流れる

 この時代の人々の暮らしというのは、たとえばこれより数百年前の弥生時代後期の人々の暮らしと、さほど変わらなかったであろうと思われる。全く同じではないが、今よりも天と地の間は近く、人はただ日々を生き、夏の前には稲を植え、秋にはそれを収穫する。冬の間は道具を作り、春になればまた苗を作る。男と女があれば互いに好き合い、そして子が生まれる。


 葛城は、わりあい気さくな方であった。猫一人を供にして当時は超高級品であった馬にまたがって宮門からふらりと出、田や原野を駆け回ることがある。

「猫。よく見ておけ」

「はっ」

 猫は、猫という名を葛城に与えられておきながら、その性格は犬のように従順である。葛城の言うことなら何でも素直に聞いた。葛城のためと思えば、どのようなことも出来た。もうすっかり大人になっており、葛城よりも手足が長くなってしまっているが、時折見せる笑顔は少年の頃と変わらない。

「これが、国の姿だ」

 葛城の視線の先には、尻を突き出して田に屈み込む者の姿があった。日差しが、稲の緑を鮮やかにしていて、風が、田に不規則な絵を描いている。

「国とは、地だ。地とは、実りだ。実りとは、人だ。それがあってはじめて、国なのだ」

 葛城は、よくこういう感傷的なことを言う。きりりとした太い眉毛の下に光る、石を割るくさびのような眼を細めている。

「間違えるな。国とは、決して天ではないのだ」

 蘇我のことを言っているのだろう、と猫は思った。猫も、言ってみれば蘇我に縁のある身である。彼は渡来人の子であり、父は入鹿に抱えられ、仕事を与えられていた。だが、葛城が入鹿を討ったあと、死んだ。それに、猫には妹がいたが、猫も今それがどうしているのかは知らない。葛城が、猫の妹の嫁ぎ先を世話してやったから、難波宮のどこかで高い位の家の宮人くにん(豪族などの他家から出される、女性の使用人のこと。正式な妻とはならないが、多くの場合、主人の手が付き、子を産んだりする)にでもなり、不自由なく暮らしているのだろうと思い、ことさら気にすることはなかった。

「伊賀のことだがな」


 伊賀、というのは、葛城の子のことである。葛城はこの時代の貴人の例に漏れず、あちこちに女がいて妻が多いが、伊賀はその母の名が伊賀という名であったから、そのまま葛城は伊賀と呼んでいた。母は采女という官職で、貴人の家の世話をする使用人のような女であったが、それに葛城が手を付けて伊賀を産ませたというわけだ。葛城は妃との仲が良くなく、子が無かったから、これが、第一皇子となる。この年で、五歳くらいになるはずだ。

「つくづく、思うのだ」

 猫は、聴くのが上手い。無口なだけかもしれぬが、猫が何も言わずただ首を縦に振っているのを横目で見ているだけで、例えば鎌などと話しているのとはまた違うことを葛城はどんどん話してしまうのだ。

「俺がもし天皇になれば、あれが俺の後を継ぐのだろうか、と」

 猫は、葛城の言う意味を汲もうとしたが、なぜ葛城がこのように悲しそうな顔をしているのか、分からない。

「国は、人があればそれで成る。上に立つ者など、どうでもよいのかもしれぬ」

「主上は、あらゆる人の上に立ち、この国を治めてゆくべきお方です」

「鎌のようなことを言う」

 葛城の表情が、少し柔らかくなった。

「上に立つべき者が上にあるなら、それでよい。だが、そうでない者が人の上に立ち、世を統べるとしたら、どうだ」

 猫は、答えることが出来ない。それを認めてしまえば、話の流れとしてはもし葛城の皇子の伊賀が凡愚であったとき、大変なことになるではないか。


 また、風が吹いた。それが田に屈む人の衣の端を弄ぶのを、葛城は見ている。その人が葛城と猫に気付き、胸の前で手を組み、礼をした。それに葛城は手をひらひらと前後に振る仕草を見せてやっている。

「猫。鎌は、俺を天皇にさせないように今の天皇を立て、その周囲に内麻呂や石川麻呂を置き、そして今度は俺を天皇にすると言って内麻呂も石川麻呂も殺した。いったい、どういうつもりなのであろうな」

