獣の道

 白雉はくち四年の暮れ。

 この国の中枢機構は、全て倭京あすかに戻った。

 難波宮から明け方に出た人の列は、夜になってもまだ途切れることなく続いていたという。それは官、民問わず、ほとんどの者が葛城に従った。

 無論、難波宮に残った者もいる。天皇の側近や妻、皇子などである。そのわずかな人のみを抱擁するには難波宮は広すぎた。唐の国や朝鮮の諸国に倣った造りの街や、豪勢な丹塗りの太極殿なども、そのまま残された。

 年が明ける前の夜、天皇はそのみめである芦那の前に座していた。


「我がみめ

 芦那が、兄によく似た目元を、天皇に向けた。

「俺は、どうして、このような思いをしなければならぬのか。俺が、何をした」

 どうやら、このは、我が妻に自らの鬱懐を打ち明けたいらしい。

「なぜ、人はあの葛城の——」

 と自らの皇太子の真名を呼び捨て、

「——もとへはしり、我がもとを去るのか」

 たしかに、そうである。天皇こそ天皇であり、葛城はそれに次ぐ地位の者である。本来なら、天皇にこそ人は従い、葛城のような気性の者のに従うなどということなど、あるはずがない。天皇は気付いていない。全て、鎌が敷き、葛城が歩む道の途上のことであると。無理もない。誰しも、己こそが一つの座標点であるということを疑いはしない。人間に自己同一性なるものがある限り、己がそこにあることが、まさか他人の歩む道に、それが歩きやすいよう打ち込まれた石の一つであるとは思うまい。だから、天皇がこのようにして苦悩することを、誰も笑うことは出来ぬ。だから、芦那も、困じ果てた顔をしながら、天皇に優しく言葉をかけた。

「あり得ぬことが、起きた。そうお思いなのですね」

「そうだ。これは、あり得ぬことなのだ」

「しかし、致し方ありませぬ」

 絹を鳴らし、芦那は立ち上がった。どうしたのだ、と言いたげな天皇の眼が、その挙動を追う。

「我が君は、太子と、おなじ時を生きておられるのですから」

「どういう意味だ」

 芦那は、ふと微笑んだ。

「言葉の、通りです」

「ま、まさか、お前」

 また、絹が鳴る。

「か、葛城のところに、行くのか」

 芦那までも。

「我が君は、天皇おおきみであらせられる」

 天皇の問いには答えず、芦那は言葉を発した。

「その我が君に人が従わず、太子に人が従う理由わけ

「それが、なんだと言うのだ」

「先ほども、申しました」

 天皇が、葛城とおなじ時を生きているから。それが、答え。

 芦那は、もうそれを言葉にはすることはなかった。その代わりに、獣の油でもって灯された明かりを、吹き消した。


 闇。

 いや、しばしば明るい。

 冬なのに、遠くで雷光。雨が、降るらしい。

 芦那の立てる絹の音が、湿り気を帯びている。

 明滅する闇の中、その音が、天皇から遠ざかっていった。


 新年の賀を述べる儀も、天皇のもとにはほとんど人は集まらなかった。

 ずっと、天皇は、毎朝二十人ほどしか詰めていない太極殿に出て、一日、なにも言葉を発することなく過ごした。大陸の、天子南面す。という習慣に従い、天皇はいつも真南を向いている。しかし、この国の臣も、民も、誰も天皇の方を見ようとしない。それが何故なのか、考えた。


 葛城と、同じ時を生きているから。理由は、それしかないのだろうか。

 あの激烈な性格は、確かに蘇我を倒す牙となり、あらたな世を創る源となった。天皇の名において行った数々の斬新な改革も、あの葛城の激しい性格あってのものであるということを朝廷内で知らぬ者はない。民など、さらにのことに関心はない。なにせ、葛城が、そのようにしたのだ。それまで各地で勢力を増していた豪族に力を与えぬようにし、土地も民も国のものであるとし、まつりごとは全て天皇――という建前――を中心とした統治機構が行う。それは、すなわち、人と政治を切り離す作業でもある。いや、現代でもよく使われる、私人と公人という概念の芽生えとも言えよう。


 そのような男の叔父として生まれたこの天皇こそ、不幸であろう。

 だから、芦那の言うことは正しい。仕方がないのだ。この天皇が生きるのと同じ時を、葛城という得体の知れぬ男が生きているのだから。

「俺に、天皇は、務まらぬということか」

 答える者は、誰もいない。

「ここは、大きすぎる」

 その声は、高い天井に吸い込まれてゆく。

「どこか、俺が暮らすことのできる宮でも作らせ、そこで暮らそうか」


 その葛城は、芦那が呻き声を上げてしまうほどの力で、強く自らの妹を抱き締めている。背に回った掌が腰の線を確かめ、そのまま上体へ。芦那の身体が、その自然な動作に反応を示した。葛城の掌は、芦那の胸を通り過ぎて肩までゆき、さらに両の腕へと伝ってゆく。芦那は、そのあまりの心地よさに、肌を粟立てた。

