。それを、板葺宮が焼けたのをいいことに、新たな宮を造ることで計ろうとしたのである。
ちなみに、この宮は、かつて焼失した岡本宮のあった場所に造られた。岡本とは、文字通り、岡の麓という意味であり、小高い岡を背負うようにして建つ宮は、なかなかに壮観であったろうと思う。
その岡は、雷岡という。べつに筆者は狙ってこの物語のタイトルを設定したわけではないから、奇妙な一致と言える。なぜ雷岡などという名が付いているのかは知らぬが、とにかく、そういう場所に、雷電を纏いし獣などと鎌に評される葛城が生まれ、そしてそこにまた宮を造るというのは面白い。
はじめ、鎌は反対した。
「新たな宮を、また造るなど。無用の反発を招きます」
「招くからこそだ」
と、葛城は上で述べたようなことを説明してやった。
「
鎌は、葛城の表情を読んだ。こういう表情をするとき、葛城は鎌では思いもつかぬようなことを言い出す。
「しかし、これまで、民は幾度となくその不満のため、宮を焼いて来ましたぞ」
葛城が民を計るように、鎌は、葛城のことを計る。
「それは」
緋色の
「これまでの天皇が、尊くなかったということなのだろう。俺は、天皇とはもっと尊いものだとばかり思っていた」
確かに、そうである。この頃の
現代においての天皇観と異なる点はあるが、この時点での天皇もまた人の代表であったという点においては似ている。たとえばこの後の時代から大平洋戦争終結まで、天皇とはそれだけで神聖であった。たとえば明治維新のとき、薩摩や長州といった改革派の諸藩も、天皇を担ぐことで天下を我が物にしようとはしても、天皇を倒して自らが取って代わろうとはしなかった。天下に野心を持った徳川家康も、豊臣秀吉も、織田信長も、自らが武門の長たらんとはしても、天皇になろうとはしなかった。その前の南北朝時代においても、南朝、北朝どちらの天皇が正当であるかの争いであり、さらに遡って源頼朝が鎌倉幕府を建てたときも、自らが政治を執り行う機構を作ったまでであって、天皇になろうとはしなかったのだ。
つまり、天皇とはそれだけで神聖であり、人がその座を奪うようなことは出来ない、あるいはしてはならないという時代が長く続いていたのである。無論、この国の歴史において綺羅星のように現れる奸雄、英雄どものなかには天皇もまた人であり、自らがそうなってもよいのではと考えた者はいたであろうが、天下に手を伸ばそうとするほどの知性のある人間は、世の人が天皇をどう見ているのかもまた理解している。そういう存在を攻め、その座を奪えば、人心は必ず離れる。それが、革命のたびに皇帝ごと倒すということを続けてきた中国史との違いである。
どちらが良いのかは分からぬが、中国史における帝というのは、神でもその末裔でもなんでもない。建国の英雄であり、その子孫であった。だから、人が無条件にそれを崇める動機が弱いのだ。建国から時間が経ち、国が立ち行かなくなると、また新たな英雄が現れてそれを倒し、自らの国を作ることが出来る。我が国においては、それは無い。
成立がはっきりとしない国であるから、無いということは無いだろう。だが、葛城と鎌がそれまでの
「太子は、かつて仰せでありましたな」
鎌は、古い話をした。
「天皇は、尊い。その子である我も、尊かるべきである。それなのに、蘇我ばかりをもって尊しとするというのは、どういうわけだ、と」
「言った」
「その太子が、いたずらに人を使い、民の力でもって宮を度々造られるのか」
天皇の権威を高めなければならないから、いたずらに民の不評を買うようなことはしてはならない、というのが鎌の理屈である。それを聞いた葛城は、きょとんとした。
「鎌。何を言っている。俺が言うのではない。天皇が言うのだ」
「天皇が」
鎌は、葛城の表情を、また読んだ。例の、眠ったような表情である。
「俺の顔に、何か付いているか」
その表情が僅かに動き、鎌を見た。