「鎌どのは、主上が私心をもって蘇我を討ったのではないことを世に知らしめたかったのでしょう。そのため、今の天皇を立て、内麻呂どのと石川麻呂どのを置いた」

「それが不要になれば、殺すのか」

「彼らが、己をよしとし、勝手に心を持ち、主上を亡き者にする。そういうことを、恐れたのでしょう」

 葛城は、驚いたような顔をぶら下げて猫の方に向けた。

「猫。お前、いつからそれほどにものが見えるようになった」

「べつに。猫は、ただ、主上やその周りにおられるお人をのみを見ております」

「芦那のことも、な」

 葛城がいたずらっぽく笑うので、猫は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

「なあ、猫」

 昔から好んで着ている葛城の緋色の衣が、はためいた。同じ色の衣を着、あのけやきの広場で鬱憤を晴らすかのようにくつを吹き飛ばし、それを鎌が拾ったあのときから、もう十年近い月日が流れている。葛城も、もう三十になろうとしていた。眼の下には疲れを示す黒っぽい線がうっすらと浮き上がり、頬から口の端にかけては昔には無かった線が走っている。そういう変化を、猫はずっと見てきている。声も、昔に比べれば、少し落ち着いたような気がする。出会った当時まだ少年であった猫ほどその変化は目まぐるしくはないにせよ、人である以上、時の中にいることに変わりはない。だから、葛城もそれに合わせ、少しずつ変わっていっているのだ。

「おまえ、俺がこの先天皇になり、そして俺が死に、伊賀が人の上に立つべきでないとお前が思ったときは、お前が天皇になれ」

 こういう、突拍子もない着想は、昔と変わらない。いつもなら、猫は苦笑するのみであったが、このときは違った。葛城の様子が、冗談を言っているときのものとは明らかに違うのだ。

「どうだ、猫。やってくれるか」

「伊賀様は、とても賢いお子。もし、この猫が主上よりも長く生きることがあれば、命ある限り、伊賀様をおたすけします」

「その頃には、おそらく鎌もおらんことであろうしな」

 葛城は笑った。しかし、すぐ真面目な顔に戻り、また言葉を紡ぐ。

「なあ、猫。わかった、とのみ言うてはくれぬか。俺の言うことが、分かったと」

 猫は、答えられない。わかった、と言うことで、とんでもないことを約束することになるような気がしてならないのだ。

 田の向こうに、槻の木。その枝から鳥が飛び立ち、葉を揺らす音。田のそこここに、ぽつりぽつりと浮かぶ人が、互いに呼び合い、なにかを話す声。どうやら、雨が降りそうだということを教え合っているらしい。民は、さすがに天気のことにさとい。東の山の方から真っ黒な雲が湧き上がり、それが風をもたらしていることに、葛城や猫よりも早く気付いていたのだ。

 今、この場は晴れていても、やがてすぐに雷雨になる。



 遠雷。

 低く、獣の唸るような。

 ようやく、猫が口を開いた。

「わかりました」

 それを聴いた葛城が、ぱっと笑った。

 なぜ、自らの子のことを言うのに、鎌ではなく、自分なのだろうと猫は不思議であった。だが、何を言いたいのか分からなくても、なんとなくは分かる。そういうものなのであろう。

「お帰りなされ。雨になりまする」

 田にある人が、二人に声をかけてきた。馬で出歩く者などそういないから、誰もが葛城が貴人であることが分かるのだ。無論、おう、と間の抜けた返事をしながら白い歯を見せて笑い、

「お前達も、早くしまえよ」

 と気さくなことを言って手を振る者が、天皇の皇太子であるとは誰も思わぬが。

 葛城は、おそらく天皇になる。鎌は、それを創る。だが、鎌は自らが天皇になることは決してしないだろう。もし、鎌が年下の葛城よりも長く生きるようなことがあったとしても、鎌は葛城なくしてはこの世に自分という存在を定義付けることが出来ない。だから、葛城が死んだ同じ日に、鎌もまた死ぬのだろう。

 どちらにしろ、あとに残るのは、伊賀。それ以外にも、葛城には子が多い。子だけでなく、あちこちから、どこの馬の骨とも分からぬような者が天皇に連なる者として名乗りを上げ、自ら力を手にしようとし始めるかもしれない。


 葛城と鎌が造ったもの。それを造るということが並々ならぬことであるということは、この二人をよく知る猫なら分かる。しかし、今日の口ぶりからして、どうも葛城は、自分が特別なことをしていると思っていない、あるいは思わなくなっているように猫は思うのだ。人の、そのままの姿。それが集まれば、国とは勝手に出来る。だが、ただの人が、人を統べることは出来ぬ。たとえ日照りの年であったとしても、他人の田まで自分の田になれば、自分の実りは多くなる。今、猫の目の前にある人は、誰もが声をかけ合い、稲の世話をしているが、それが永久に続く保証など、どこにもないのだ。

 なにせ、あれほど激しく今この瞬間のことに全精力を注入してあらゆる事象を打破してきた葛城が、未来ゆくさきの話をするようになっているのだ。

 時は、流れている。さっき東の山にあったと思った黒雲は、もううるさい陽と蝉の声をその影の中に飲み込んでしまっている。

 今のこの瞬間が永遠に続くことなど、ありはしないのだ。

 そのようなことを、猫は思った。


 風が強くなった。

 大粒の、雨。

「主上。戻りましょう」

 にわかに大地を打つその粒の音に負けぬよう、猫は声を張り、馬のくつわを取った。

「ああ、猫。戻ろう」

 その声に、雷鳴が重なった。

 天にあったはずの雨が、筋になって猫の額から頬へと流れた。

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