 そして、掌は、掌へ。

 強く、握る。

 哺乳類は、こうすることで、脳内に快楽物質を分泌する。オキシトシンと呼ばれるそれは触れ合いホルモン、快楽ホルモンなどという別名があり、我々が生きる上で必要不可欠なものである。それが、互いの脳内に満ちてゆく。

「あにさま」

 芦那の高揚した吐息が、白くなって倭京あすかの空へと消えてゆく。

「芦那」

 葛城の声は力強く、確かである。その声で、こう言った。

「やっと、帰ってきたな」

 芦那は、葛城のため、自ら望んで天皇のもとへと行った。その役目は、終わったのである。二人は無論、離れ離れの数年間もこっそりと会い――というより葛城が放胆にも難波宮の奥の殿に忍んでゆくのだが――、逢瀬を重ねてきた。しかし、これで、晴れて芦那は、ただの女になったのだ。

 二人が、言葉少なく手を握り、互いの眼に自らの微笑む姿が映るのを見ているのを、見守る者があった。

「――猫」

 それに、芦那が声をかけた。

「いつまで、見ているのです」

 猫は闇から姿を現し、平伏した。

「これよりは、ここが、都です。都というところが、どういうところか、分かりますか」

 猫は、考えた。考えて、答えた。

「政を、行うところです」

「そうですね。では、政は、誰が行うのでしょう」

「天皇が」

「その天皇は、都には来たくないと仰せでした。困りましたね」

 猫も、だんだん、呼吸が分かってきたらしい。これは、芦那の得意な、なのだ。だから、

「天皇も、太子のもとに人が集まり、御意に背いて都がうつってしまったわけですから、さぞ、お嘆きのことでありましたでしょう」

 と答えてやった。

「そうなのです。あまりのお嘆きように、、心配です」

「病などに、お倒れにならなければよいのですが」

「そうですね。猫。わたし達のことなど見ていないで、もう、お行きなさい」

 猫は、それきり気配を消した。

 あとは、葛城と芦那が、激しく互いを求め合う音のみが、闇に残った。



 再び、天皇の話である。

 彼は、皇位を退くつもりであった。このような場合、葛城に逆らったり、存在について疑問を持たれた者がどうなってきたのか、ようやく知覚したのだろうか。

 天皇のいる難波よりもさらに北、淀の川を上った先にある山碕やまざきという地に、隠棲するための宮を作る算段をすることのみが、楽しみになっていた。そして、急ぎもしていた。

 だが、遅かった。

「都を遷すことで慌ただしく、新年の賀を述べるのが、すっかりと遅くなりました」

 現れたのは、猫、いや、葛城の弟となった大海人おおあまとである。もう、二月になろうとしている。天皇は、それで、自らの運命を悟った。遅かったのだ。隠棲をするのが。いや、葛城という男が何者であるかということに気付くのが。だから、天皇は、自らを待つものを、そして葛城という獣とおなじ時を生きた、自らを受け入れた。

天皇おおきみにおかれましては、つつがなくお過ごしでありましたでしょうか」

 天皇は、答えない。代わりに、竹簡を取り出し、それに何事かを書き付けた。

「これを、に」

 猫は床に両膝をついたまま天皇の近くへとにじり寄り、それを受け取るため、うやうやしく捧げるように両手を挙げ、受け取った。受け取るとき、猫は僅かに立ち上がろうとして、よろめいた。よろめいて、天皇の身体に、捧げ挙げた手が触れた。

「これは、ご無礼を」

 猫は手に受けた竹簡を捧げたまま、床に頭をつけ、詫びた。

「よい。確かに、渡したぞ」

「かならず、お渡し申し上げます」

 天皇は、うん、と頷き、太極殿から去った。


 それからしばらくして、白雉四年の十月、天皇は死んだ。

 寝具や衣は乱れ、腹を掻きむしったような具合であったという。

 病であったとも、己が境遇に耐えかねて憤死したとも伝えられるが、実際のところはよく分からない。

 この正月、草をかき分け、冬の朝に湿る落ち葉を踏みながら歩く猫のみが、ほんとうのことを知っている。

 猫が今歩いている道は、獣しか通らぬ道。

 それを、何の気なしに、そして驚くほどの速さで、進んでゆく。

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