「太子も、知らぬ間に歳を取られましたな、と思いまして」
葛城は、吹き出した。
「それを言うなら、お前など、もうすぐ
鎌は、葛城よりも九つ上である。白髪も目立ってきているし、頬や目尻に皺も刻まれている。
「なかなかに、世を造るというのは、大変なことですな」
「分かりきったことを言う」
今度は、鎌の表情が変わった。
「太子は、まだ太子。天皇が、宮を造るという旨を民に仰せになるということですな」
「そうだ。それで、民がどう思うか、だ」
自らの敷いた新たな世が、どれほど世に浸透しているかを、あろうことか我が母を使い、計ろうと言うのだ。しかし、鎌はそこまでは言い当てない。
「承知しました」
とだけ言い、それを実行するための手続きなどを行うため、この飛鳥の都の太極殿へと向かった。
「猫」
その後、葛城は猫を呼んだ。大海人となっても猫は猫のときのまま、葛城の近くの闇にいつも潜んでいる。
「芦那は、どうしている」
「奥の殿で、
猫は、それを見たわけではないが、このところ芦那は天皇の居館の、その血族が住む建物にいる。そこで、讃良という葛城の娘と、よく遊んでいるのだ。讃良は葛城と、鎌が謀って殺した石川麻呂の娘である
「そうか。芦那は、いつも天皇の側にいるな」
葛城は、苦笑した。
芦那はこの飛鳥での新しい政権での新しい暮らしにおいても、何かしら自らの役目を見つけ、動いているらしい。
「怖い女だ」
猫は、答えない。おそらく、まだ猫は芦那のことが好きである。そのことも、おくびにも出さない。
「芦那は、我が母によく仕えているか」
「は。それはもう」
「これで、我が母が評判を落としたら、芦那は悲しむであろうか」
猫は、少し言葉を噛んだ。
「それは、芦那様に、お尋ねなされませ」
「それもそうだ」
葛城は、袍の擦れる音を立て、立ち上がった。
「どちらへ」
「馬だ」
それだけを言い、葛城は出て行った。なにごとかを考えあぐねているとき、葛城は決まって馬を駆って走る。このときも、そうであったのであろう。
馬が速く走るから風が打ち付けて来るのか、風が、馬を駆る葛城に集まってくるのか。どちらにしろ、馬の上では風が吹く。それが、心地よいのだ。風は様々な声となり、葛城はそれら全てを追い越してゆく。
まず、民。それを、早く民にしなければならない。法だけ敷いても、それを守る意味を理解しなければ、民は国民にはならない。
次に、この新たな世を揺るがさんとする者の排斥。蘇我のときもそうであったが、葛城の国造りは、当時の人々からすればあまりに画期的である。それゆえ、反発も多い。要らぬところで足元を掬われるわけには、ゆかぬのだ。葛城は今はまだ心にも身体にも力の満ちた歳であるが、もたもたしていれば、すぐに爺になる。そうなったとき、鎌はもう死んでいるだろう。鎌なくして、世は造れない。そういう、時間の概念に対して、葛城は当時の人の中ではかなり敏感な方であったろうと思う。
それゆえ、急ぐ。
次に、どうするか。
追い越す風の中に、ふと目に止まるものがあり、葛城は馬の足を緩めた。
「これ、どこへゆく」
南に向かう、人の一団があった。それらは、馬上の葛城を貴人と見なし、地に額を付け、言った。
「
「湯か」
牟婁の湯とは、今でも有名な南紀白浜温泉のことである。この当時から、人々はよくそこに湯治に行った。
「気の優れぬ者でもおるのか」
と葛城が言ったのは、先帝の子である
「牟婁への山は深い。気を付けてゆけ」
それだけを言い、葛城は一団を見送った。
民。天皇。芦那、鎌、猫、そして己。それらが住む国。
そういったものが葛城の中で渦を巻いたり固まったりしながら、流れてゆく。ちょうど、彼の上にある雲のように。
馬を駆り、風を追い越すことは出来ても、雲を追い越せたことはない。
そのようなことを、何となく思った。
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